静かな夜
夜も更け、月神殿のほとんどの者が眠りについたころ。
警護のため扉の前に立っていたカインは、足音のする方へ顔を向けた。
「大司祭様」
月神殿の最高位である大司祭が歩いてくる。
すでに80を超える老人でありながら、その立ち居振る舞いは衰えを感じさせない。
「どうされましたか。そのような格好で、風邪を召されますよ」
「散歩だよ」
「では羽織るものを」
春先の夜はまだ寒い。
大司祭の格好は少々薄着に思えた。
「いらないよ。私は光の御子だからね」
そういうと、指先に光を灯す。
光の加護を得た人間を光の御子、とそう呼んだ。
光の加護を与えられたものは、希少ながらも獣や神族にも存在するが、そのどれもが崇拝の対象となっている。
彼もその一人である。
この月神殿で絶大な信頼を受け、大陸にその名は知られている。彼が祈りをささげるときには、多くの参列者が遠方からも来るのだという。
ちなみに光の加護持ちは、加護を与える存在である精霊の存在が確認されていないため、定義としては正確には加護持ちではない。
そして精霊の存在が確認されていない光と闇については、魔術の体系の中に組み込まれてはいない。
彼の光の力は、例えばサリエルの読心のような特殊能力の一種である、とされていた。
「寒さは感じるでしょう」
カインは自分が羽織っていた羽織を大司祭に渡す。
そう。炎の加護持ちとは違うのだ。
彼の光に、熱は伴わない。
「わがまま言わないで着てくださいよ」
「君くらいだよ、私を年寄り扱いするのは」
しぶしぶ、けれど素直に受け取りながら、大司祭は笑みを浮かべた。
そういう扱いを受けるのが新鮮なのだろう。
「だって年寄りじゃないですか」
70超えた時点で長命の部類だ。
それを10も上回った大司祭を老人といわずなんというのか。
「皆はそうは思わない。私は永遠に生きると思っている節があるよ」
「元気そうですからね」
そう、驚くほどに。
「長く、生きたくてね」
大司祭にしては、俗っぽいことを言うものだ、とカインは思う。
物欲がなく、普段食べるものも神殿の他の者と変わらない。傲慢にならず、忙しい中神殿生を我が子のように慈しむ。
そんな、聖人のような彼が。
長く生きたい、と願うなど。
「ほどほどのところで死んでくださいよ、後がつかえるじゃないですか」
「ひどいことを言うねぇ」
カインの言葉に、大司祭は笑う。
「あと、長く生きたいなら部屋に帰って休んでください」
しっし、と追い払うような仕草をする。
「元気に生きてないと意味ないんですよ、そういうの」
「確かに」
そういいながらも、大司祭はその場から動かなかった。
沈黙が落ちる。
夜に鳴く、虫の声がした。
「何ですか」
カインが尋ねる。
尋ねたところで、大体の見当はついていた。
「本当に、行くのかい」
「何度も言ってますけど、俺がここにいるのは娘のためですよ」
だから、月神殿には残らない。
それはカインの明確な意思だった。
「それに、ガキは好かないやつも多いし」
「君は優秀な教官だよ」
子どもたちをちゃんと愛して育ててきた。
この数年間を見ればわかる。
「引き留めるのは、わがままかな」
「俺のわがままを通します」
話は、終わりだ。
どちらも笑みを浮かべる。
「では、明日は君の卒業式典でもあるな」
大司祭が言った。
「最後まで予定がみっちりですよ」
「おや、そうだったかな」
最近物忘れがひどくてね、ととぼけて見せる。
改めて二人は向かい合う。
「では、お別れということだね」
「えぇ」
またの約束など、明日以降にはない。
大司祭と一魔術師。それだけの関係に戻れば、関わりなど切れてしまう。
「そろそろお暇するよ」
「お気をつけて」
「今日は、月が綺麗だ。きっと卒業生たちを、君を」
空を見上げて大司祭が言う。
空にはきれいな満月が浮かんでいた。
すべてを照らすほどのまばゆい光ではない。
けれど。
「暗闇の中でも導いてくれるよ」
「ありがとう、ございます」
カインは頭を下げた。
月神殿の者にとって、その言葉は最上の激励だった。
「あぁ、これ、返さないとね」
そういって、大司祭は羽織を外そうとする。
「いえ、良ければ持って行ってください。帰りも寒い」
「そうかい。じゃあ、遠慮なく」
「返さなくていいですからね」
後姿に、カインは声をかけた。
大司祭は振り返らずに手を振った。
静かな足音は、やがて聞こえなくなった。
静かな夜だった。