だから僕は彼女を殺した
かつて憧れの対象だった人間が変わり果てたのを見て、その人間の死を望めば敬愛、生を望めば執着だと思っていた。だから、僕は長谷川奈月に死んで欲しかった。
◇
僕という人間を語るには、おおよそ長谷川奈月という人間を語ればいい。けれど、奈月を語るには、僕の説明だけでは全く足りない。僕にとっての奈月は、まさにそういう存在だった。
奈月は僕にとって初めての恋人だった。
右も左も分からない僕に、奈月は少しずつ、付き合うとはどういうことかを教えてくれた。なし崩し的に説かれるその教義を、一縷も逃さぬようにと頭に叩き込んだ。付き合いたての頃の僕は、どちらかといえば恋人より狂信者に近かったかもしれない。
奈月が僕の告白を承諾してくれた理由は、ずっと分からなかった。
華も人望もあり、クラスの中心となって人を引き付けるような彼女が、どうして僕みたいな有象無象と付き合おうと思ったのか、謎だった。けれど、その理由なんて深く考えなかった。幸福や不幸というのは因果関係の外からやってくることを、僕は後者をもってよく実感していた。
実際は、そんなことを考える余裕なんてなかったのだ。交際経験のない僕にとっては、奈月を失わないこと、それだけが大切だった。
僕は彼女の頭に「ワレモノ注意」のラベルが貼ってあると思い込むようにしていたし、本当にそう扱った。触れれば壊れそうで、触れなければ崩れそうな彼女を手放してしまえば、永遠の後悔になりそうな予感がしていた。いったいどっちがワレモノだったのか。
僕らは不器用ながらも着実に距離を縮めていった。手を取り合ってはまた放す。不揃いであるために安売りされている菓子みたいな、そんな日々に転機が訪れたのは、八月のある暑い日だった。
クーラーのよく効いた部屋で課題を進めていた。玄関からチャイムの音が聞こえた。
家には僕しかいなかった。
ドアを開けると、びしょ濡れの奈月が立っていた。
呆然としていた。僕も、奈月も。
訊きたいことは山ほどあったが、まずは現下の状況を解決する方が先だと思った。なぜこれほどまでに濡れているのか分からない。
「……どうしたの? その状況」
「夕立に遭ったの」
空には雲一つなかった。地面が濡れている様子もない。彼女の目はどこか虚ろだった。
「とにかく、上がっていきなよ」
「いや、大丈夫」
両手を前に突き出して、拒絶のポーズをする奈月。こんなことは初めてだった。
「本当に、どうしたの?」
自分でも困った顔をしているのが分かる。
数秒の沈黙が流れ、彼女が意を決したように重い口を開いた。
「人を殺したの」
奈月の手は細かく震えていた。
「えっと……」
「いつもいじめてくる三人組。祐希くんにも言わなかったけれど、私はずっといじめられていたの」
頭を鈍器で殴られたみたいな衝撃だった。正直、理解が追いついていなかった。けれど、自分の腹の中から黒い感情が芽生えてくるのがはっきりと分かった。
「奈月が? ずっと?」
「うん」
「なんで……」
「なんでだろうね」
どうして人気者の奈月が。あるいはそれ故なのか。味方が多ければ敵も多いなんて不条理、信じたくなかった。
「今日も川に呼び出されていじめられてたんだよ。顔を水に押し付けられるのに耐えきれなくて突き飛ばしたら、一人の子が足を挫いて、溺れそうになったの。他の二人が助けに行ったから、全員溺れさせてやった」
「それで、死んじゃったの?」
「……そう」
彼女は何を言っているのだろうか。僕は何を言うべきだろうか。
「だから、祐希くんと会えるのも今日が最後。それだけ伝えに来たの」
頬を冷たい液体が伝った。汗か涙なのかは、判別できなかった。
「これからどうするの?」
彼女は一瞬だけ地面を睨んだ後、小さく呟いた。
「どこか遠いところで死んでくるよ」
「それなら、僕も」
「えっ?」
「僕も行くよ」
その時の彼女の驚きようは言うまでもない。ただ、一瞬考える振りをして僕に「ありがとう」と言った。
それからは早いものだった。
必死の形相で、僕は家のモノを引っ掻き回した。
リュックに詰められるだけのお金と着替え、それから文庫本を一冊準備した。
びしょ濡れの彼女には新しい服を与え、手を引いて家を出た。追跡される可能性を考えて、携帯電話は持たなかった。
「どこへ行こうか」
彼女は僕に訊いた。
「北へ行こう。できるだけ、北へ」
具体的な目的地を口にすることなんて、怖くて出来なかった。
新幹線を使えば、北上するのなんて簡単だった。窓から見える夏の景色は、先程までと寸分たりとも違わなかった。やはり、世界は変わっていない。僕らが変わってしまったのだ。
時折わなわな震える彼女の手を握った。
心の中で、何度も叫んだ。
どうして奈月がこんな目に? 奈月はむしろ、被害者なのに。
納得のいく答えなんて、出るはずなかった。
青森駅に着いた僕らは、数時間もの間、駅のホームで座っていた。そうして時間を潰すことは、苦痛ではなかった。奈月が隣にいたから。
固いベンチに座りながら、持ってきた小説を読んだ。それは何より、僕自身の心を落ち着けるためだった。
随分と色褪せた『若きウェルテルの悩み』のページをめくる。これをチョイスしたのは、本当にたまたまだった。
その日の夜は古い旅館に泊まった。大学生と言えば、女将さんも意外に信用してくれた。二人で食べたカップラーメンは、僕の人生の中で最も美味しかった。
ちゃんとした布団で寝ることが出来たのは、その日が最後だった。
一週間が過ぎた。
僕らはネットカフェで暮らしていたけれど、もうすぐ残金も底をつきそうだった。
インターネットでは、殺されたいじめっ子たちを哀れむ記事が出ていた。高校のクラスメイトが「明るくて良い子でした」と言えば、彼女たちの親が「娘を返して!」と叫ぶ。
どうやら、いじめがあったことなんてこれっぽっちも知らないらしい。こいつらの方がよっぽど人殺しだ。そう思った。エゴと嘘で溢れるこの狭い世界を、心の底から軽蔑した。
警察も本格的に捜査に乗り出している。
もはや、僕らに残された選択肢は無いに等しかった。
それから二日間、僕らは山の中で過ごした。食料は近くのスーパーで買い、寝るのも起きるのも柔らかくて湿った草の上だった。
そして二日目の朝、目を覚ました僕の目に映ったのは、ナイフを喉元に向ける彼女の姿だった。
咄嗟に体が動いた。彼女を突き飛ばし、ナイフを手から離させる。
起きているとは思わなかったのだろう、彼女はあっけにとられていた。
どこから入手したのかも分からない、安物のバタフライナイフを僕は拾った。
「……なにしてるんだよ」
声が上ずった。
僕の胸の内に、何らかの違和感が生まれた。うまく形容できないが、彼女がものすごく遠くに行ってしまったような感覚が残った。
伏し目がちに彼女はこう答えた。
「死ぬのは私だけでいいよ」
その言葉を聞いた瞬間、違和感の正体を理解した。もはや、目の前にいる奈月はかつての奈月ではない。
僕が欲しかった答えは、そんな言葉じゃない。確かに、それは彼女の優しさからくる言葉で、僕に生きて欲しいという意図は汲み取ることが出来た。
しかし同時に、「いっしょに死のうよ」と言えるほど信頼はされていなかったと知った。その事実で、僕は深淵に突き落とされたような心持ちになった。要するに、それは見放されたことと同義だった。
ふと、僕は激情に駆られた。
その時の感情を言い表すことは難しい。ただ言えるのは、敬愛と執着。その両者の線引きが、明確にされたということだった。
考えてみれば、簡単な話だった。
生きていることが最も重要だなんて、とんだ暴論だ。命は何より素晴らしいなんて、ただの欺瞞だ。
いくら生きていようとも、それが醜い蛾ならば、僕は美しい蝶の標本が欲しかった。本当に、それだけの事だったのだ。
ナイフを握る手に力がこもった。
長谷川奈月を殺したい。
そう強く感じた。
僕はゆっくりと彼女の首にナイフを近づけた。
奈月は、笑いながら泣いていた。絶望と喜びをごちゃ混ぜにしたような色の瞳をしていた。互いに何も言わなかった。
案ずるより産むが易し。喉元過ぎれば熱さを忘れる。
本当に、終えてみれば、それは至極簡単なことだった。
僕は、奈月を殺した。
ぼうっとしていた。どれくらいかも分からない間、僕は死んだ彼女を見て、『若きウェルテルの悩み』の一文を想起していた。
“愛のない世界なんて、ぼくらの心にとって何の値打ちがあろう。あかりのつかない幻燈なんて何の意味があるんだ。小さなランプをなかに入れて初めて白い壁に色とりどりの絵が映るのさ。なるほどそれもはかないまぼろしかもしれない、それにしてもさ、元気な少年のようにその前に立って、その珍しい影絵にうっとりしていれば、それもやっぱり幸福といっていいじゃないか”
遠くから聞こえるサイレンの音で我に返った。けれど、逃げる気は毛頭無い。ことさらに穏やかな気持ちで、僕は物語の終わりを待った。幸せな時間だった。
こうして、僕は捕まった。
事情を話せば捜査はされるもので、いじめっ子たちの三人のスマホから、いじめの証拠は容易く見つかった。僕は奈月の恋人という立場だったので、彼女を殺す動機は無いだろうということで、大体僕の話したことを、警察は信じている。
もちろん無罪放免ともいかないので、それなりの罰は受けたが、一般的に見れば軽すぎるくらいだった。
あれから二年経った今でも、僕は自分の選択を悔いてはいない。僕は誰よりも彼女を愛していた。その結果として、彼女を永遠にするという決断をした。今も、僕の心で生き続ける奈月は、僕にとってひたすらに完璧で理想的なヒロインであり続ける。
過去だけが全てであり、思い出だけが美しいのだ。
それを体現するかの如く、僕と奈月は今日も共に生きていた。
今日は何をしようか。なんて他愛ない話をしながら不器用に距離を詰める僕らがいた。
僕は幸せだった。
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かつて憧れの対象だった人間が変わり果てたのを見て、その人間の死を望めば敬愛、生を望めば執着だと思っていた。だから、僕は長谷川奈月を殺した。