怪物2
人は脆い。すぐに死ぬ。死ぬと血肉の詰まった皮袋になる。彼の母はあっと言う間に死んでしまった。
だから、次に生きる人を喰らうときはじっくりと味わうと、彼は心に決めていた。
思いがけず、待ち望んでいた次の好機は訪れた。
真夜中のことだった。いつも通り、投げ込まれた屍肉を頬張っていると、深夜の廊下に気配があった。小さな人がこそこそと近付いてくる。知らない気配だ。
彼の小部屋の前で立ち止まり、暫くすると、解錠して扉をそっと開ける。
彼は気付かないふりをした。人の来訪があるときはいつもそうして、相手のなすがままにやり過ごすことにしていた。
来訪者が「かわいそうな子」と呟いたとき、彼は反射的に顔を上げてしまった。それがあまりに意外な展開だったから、驚いていた。
彼の前で人が言葉を発することは。あったとしても、彼に対する単純な要求、或いは、悪口まがいの独白だった。それが当然だった。
彼には、自身が憐れむべき対象になり得るという発想そのものが無かった。
隙間から覗き込む胡桃色の大きな瞳が、彼を見つめる。目と目が合うと、さらに大きく丸くなる。意図せず見つめ合うことになった。猫のような目だ。鼓動はそう囁いた。
心臓曰く、声も猫の鳴き声に似ているらしい。猫とは? と彼が訊ねると、毛むくじゃらで、肉は柔らかいけれど小さく食いでがなく、そもそも不味いと鼓動は答える。彼は小首を傾げる。
こんなに甘い芳香を放っているのに、不味いなんて不思議だと思う。彼が生唾を飲み込むと、鼓動は囁く。猫によく似ているけれど、あれは人間の女。それも子供だから、さだめし美味だろう。しかし、今この場で喰らってはならない。
彼は未だ幼く弱いから、親の庇護なくして生きてゆけない。彼はそのことを弁えている。繰り返し、言い聞かされてきたことだ。
美味そうなのに、喰ってはいけない。さっさと立ち去ってくれることを願うしかない。彼は屍肉の味に集中しようとする。
しかし、彼の願いも虚しく、来訪者は立ち去らない。あろうことか、扉の隙間を、まるで猫のようにするりとすり抜けて、彼の部屋へ足を踏み入れた。
これはまずいぞ、と鼓動は呻く。彼も同感だった。
来訪者は、琥珀色の長い髪と、純白の寝間着の裾をふわふわと揺らし、彼のもとへ駆け寄ってくる。彼が呆気にとられている間に、彼と膝を突き合わせる。ぴかぴか光る猫の瞳が、彼の瞳を覗きこむ。
「はじめまして。私はオフィリア。あなたの姉様よ。あなたのお名前も教えて?」
それは可愛らしい少女だった。人間だって、この無邪気な笑顔を目の当たりにしたら「食べてしまいたいくらい可愛い」と思うに違いない。
これの血肉は芳しい。これまで、彼の周辺をうろうろしていた人間たちが屍肉同然に思える程に。もしここで、これが怖じ気づいて脱兎のごとく逃げ出したなら、彼は本能に抗えず、獲物に躍りかかっただろう。
しかし極上の獲物は、彼に寄り添おうとする。その微笑み、彼に語りかける声調。それらは、彼が生まれて初めて触れた優しさだった。