ミトラシュ3
オフィリアは青ざめた月のような顔をして、両手を胸の前で組み合わせている。その指先が暗闇に降る雪のように白かった。
「いけないことなの。私は、ここで、こうしていては、いけないの。私には、そんなゆとり、無いのよ。こんなところで、こんなことをしていられない。もっと頑張らなきゃいけないの。だから、もう、会えない」
ミトラシュは小首を傾げた。
オフィリアはミトラシュのことが大好きで、ミトラシュはオフィリアのことが大好きで、二人の世界には心から想い合う姉と弟が二人きり。二人一緒にいることが、二人の望みだ。
それなのにオフィリアは、二人は会うべきではないと言う。二人の世界があたかも罪悪であるかの如く。支離滅裂だった。
ミトラシュがオフィリアを凝視すると、オフィリアの大きな瞳は青味を帯びて揺らぐ。少しうつむきがちにして、上眼でミトラシュを見た。頼りなく不安そうな様子が、ミトラシュの目には、凍えているかのように見えた。
寒さに震えるオフィリアを暖めてあげたい。ミトラシュはオフィリアを抱き締めた。二人寄り添うと、お日様みたいに、ぽかぽか暖かい。ミトラシュにそう教えたのはオフィリアだった。
冷えきってた身体は熱を求めているに違いない。ところが、オフィリアはむずがる赤子のように身をよじる。
「嫌! はなして!」
甲高い悲鳴と打音が真夜中に響いた。
ミトラシュはただ、オフィリアを慈しみたかった。オフィリアがいつもそうしてくれるように。オフィリアのあたたかくやわらかな手は、ミトラシュに優しさと、優しさがもたらす安らぎを教えた。
ミトラシュの頭を撫でていた優しい手が、ミトラシュを拒絶するなんて、夢にも思わなかった。
ミトラシュの胸を満たしていた、あたたかくやわらかな何かが、ぐるぐると渦を巻いて流れ出る。生じた空隙は、烈しい飢餓を生み出した。
はめ殺し窓から流れる淡い光線の中に、オフィリアの矮躯が浮き上がる。眩暈がする程、眩く輝く「お日様みたい」な少女。暗闇に沈んだ怪物に手を差し伸べ、慈しみ、無生の怪物に魂を吹き込んだ。
それがオフィリアだ。心優しいオフィリアは、大切な弟を見捨てたりしない。無邪気なオフィリアは、ミトラシュを恐れたりしない。オフィリアはミトラシュを裏切ったりしない。
逸る鼓動を抑えつつ、その囁きの響きを耳で拾う。
ーー信じては、裏切られて。裏切られては、また信じて。何度も繰り返した。もう、うんざりじゃないか。無垢な少女もいずれは海千山千の阿婆擦れに成り果てる。人間とはそういうものだ。
血に飢えた獣が獲物に躍りかかるように、ミトラシュはオフィリアを抱き寄せ、寝台の上に押し倒す。風に煽られる羽のように、オフィリアはなすすべがない。ただ大きく目を見開いてミトラシュを見上げる。胡桃色の瞳にうつるミトラシュは、黒い影に沈んでいた。飢狼のように瞳が光る。
オフィリアはミトラシュの肩を掴み、渾身の力を込めてミトラシュを押し退けようとする。非力なオフィリアの抵抗を力に飽かせて捩じ伏せることは容易いが、オフィリアの身体は小鳥の卵のように、小さくて脆いのだ。ミトラシュが力加減を誤れば、たちまち、粉々に砕けてしまうだろう。
壊したい訳ではない。ただ、信じていたいだけ。
握り潰してしまわないように、おさえる力をゆるめる。オフィリアは力の限り足掻いた。オフィリアに引っ掛かれたところでミトラシュは痛痒を感じないが、オフィリアの爪が傷むだろう。
ミトラシュはオフィリアの喉笛に唇を押し当てた。急所をおさえると、たいていの獲物は大人しくなるものだ。中には死に物狂いで暴れるものもいるけれど。オフィリアは後者だった。
ミトラシュは困惑した。いつものオフィリアではない。一体どうしてしまったのか。オフィリアに限って、ミトラシュを裏切る筈はないのに。どうして、怯えて逃げ惑う人間のような振る舞いをするのだろう。
このまま暴れさせておいては、怪我をするかもしれない。ミトラシュは仕方なく、右手でオフィリアの左手首、左手でオフィリアの右手首をそれぞれ掴み、オフィリアの頭を挟むようにして寝台に押し付けた。たったそれだけのことで、オフィリアは戦慄を覚えたらしい。わななく唇が目の前にあった。暴れた拍子に噛んでしまったらしく、唇に血が滲んでいた。
血が香り立つ。ミトラシュの喉が鳴った。