ミトラシュ2
オフィリアの両手がミトラシュの頬を包み込む。オフィリアの笑顔は目睫の間に迫り、ミトラシュは瞬きを忘れる。オフィリアはそんなミトラシュと額をくっつけ、髪に頬擦りし、やわらかく抱いた。
「ミトラシュ、私ね、あなたとここでこうしていると、心が安らぐの。この閉ざされた小部屋は、私とミトラシュ、二人きりの世界。ずっと、この世界に閉じ籠っていられたら、どんなに楽になるかしら。王妃腹の王女でなければ、私は絶え間のない焦りや怒りに心を苛まれることなく、ごく当たり前に、弟を可愛がる、優しい姉でいられるかも」
オフィリアは目を細める。胡桃色の大きな瞳は殆ど花瞼に隠れている。ミトラシュはオフィリアの微笑を食い入るように見詰めた。
ミトラシュにとって、オフィリアは「ごく当たり前に、弟を可愛がる、優しい姉」そのものだった。
ミトラシュは、鷹揚に微笑みミトラシュを慈しむオフィリアを、焦りや怒りとは無縁の存在だと思っていた。
「なんて、私らしくないか」
オフィリアが言う。オフィリアの瞳の奥を覗き込むミトラシュの頭を抱え、ふわふわの髪を撫でながら。ミトラシュはオフィリアの愛撫に身を委ね、うっとりと目を細めた。
ミトラシュの世界は、ミトラシュとオフィリア、二人きりの閉ざされた世界だ。オフィリアには、この世界の外側に、別の世界がある。しかしそれは、このように居心地の好い世界では無いようだ。
ーー姉様は、ここでこうしていると心が安らぐ。楽になる。姉様はずっと、ここでこうして、ミトラシュとふたりきりで過ごしたい。姉様は、ミトラシュのことが、大好き。
唐突に、オフィリアが彼女自身の頬を張った。見る見るうちに真っ赤に腫れるオフィリアの頬を、ミトラシュは両手で包み込む。優しく撫でると擽ったいらしく、オフィリアは身を捩って笑っていた。無邪気な笑顔、慈愛に満ちた眼差し、穏やかな声調、心地好い愛撫。いつものオフィリアだ。
曽て、暴食、暴力、暴虐を極め、そうして得られる快楽に酔いしれた。それも久しく続くと食傷してしまった。
しかし、オフィリアと共にある悦びは、きっと、尽きることのない快楽だ。
オフィリアを喰らわない。その判断は正しかった。血肉の美味を凌駕する恍惚を、オフィリアはミトラシュにもたらすのだから。
いつか、ミトラシュが大きく、強くなったら。ミトラシュはオフィリアを、二人だけの世界に連れて行こう。このような、仮初の世界ではなくて、誰も立ち入れない、ふたりきりの世界に。
オフィリアはいつものようにミトラシュの頭をよしよしと撫でて、次の来訪を約束して、ミトラシュの許を去る。ミトラシュはオフィリアを見送る。
オフィリアがいなくなると、ミトラシュの世界は半分になる。欠けた世界は肌寒い。ミトラシュはオフィリアの愛撫をなぞる。頭を撫でて、髪を梳かして、頬を包み、抱き締める。オフィリアのぬくもりを思い出し、冷えきった心身を慰める。
ミトラシュはぽかぽかあたたかい、お日様のようだと、オフィリアは言う。離れている間、オフィリアもミトラシュのように、寒さに震えているのかもしれない。
ーーミトラシュの優しい姉様。ミトラシュの世界の半分。
ずっと一緒にいたい。片時も離れず傍にいて欲しい、と、そう願ってやまなかった。ミトラシュのひとりよがりの願いではなかった。オフィリアも同じ願いを抱いていた。
ーー姉様と、ずっと、一緒にいたい。ふたりきりでいたい。
ミトラシュはきっと、その為に生まれてきたのだ。
ミトラシュは目を覚ましてから、眠りに落ちるまで、絶え間なくオフィリアのことを想っていた。その夜、生まれて初めて夢を見た。オフィリアとふたりきりの世界を生きる夢だった。
ミトラシュはオフィリアの帰りを今か今かと待ち詫びていた。真夜中になり、オフィリアはミトラシュの許へ帰ってきた。欠けた世界が満ちる歓びを噛みしめつつ、ミトラシュはオフィリアの胸に飛び込む。オフィリアの胸に顔を埋めて、その香りを胸一杯に吸い込んだ。
ミトラシュが甘えると、オフィリアは嬉しそうに、ミトラシュを甘やかす。だから、この時も、そうなると信じて疑わなかった。
オフィリアに突き放されたとき、ミトラシュは何が起こったのかわからず、ただ、茫然とオフィリアの白い顔を見詰めた。ミトラシュの求めるオフィリアの微笑は、そこにはなかった。
きつく噛み締めて、色を無くした口唇が、震える。
「ミトラシュ……あのね……私、今日はね……あなたと、お別れをする為に来たの」
ミトラシュは目をぱちくりさせた。
オフィリアの発言は突拍子もないもので、ミトラシュには理解不能だった。