ミトラシュ5
その声調は拙い筆跡を目でなぞり、読み上げるかのようだった。唇が奏でる単調な音の羅列には、全身に漲る「大好き」の一片さえ込められない。想いを伝える為の言葉すら、ミトラシュを裏切る。オフィリアは「大好き」という言葉が分からないという風に怪訝な顔をした。
「ミトラシュ、あなた……話せたのね」
オフィリアの震え声は、言葉尻が掠れている。そこに僅かながら、詰るような響きを聞き取り、ミトラシュは息を呑む。
オフィリアは、ミトラシュが話せないふりをして、オフィリアを欺いていたと思ったかもしれない。
オフィリアが姉弟の会話を望んでいることを、ミトラシュはよく承知していた。
それでも、ミトラシュは話したくなかった。
ミトラシュの言葉は、重ねれば重ねるだけ、ミトラシュの心から遠ざかるようだ。ミトラシュの言葉は必要ない。必要なのは、オフィリアの優しい言葉だけ。
話す必要に迫られるまで、沈黙を守るつもりだった。
ミトラシュの沈黙は、オフィリアを裏切ったのか。オフィリアの眼差しは鋭く尖り、ミトラシュに突き刺さる。
ミトラシュがオフィリアを裏切ったのだとしたら。オフィリアはミトラシュを赦すだろうか。
オフィリアがミトラシュを裏切ったとしたら、ミトラシュはオフィリアを赦せないのに。
「ごめんなさい」
ミトラシュの唇から、知らず知らずのうちに、謝罪が零れ落ちた。耳障りな言葉は頭蓋に反響し、ミトラシュは吐き気をもよおす。咄嗟に両手で口許をおさえ、オフィリアの胸に突っ伏した。
あたたかく柔らかな胸の膨らみが呼吸にあわせて上下する。忙しない呼吸は次第に落ち着き、オフィリアの指先がミトラシュの髪に触れた。おそるおそる、ミトラシュの頭を撫でる。
「謝らないで。ミトラシュは悪くないの。突然、噛み付かれて、驚いてしまったけれど。驚いたのは、あなたも一緒よね」
はっとして顔を上げる。オフィリアは緊張していて、そのせいで頬が強張り、瞼がぴくぴくと痙攣している。
それでも、オフィリアはいつもの微笑みを取り戻そうとしていた。こねあげた表情は笑顔の出来損ないだったけれど、それでも良い。オフィリアはミトラシュに微笑みかけようとしているのだから。
ミトラシュのせいで傷つき、血を流した唇が、ミトラシュの為に言葉を紡ぐ。
「私も大好き。ミトラシュ、あなたは私の大切な弟よ」
ミトラシュが求めたのは、これまで、オフィリアが当たり前のように与えてくれた言葉。惜しみ無く注がれる愛情。それは干天の慈雨だった。彼の虚無に芽吹いたミトラシュの心を、オフィリアは愛してくれる。ミトラシュがオフィリアを傷付けても、オフィリアはミトラシュを大好きでいてくれる。
オフィリアは違う。母とも、他の誰とも違う。オフィリアはミトラシュの獣性を恐れながら、それでも、ミトラシュを愛してくれるのだ。
ーー嗚呼、満たされる。他には何も要らない。
ミトラシュはオフィリアを抱きしめる。やわらかくて、あたたかくて、愛おしい。オフィリアが愛おしい。ぎゅうぎゅうと抱きしめて頬擦りすると、オフィリアが身震いする。ひょっとして、苦しかったのだろうか。潰してしまわないように力加減をしていたのだけれど。腕の中に閉じ込めたオフィリアがもぞもぞと身動ぎ、囁いた。
「でも、でもね、ミトラシュ。私、どうしても、女王になりたいの。女王になって、お母様を国母にしてさしあげなきゃいけないのよ。お母様に見捨てられたら、私、生きてゆけない」