ミトラシュ1(2021.02.17改稿)
「ミトラシュはぽかぽか、あたたかいね。お日さまみたい。お日さま。わかる? お空にあって照り輝き、世界に熱と光を与えて万物を育む、お日さま」
オフィリアはミトラシュの手をとると、指先に口唇を押し当てる。
「お、ひ、さ、ま」
オオフィリアの唇を、言葉を、吐息を、指先に感じる。込み上げる歓喜と愉悦は、ミトラシュの記憶に深く刻まれる。
「ミトラシュ、お日さまよ。お日さま。お、ひ、さ、ま。ミトラシュはね、お日さまみたいなの。とってもあたたかい」
オフィリアはミトラシュをぎゅっと抱きしめる。オフィリアを真似て、ミトラシュもオフィリアの背を抱いた。オフィリアは擽ったそうに首を竦めて笑っている。首筋に唇を寄せても、怯える様子はない。
オフィリアは無邪気で、無防備だ。生粋の姫君は、血に飢えた獣の真の恐ろしさを理解していない。伝聞により得た知識が恐怖と苦痛を教えることはない。
オフィリアの華奢な矮躯は、小鳥の卵のようだ。ほんの少し力加減を誤ったら、きっと、粉々に砕いてしまう。そうされて初めて、オフィリアは恐怖に震え、苦痛に悶え、人喰いの獣を愛でた自身の愚かしさを思い知るだろう。ミトラシュの母のように。
母はミトラシュを恐れ、憎み、ミトラシュを呪いながら死んだ。もしも、ミトラシュが母を喰らわずに生まれたなら、母はミトラシュを愛しただろうか。答えは、母の命と共に失われた。
オフィリアはミトラシュに惜しみ無い愛情を注ぐ。無邪気と無知故に、オフィリアはミトラシュを恐れない。
そんなオフィリアを壊してしまわないように、丁重に扱わなければならないと思った。
ーーぽかぽか、とってもあたたかい。お日さま。姉さまは、お日さまみたい。
名前の無い怪物は、オフィリアによりミトラシュと名付けられ、オフィリアの弟になった。ミトラシュは彼の小さな世界にオフィリアを迎えた。
生きることは、食べるだけのことではなくなった。
そうして、姉弟の一年が過ぎた。
ミトラシュは飢えも患いも苦労もなく、すくすく育った。オフィリアはミトラシュに本を読み聞かせるときは、ミトラシュを膝に乗せると決めているようだったが、ミトラシュの背丈がオフィリアの肩に届いたあたりで、オフィリアはとうとう音を上げた。
「ミトラシュ、あなた、また大きくなったのね。足がしびれちゃった。そろそろ、お膝に乗せてあげられなくなるかしら」
オフィリアは肩を落とした。
膝に乗れなくなったなら、かわりに、ぴったり寄り添ったり、膝枕をされたりすれば良いので、ミトラシュは気にしない。ミトラシュがもっと大きくなったら、ミトラシュがオフィリアを抱えるつもりだ。
きっと、何も変わらない。オフィリアはこれからもずっと、嬉しそうに、楽しそうに、にこにこ微笑んでいるだろう。いつも、いつまでも、ミトラシュの優しい姉様だ。
「今日は、クロディアス王の伝記を読破したわ。クロディアス王はヴァロワの中興の祖よ」
昔々、この国を公正で慈悲深く献身的な国王が治めていた。ヴァロワ百年五十代の歴史の中で、最高の名君とされる国王、クロディアス。その治世では、この国はあまねく光輝き、喜びに満ち溢れ、飢える者はどこにもいなかったと伝えられている。
優しく語られるお伽噺に耳を傾けながら、ミトラシュはあれ? と首をひねる。クロディアス。何処かで聞いたような名前だ。
ミトラシュは少し考えて、すぐに考えるのをやめた。オフィリアとミトラシュ。その二つの名前だけ覚えていれば、それで十分だった。
オフィリアは、膝にのせた本の頁をパラパラと捲る。ミトラシュを差し置いてオフィリアの膝に乗り、オフィリアに触れられているそれが本ではなくて生き物だったなら、ミトラシュはそれを八つ裂きにしたかもしれない。そんなことをつらつらと考えながら、ミトラシュは、オフィリアの指の動きを目で追っていた。ミトラシュを愛撫する優しい手だ。本の頁を捲るより、ミトラシュに触れるべきだと思った。
「私も、クロディアス王のような名君になりたいけれど」
オフィリアは夢想の彼方に焦点を結んだ。その瞳は、人々の理想の継ぎ接ぎを見詰めている。思い焦がれるかのように。
胸の奥がじくじくと疼痛を訴える。火傷のように尾を引く痛みだった。はて、と彼は小首を傾げる。銀の炎に焼かれる痛みに似ている。彼はここに囚われ、守られている。銀の炎の脅威に晒されてはいない。それなのに、何故?
オフィリアが屹然と溜め息をつき、ミトラシュは我に返る。オフィリアは呪文を唱えるように呟く。
「公平無私でありなさい。好悪に偏るべきではありません」
「万事について、惑溺して度を過ごすことのないように」
「喜怒を慎みなさい。表情や態度に出してはなりません」
「愛憎をふりまわしてはなりません」
「人々の大義のため、為すべきことを為すのです」
オフィリアはまた、溜め息をつく。力無く頭を振った。
「私はダメかもしれない。皆に慕われる、非の打ち所の無い人格者になんて、なれそうにないわ。だって、私は嫌われ者のオフィリアだもの。善い王様は、民や臣下に慕われなければならないのに」
項垂れるオフィリアを、ミトラシュは凝視する。
オフィリアは「クロディアス王のような統治者」になりたいらしい。好きも嫌いも、喜びも怒りも無く、人々の大義のため、為すべきことを為す。ただそれだけの存在になりたいらしい。
ーー理想の奴隷となり、魂すら擲つ。そうまでして、愛されたいのか?
ミトラシュは頚窩を押さえた。心臓が早鐘を打っている。不思議だった。不可解だった。そして、不快だった。
ミトラシュは拳を握り、掌に爪を立てた。わからない。けれど、これが何か良くない兆候であることは、なんとなくわかる。
オフィリアの優しい手に撫でて欲しい。ミトラシュは知らず知らずのうちに俯いていた顔を上げた。オフィリアは項垂れている。ミトラシュが凝視しても、顔を上げない。ミトラシュを見詰め返さない。
ミトラシュは戸惑う。求めれば与えられる。そう確信しているのに、求めることを躊躇ってしまう。オフィリアはミトラシュを見ていない。
どうすれば、オフィリアはミトラシュに目を向けるのか。熟考の末、ミトラシュは、項垂れるオフィリアの頭に手を置いた。目を丸くするオフィリアの頭を、よしよしと撫でる。いつも、オフィリアがミトラシュにそうするように。
こうされると、ミトラシュの意識はオフィリアに集中する。だから、ミトラシュがこうすれば、オフィリアの意識もミトラシュに集中するのではないか。
ミトラシュの思い通りになった。オフィリアは顔を上げ、ミトラシュを見詰め、ぎゅっと抱きしめた。
「ありがとう、ミトラシュ。ミトラシュは優しい子ね。大好きよ」
オフィリアはミトラシュの髪を撫でた。オフィリアの愛撫は、ミトラシュの心のささくれを優しく撫で付けて、疼痛をしずめてくれる。満ち足りた心地がする。腹ではなく、胸の奥が、満たされたような。