ミトラシュ4
真夜中の静謐に、喉の鳴る音は異様な程に響いた。
馥郁たる芳香があたりにみちる。その肉体の美味を誇示するかのように、艶やかな、華やかな、魅惑の香りだった。
ミトラシュは息を詰め、顔を背けた。血の誘惑は羽を生やして飛び交い、ミトラシュの自制心を揺さぶる。それは心の底に沈めた欲望を揺り起こす。
ーー激しい愉悦が欲しい。獣のように、只管、快楽に耽っていたい。
オフィリアの血がミトラシュを酩酊させ、理性を麻痺させる。官能を鋭敏にし、認識を透明にする。
ミトラシュは顔を傾けた。唇にオフィリアの吐息を感じる。ミトラシュは堪らなくなり、オフィリアの震える口唇を舐めた。玉を結ぶ血を舌先で掬い取る。
恍惚が舌を焼き、骨の髄を駆け巡り、脳天を突き抜ける。思考が弾け飛び、真っ白になる。目の奥に星が散った。とめどなく押し寄せる快楽がミトラシュを丸呑みにする。波にさらわれ、虚空を彷徨った意識が禁足地に落ちた。
生きることの素晴らしさを、そのまま感じられる。これこそが、本来、彼が持って生まれた筈の感覚なのだ。
彼は獲物に牙を立てる。やわらかな、あたたかな、可憐な唇がわななく。
獲物が彼の牙を捥ぎ離そうとするほど、牙の尖は肉へ深く沈みこむ。逃れようとする唇を彼自身の唇で塞ぎ、悲鳴を貪った。獲物の恐怖と苦痛が、彼の獣性を屹立させる。
解放された至福が、彼を満たしている。補食の悦びをじっくりと味わいたい。獲物の肉を喰らう前に、その有り様を愛でよう。そう考えた彼は獲物から唇を離した。獲物の血と彼の唾液が混ざり合い、朱銀の糸を引く。彼は獲物の唇を汚すそれを指先で拭った。
そうして、思い出した。
ミトラシュはこの唇に触れたことがある。お、ひ、さ、ま。丁寧に一字一音を紡ぐ唇の震動を、息遣いを、ぬくもりを、指先に感じたことがある。
オフィリアの優しさは、ミトラシュの記憶に深く刻まれている。
ミトラシュははっと我に返った。オフィリアの青ざめた頬を両手で包み、顔を覗き込む。
オフィリアの唇には、小さな穴が空いている。ミトラシュの牙が穿ったものだ。鮮血は淋漓として白い顎を滴る。その様子を目の当たりにして、しかし、生き血の蠱惑はミトラシュの熱にはならず、体中の血が凍る思いだった。
オフィリアはミトラシュを凝視している。息を殺し、潤んだ瞳がひたすらミトラシュの一挙手一投足を追っている。苦痛に縛られ身動きがとれず、傷付くことに怯える苦悶が、愛らしい顔を歪めていた。
オフィリアは生粋の姫君だ。真の苦痛を知らないから、真の恐怖を知らない。だからこそ、無邪気な少女でいられる。人喰いの怪物に微笑みかけられる。手を差し伸べ、頭を撫で、抱きしめられる。
そんな無垢なオフィリアだから。傷付けて、壊してしまわないように、大切にしよう。そう心に誓った。オフィリアがくれた、この心に。それなのに。
ーー失敗した。うまくやれていたのに、台無しにした。愛し愛されたい、ただそれだけなのに。どうしても、うまくやれない。所詮はおぞましい怪物だから?
心臓が狂ったように鼓動する。
ーー違う。私は悪くない。私は清く正しく、高潔な『人間』だった。私は穢れを退けて生きてきた。誰もが皆、私は高潔な男だと知っていた。弱く卑しくみだらで不道徳な大衆は、私の美徳を崇拝することで救われた。私は彼らを正しく導いた。私は彼らの期待に応えた。私は愛されて然るべきだった。
ーー悪いのは私ではない。私の愛を裏切り、私を恐れた人間達が悪いのだ。
ミトラシュは頭をふった。そんなことはどうでも良い。全ての人々から、おぞましい怪物と罵られ、恐れられ、憎まれようと構わない。
オフィリアがミトラシュを「大切な弟」でいさせてくれるなら。「大好き」でいてくれるなら。ミトラシュはオフィリア以外の、全ての人々を敵に回しても良い。
ミトラシュの世界にはオフィリアしかいない。オフィリアしか要らない。
オフィリアは怯えている。ミトラシュがオフィリアを傷付けてしまったから。
オフィリアも母のようになってしまうだろうか。今際の際、母がミトラシュを、愛すべき我が子ではなく憎悪すべき怪物と認識したように。ミトラシュはもう、オフィリアの大切な弟ではなくなってしまったのだとしたら。
ーー嫌だ。それだけは、絶対に嫌だ。
彼は母を喰らい、人喰いの怪物として生まれた。生きることは喰らうことだった。正真正銘の怪物だった。
そんな彼に、微笑みを、ぬくもりを、優しさを教えたのは、オフィリアだ。オフィリアに名付けられ、彼はミトラシュとして生まれ変わった。オフィリアがミトラシュを人がましく扱ったから、ミトラシュの虚ろな胸中に、人のように感じる心が芽生えた。
心が軋み、悲鳴をあげている。オフィリアを失えば、ミトラシュの心は潰えるだろう。それに伴うのは致死の苦痛だ。
ミトラシュはオフィリアの瞳を真っ直ぐに見つめて、言った。
「姉さま、だいすき」
胡桃色の瞳のなかで、ミトラシュが微笑んでいた。ミトラシュはオフィリアが大好きと言った笑顔を浮かべ、オフィリアの頬を撫でる。オフィリアが「私も大好き」と微笑むのを待っている。
オフィリアが「大好き」と言ってくれなければどうなるか。それは、ミトラシュ自身にもわからなかった。