10 アレスの恋心
「アレス様、そろそろ休憩なさってはいかがですか?」
そうアレスに声をかけたのはルクソール※から来た青年で、アレスが3歳の頃から仕えており、複数の言語を扱う切れ者だった。将軍の一人息子であるアレスは、将来キュレネを統治するナディアスを支えるため、軍事だけではなく政治の勉強もさせられていたのだ。この青年は、アレスの勉学の先生でもあり、身の回りの世話をする付き人でもあった。
剣を振るうアレスは、型の練習をやめなかった。
「本の虫を探したせいで、時間が足りないんだ。午後は乗馬の練習だから、もう少し剣の練習をしておかなきゃ。俺は父上みたいに騎馬隊を率いて早く立派に戦えるようになりたい。」
本の虫とは、ベレニケのことだろう。このおぼっちゃまと来たら、顔を合わせるとベレニケをからかっていじめずにはいられないのだ。好意をうまく表せない、幼少期の男子特有のものなのだろう。
「乗馬の練習だからこそ、尚更早く休んで昼食を摂りましょう。昼食が遅くなって、馬の背中で、また吐き気が止まらなくなったら元も子もありません。」
アレスは顔を真っ青にすると、大人しく剣の練習をやめた。昨日の練習で、馬上で吐いてしまったことを思い出したのだろう。
キュレネには近隣都市の中では珍しい、騎馬隊が存在する。この騎馬隊率いる軍のおかげ※で、豊かな緑と港を狙う南の都市からの侵略を退けることができていた。
「そういえば、明日ベレニケ様にお渡しするプレゼントをご用意しておきました。」
青ざめていたアレスの頬に、赤みが戻る。
「本当か!?間に合ってよかった!ちゃんと挿絵がたくさん入っているものを選んだか??」
「はい、アレクサンドリア図書館にも収蔵されている本だと聞いております。挿絵も、複数の色の画材を使っている一級品です。」
「今年もお前に頼んでよかった!いいか、今回も贈り主が俺だとバレないようにして贈ってくれ。」
アレスはみるみる機嫌を良くし、サンドイッチにかぶりついた。この天邪鬼なおぼっちゃまは、3年前のベレニケの誕生日から、毎年、自分だとは明かさずに本を贈り続けている。きっと、照れ臭いのだろう。表向きには、父親との連名で豪華な品を贈っていることになっている。本当の本の贈り主を知っているのはこの青年くらいだ。
「今年こそ、アレス様だと打ち明けなさってはいかがです?去年アレス様が贈られたギリシアの偉大な哲学者たちが書いた本を見て、ベレニケ様は大層喜ばれておりましたよ。」
唇の端についたサンドイッチのソースを舐めながら、アレスはボソボソと答えた。
「あいつ、いつもクールぶっている癖に……。ナディアス様に、『自分の誕生日には、本の王子様からすごくすごく素敵な本のプレゼントが贈られてくるから、ほかのプレゼントはいらない』って言ったらしい。」
「それはそれは!」
笑ってはいけないと思うが、ふふっと声が漏れてしまった。本の王子様とは、ベレニケ様もなかなかロマンチストなところがあるものだ。まだ7歳の少女なのだし、夢見がちなところも愛らしく感じる。
「今更恥ずかしいだろ!それに、あいつのことを俺が嫌いだって勘違いされちゃったんだ。」
ベレニケと顔を合わせるたびに意地悪なことを言ってしまうのだ、仕方がないといえば仕方がないだろう。
「女性の方がそういったことに関しては聡明であられるというのが世の常です。アレス様とベレニケ様が晴れて御成姻される頃には、ベレニケ様も今のアレス様の天邪鬼っぷりを理解してくださるでしょう。大丈夫ですよ。」
アレスは顔を真っ赤にしながら残りのサンドイッチを放り込むと、木陰に寝そべった。乗馬の練習の前に一眠りして、少しでも消化を進めておくのが良いからだ。
「とにかく、今年も贈り主はばれないように贈ってくれ。」
天邪鬼なところもあるが、7歳にして好きな女性への贈り物を欠かさないのはその方面に関して将来有望であると言って良いだろう。
「かしこまりました。今年もベレニケ様が喜んでくださるのが楽しみですね。」
「あぁ」
と言いながら、アレスは目を閉じるとあっという間に眠りについた。
青年は、ここ数日毎晩アレスがベレニケへ贈る手紙を書いては破り、書いては破って、ろくに寝ていないことを知っていた。
どちらかといえば勉学が苦手なアレスが、文字をかけるようになりたいからと作文の指導を自分に頼んできたのも、去年のベレニケの誕生日の前だった。
ダダ漏れな恋心に気がついていないのは、本人とベレニケ様くらいのものだろう、と思いながらも青年はアレスが起きるまで側から離れることはなかった。
アレスの可愛いところを書ききれたでしょうか?
※ ルクソール エジプト南部に位置する。古代エジプトの都市、テーベが存在した。王家の谷は日が沈むナイル川西岸にあり、ツタンカーメン王の墓もここにある。
※ キュレネの騎馬隊 キュレネの軍隊は、プトレマイオス朝に併合された後も無敵の騎馬隊としてその名を轟かせた。