そういえばまだ好きって伝えてなかった
ついにあの子を押し倒してしまった。思えばもうずっと、あの子への想いを抱えたまま過ごしていた。
『中学三年の夏には、魔物が棲む』
春四月、学年主任の先生はそう言った。周りの子は皆、それは勉強のことを言っているんだと勘違いしていたものだ。高校受験を控えた夏、部活はひと区切りを迎え、誰であれ成績が伸び始める。けれども、先生はそう言いたかったわけではない。十五歳、誰もが成長していく中で、誰しもが自分自身から置いていかれてしまう。身体も能力も、何もかも育つスピードが速すぎて、心がついていけないのだ。バランスを崩した人間には、魔が差す。そう、生命煌めく夏、今まさに生命を輝かせているわたしたちは、簡単に道を踏み外してしまう。先生はそれを言っていたのだった。
あの子を好きになったのは、たぶん、今年の五月。ひと目惚れと言えばいいだろうか。よく分からない。その時初めて出会ったというわけではなく、同じ女子グループの仲間として立ち話くらいはしていたのだけれど。ところがあるお昼休み、教室で他愛もない会話にうつつを抜かしていた時、あの子に光が差した。
『それでね、若菜ちゃんはどう思う?』
そう背の低いあの子が言った時、雲がどき、後ろから陽の光が降って来た。窓から風が忍び込み、巻いた二つ結びの栗毛が揺れる。それは決定的な光景だった。あの子に恋するには、それで十分だったのだ。
それから、新緑の季節の間ずっと、あの子に近づけないで悶々としていた。女の子どうし、身体と身体を近づけることはどう見ても簡単だったけれど、女の子どうしだからこそ、浮ついた男子がするような安いボディタッチはかえって生まれ得なかった。同性だから分かる。あの子だって年頃の子だ、そんなことをしては鼻で笑われてしまう。と言うよりそもそも、本能でした恋に心が追い付いていなかったのだろう。心で恋を受け入れていない間は、身体を動かせない。
いずれにしても、あの子の瞳に、あの子の白ブラウスから透ける胸元に視線が吸われていた割に、あの子へ手を伸ばすタイミングはなかなか来なかった。これも今だから分かることだが、あの子はたぶん、その視線に気が付いていて、それでいて敢えて、自分からアクションを起こさなかったのだ。これが全てだったと気が付いたのはもっと後のこと。
あの子へ近づくチャンスが巡ってきたのは、一学期の終わりのクラス対抗水泳大会。元来運動が得意ではなかったあの子は、泳げないという名分で裏方に回った。これは明らかに、恋をしている人間にとってチャンス。恋をして数ヶ月、ようやく覚悟が決まったと言うべきだろうか。一緒に実行委員になろう――その話で固まったら、途端、事態はトントン拍子で進み始めた。帰る時間は同じになり、休み時間も放課後も、ずっと一緒。帰り道、先生に見つからないようこっそり棒アイスを買い、二人で割って食べもした。
心の距離が近づいているという感覚は、客観的に見てもあった。こういう時が一番じれったい。度胸はまだほんの少し足りない。満たされつつある自分もいる。けれど、心も身体も、近づけば近づくほど、さらにその先を求めてしまう。よくあることだ。
決定的だったのは、大会の前日準備。プールの掃除中、他のクラスの委員がふざけて水遊びを始めた。ホースの矛先が運悪くあの子に向き、勢いそのままぐしょ濡れ。件の委員がバツの悪い顔で退散する傍ら、あの子はその場で立ち尽くしていた。おそらく、何が起きていたのか呑み込めていなかったのだろう。あの子は、水もしたたるいい女になっていた。スクール水着の厚い生地に首元から水が垂れる。その姿から若々しい色気が出ていて、周囲の目が集まり始めた。同僚の特権として、庇うようにあの子をプールの片隅へと移動させる。いきなり、二人の時間になった。
『頭から水被ったけど、大丈夫? 耳とか目とか』
指をあの子の顔へ伸ばす。はっきり言って上気していた。顔は耳まで沸騰している。あの子は目ざとく気付いただろうか。決意のふれ合い。あの子の頬にも次第に朱が差していった。
『ごめんね、わたし、こういうところで鈍くって』
あの子のこの言葉がどういう意味だったのか、私には分からない。単に運動オンチだと言いたかったのだろうか。女の子らしい含みを持たせたのかもしれない。いずれにしても、ここでのアプローチは一見成功に終わり、距離は縮まったかのように思われた。
しかし、おそらくあの子は、そこから先を望んでいなかった。結果から言えばそういうことになる。勢いづいたかのように見えた二人の間には、確かに、手を繋いだり頬を突いたり、そういう露骨なふれ合いが起こり始めていた。その流れのまま夏休みになり、十五歳の良い思い出がたくさん作られるかのように思われた。しかし、現実はどうだったか。あの子は真面目に塾へ通い始め、自由時間が露骨に減り始めた。夏の魔物に愛されたあの子は、塾のテストでもぐいぐい成績を伸ばしていく。志望校も一つ上に変わった。これは恋する者にとって試練の時だ。恋の時間はその始まりのごとく唐突に過ぎ去っていき、世界は知らない間に回り始める。
その試練の過酷さに耐えられなかった、そういうことなのだろう、今のこの状況は。忙しいあの子が頑張って作った夜の隙間時間、そこで無理やり呼び出して、こっそり川辺で花火。いつかのアイスなんかより、もっとずっと危ない橋だ。どこかで、このまま見つかって補導されれば受験勉強の意味が無くなる、なんてことを考えていたのかもしれない。しかし現実はこういう時に限ってご都合主義で、誰にも咎められないまま、最後の線香花火が散った。
じっと暑い中、あの子が背を向ける。
『花火、終わっちゃったね』
それは、終電なくなったね、なんて憧れの言葉とはまるで意味の違うものだ。こんな現実は、恋する女の子であれば、誰であっても受け入れがたい。
『もうちょっとだけ、一緒にいない?』
必死の引き止め。しかし、あの子は背を向けたままだった。
『もう終わりにしないと、みんな心配しちゃうよ?』
『……みんなは心配するかもしれないけど、わたしはもう少し、ここでこうやっていたい。なんなら、芝生に座ってるだけでもいい。とにかく、一緒にいたい』
『ここまで。ここまでなんだよ。わたしたちの夏は』
その声には一抹の哀しみが宿っていた。あの子が一歩、また一歩遠ざかる。その裾をぐいっと掴んだ。
『今の、どういう意味? まさか……』
『まさかも何も、そのままの意味。ちょっと大げさに言ってみただけ』
『……ウソでしょ』
『うん。ウソ』
あの子は振り返らないまま呆気なく認めた。裾を握る手に力がこもる。
『わたしの気持ち、気付いてたんでしょ? 今日ここに来てくれたのも、わたしが恋してるって分かってたから、そうなんだよね?』
『ここで知らないフリができるほど、わたしは器用じゃないから。ほら、鈍いし』
『……』
『わたしね、もっとたくさん、若菜ちゃんとお話ししたいなって思ってる。でもね、それはわたしにとって、若菜ちゃんが“特別な好き”だからじゃないんだよ』
明確な拒絶。できるだけ傷つけないように選び抜かれた言葉が、かえって恋心を煽ってしまう。そのことを、まだあの子は知らない。だからたぶん、あの子は本当に、恋をしていない。
最後のあがきとして、あの子を引き寄せる。
『ねえ。だったら今から、“特別な好き”にしてみせるから。だから、お願い。今は一緒にいて』
今度はあの子が黙る番。ここで何も喋れないあたり、駆け引きに慣れていない。それはお互いになのだが、今ばかりはあの子だけが失点した。あるいは良心の呵責だったのかもしれないし、もしかしたら、心のどこかでは、好意に応えたいと思っていたのかもしれない。しかし、どちらにしても、そう伝えるべきだった。ここでの沈黙は、イエスと捉えられてしまうから。
そして実際、あの子の小さい身体は一段と引っ張られ、その数秒のち、河原の芝生に横たえられた。その上に、もう一つ身体が重なる。ついに、あの子を押し倒してしまった。
道を踏み外したがる十五の夏、あの子は魔が差した彼女に引きずり込まれそうになっている。あの子はたぶん抵抗するだろう。だから結局、彼女は一人で転がり落ちるしかない。でも大丈夫、私が一緒に堕ちるから。若菜ちゃん、あなたの視線の動きまで覚えている私が。夏の魔物に唆されて、私は今、修羅場を迎えた二人の傍へ、ゆっくりと向かった。
ああ、恋のいろはを知らない私たちは、こんなにも不器用だ。