怪物3
彼は「優しさ」について、心臓に訊ねた。心あたたかく、思いやりがあり、情がこまやかなことであろうと、鼓動は囁く。さらに、弱者はしばしば「優しさ」を求めるが「優しさ」で空腹は満たされないと続ける。
彼は小首を傾げる。何故腹の足しにならないものを求めるのか? 心臓は鼓動を打つばかり。答えはない。
オフィリアは戸惑う彼に微笑みかけ、語りかける。彼が死んだふりをする虫のようにじっとしていると、オフィリアは彼へと手を伸ばしてきた。恐る恐る、彼の髪に触れる。薔薇色の頬が青褪めていた。噛みつかれるかもしれないと怯えながら、オフィリアは彼の頭を撫でている。緊張してかじかむ指は、それでも、あたたかい。
恐ろしいのなら、近寄らなければの良いのに。彼の世話役を担う人々は、皆、そうする。奇妙だ。鼓動も同調していた。
しっとりとしていて柔らかい指が額に触れる。血の巡りが薄い皮膚を透かし、浮き出て見えた。
牙を立てると白い皮膚は弾み、破れる。噴き出す血潮は熱く甘くねっとりとしていて、渇きを潤す。肉は柔らかく、蕩けるようだ。
想像するだけで、彼の心の髄を恍惚が駆け抜けた。
彼が無抵抗でいると、オフィリアの緊張は解けてゆく。
「よしよし、うふふ、よしよし」
と機嫌良く彼の髪を撫でる。思う存分、彼の頭を撫で回すと、晴れやかな笑顔で彼の部屋を辞した。
それきりで終わるなら、それだけの出来事だった。ところがオフィリアは、頻繁に、彼の小さな世界を訪れるようになった。彼に寄り添い、にこやかに語りかける。
彼は荒れ狂う食欲を抑えることに気を取られ、上の空になる。ほぼ無反応だ。しかし、オフィリアはめげない。
「口が利けないの? 耳は聴こえているでしょう? 声が出せない? じゃあ、筆談しましょうよ。読み書き出来ないのなら、私が教えてあげる!」
それからと言うもの、オフィリアは本を抱えてやって来ては、彼に読み聞かせた。書き取りの手本を見せたり、彼の手をとり書き取りの練習をさせたりする。やると決めたからには真摯に打ち込む性質らしい。オフィリアは何かにつけて彼を膝に乗せた。密着するとき、美食の誘惑は苛烈である。彼は必死に抗うものの、自制心は常にはりつめて震えていた。
彼の葛藤を露知らず、彼を膝にのせるオフィリアは嬉しそうであり、楽しそうだった。彼との交流に喜びを見出したようだ。
オフィリアはあまりに無防備だった。初対面では確かに怯えていたのに。この頃のオフィリアは、彼がオフィリアに噛み付くかもしれないなんて懸念は、忘却の彼方へ追いやってしまったかのようだった。オフィリアの目の前で屍肉を喰らい、鋭い牙を誇示しても
「美味しい? それはよかった。お口のまわりを汚しちゃったわね。拭いてあげるから、じっとしていてね」
と含み笑いながら、ハンカチーフを取り出して、彼の口許を拭う。血塗れの唇にオフィリアの指が触れたとき、彼は物は試しと牙を剥いてみた。オフィリアは目を丸くして
「痛かった? ごめんなさい。もっと優しくするから、もうちょっとだけ我慢して?」
と見当違いの謝罪をした。彼の牙を恐れなかった。彼は途方に暮れた。
「はい、おしまい。お利口にしていられたわね。えらい、えらい」
彼の口許を汚す血肉を拭い終えると、オフィリアは彼を褒めて、彼の頭を撫でる。彼はうっとりと目を細めた。
オフィリアの愛撫は心地好い。いつの間にか、そう感じるようになっていた。
喰らいたいのに、喰らえない。我慢しているうちに、彼の感受性は変質してしまったらしい。オフィリアに寄り添うと、彼の心身は乖離する。喰らいたい。喰らえない。喰らいたい。喰らえない。辛くて苦しい。それなのに、自らすり寄ってしまうのは、何故だろう。心臓は鼓動を打つだけで、答えてくれない。
彼は血に飢えている。しかし、無邪気に喜ぶオフィリアを見つめていると、何かが満たされるような気がする。
オフィリアはおかしな人間だ。彼もおかしくなりつつある。
不安定になってぐらぐらと揺れ動く彼に、オフィリアは止めを指す。
「ねぇ、あなたのこと、ミトラシュと呼びたいの。どう? 弟を名前で呼べないなんて、さびしいわ。だからね、私が名付けようと思って。ミトラシュと言う名は、遠い遠い異国の、太陽の神様からいただいたのよ。すてきじゃない?」
オフィリアは彼の髪に鼻先を埋めて、くすくすと含み笑う。
「ふわふわ、ぽかぽか。お日さまみたい」
くすぐったい。と彼は思った。胸の内側がくすぐったい。
鼓動が囁く。名は呪いだ。人間は名付け、縛る。受け入れてはならない。真の名は心臓のみぞ識る。鼓動が強く打つ。
真の名を告げようとしていた。しかし、彼は鼓動の囁きを遮った。
ーー要らない
「ねぇ、ミトラシュ。どう?」
オフィリアは彼の名を呼び、彼に額を寄せる。心臓が激しく鼓動を打つ。しかし、鼓動の囁きは聞こえない。彼が耳をふさいだから。この胸の高鳴りは、彼だけのものだった。
オフィリアは彼を名付けようとしている。オフィリアは彼を呪いによって縛りたいのだ。
ーーミトラシュで良い。ミトラシュが良い
ミトラシュはオフィリアを見つめた。胸の内で小鳥がはばたいているかのようだ。オフィリアは瞠目する。それから、ミトラシュを抱きしめた。
「笑ってくれたわね、うれしい! ミトラシュの笑顔、とてもすてき。姉様、ミトラシュの笑顔が大好き!」
甘やかな誘惑の芳香がミトラシュを包みこむ。美味しそうだ。美味しいだろう。しかし、今すぐ、喰らいたいとは思わない。
ーーミトラシュ。オフィリアの弟、ミトラシュ
ミトラシュはオフィリアの背を抱いた。鋭い爪で傷つけることのないように、そっと触れて、撫でる。優しく、優しく、オフィリアがいつもそうするように。
すると、オフィリアはミトラシュを抱きしめる腕にぎゅうっと力を込めた。非力なオフィリアが、ありったけの力を込めていた。
その抱擁は、いつものように、慈しむものではなかった。縋りつくかのような、痛切な抱擁だった。
その時、ミトラシュを貫く想いがあった。
ーーオフィリア。ミトラシュの姉様。ミトラシュの、姉様