東の森の夜
月明かりの中、一人の男が森を歩いていた。
手に灯りはないが、危なげなく森を歩いていく。慣れた場所だ。
この森は、彼の庭だった。
薬草の場所も、おいしい果実の生る場所も知っている。
水飲み場も、疲れたときに最適な木陰の場所も。
そこは、彼の記憶の通りだった。
「なんだ」
男は歩みを止めず、虚空に話しかける。
「ご報告を」
一層深い闇の淵から、人影がふいに現れた。
魔物の一種、亜人の影人。影を好む、気性の穏やかな魔物である。身体はほぼ実体がなく、霧のような存在である。
「月神殿やその周囲で、大規模な人の移動は見られません。東の森への兵の派遣も動きは見られないようです」
影人は、攻撃力こそないものの同種族間で意志を共有できる。
霧の身体は姿を隠すのに適しており、彼らは隠密や偵察に向いている。
とはいえ。
本来、影人はその力を危険の回避に使う程度で、隠密や偵察を能動的に行うことはない。
人語を話す個体など、人の中で認識もされていない。
「他に、この森に近づく者は」
「月神殿からこの森につながる街道に隊商が一つ。おそらく森に沿って迂回するでしょう」
影人を見つめる男は、考えるそぶりをする。
「ウェイン」
「はい」
男は影人をウェインと呼んだ。
影人の中で異常に知能が発達した彼に、名前をつけ、人語を教え、そして意思共有の力を使って偵察まがいのことをさせるよう、男が教育した。三十年ほど前のことだ。
ウェインがそのことをどう思っているかは、知らない。
ウェインがそのことに触れることはなかった。
「警戒は解くな。何かあれば逐一報告を」
彼が、カインが月神殿で正体を明かし、東の森へ戻って数日。
魔王討伐隊も編成される様子はない。月神殿は、彼の言葉を信じたのだろう。
討伐隊でも来ようものなら、相手をしなければならない。
小指を動かすほどの労力だとしても、面倒であることには変わりがなかった。
何より。
「リオウの様子は」
今はそれよりも気がかりなことがある。
影人も同じ思いだったのか。珍しく質問が来た。受動的なウェインが能動的に動くのは、彼女に関することくらいだ。
十数年前に出会った彼女のことを、ウェインも東の森の住人達も大切に思っていた。
リオウはいわば、皆の子どもだった。
「今はシンに任せているが、まだ寝たままだよ」
魔力の暴走一歩手前までいったリオウは、ひどく衰弱していた。
おまけに肉体強化と精霊の力で極限まで引き上げられた身体能力に、身体が追い付かなかった。
何本か身体の骨が折れ、靭帯も損傷している箇所がある。
「起きるのを嫌がっているのかな」
そう言って笑ってみても、乾いた笑いしか出ない。
彼女にとって、数日前の出来事は耐え難いものだっただろう。
早くに決断していれば、ノエルも救えた。
けれど彼女はためらった。
人でありたいと、人の力のまま戦った。
彼女が精霊に命令すれば、それだけで事はすんだだろう。
「魔王」を名乗った有翼亜人のように、その場の魔物を粉みじんにしてしまえた。
その決断ができなかった彼女は、今後悔にうなされている。
後悔は、カインもしていた。
闇を従えるカインなら、光の壁など簡単にすり抜けられた。
しばらくそれをしなかったのは、人であった時の「何か」がためらわせたからだ。
その「何か」が弟のことだったのか、教官としての自分だったのか、リオウと同じように人でありたいなどという感傷的な理由だったかは定かではない。
「まぁ明日には起きるだろう」
手に持った薬草や果物の入った籠を見せる。
「滋養強壮、あとはリオウの好物ですね」
「起きたときに、腹いっぱい食わせてやろうと思ってな」
「調理は……シンに任せてくださいね」
遠慮がちにウェインが言った。
彼も一口食べたことのあるカインの料理は、それこそが魔王たる所以かと思わせるほどの強烈な味だった。忘れもしない。そして二度と食べたくはない。
あんなものを食べさせられたら、弱ったリオウは今度こそとどめを刺されてしまうだろう。
「失礼な奴だ、お前は」
すべて顔に出てるぞ、とカインはむくれたように口をとがらせる。
「あ」
話を逸らすべきかと考えたウェインの脳裏に、他の影人からの情報が入る。
「月神殿から真っすぐこちらに向かう、三人組の冒険者がいるようです」
月神殿は最果ての神殿。東端にあるといわれているが、その上、つまり北にそのまま真っすぐ向かえば、東の森へ着く。
が。
「真っすぐ?」
「はい」
比喩ではないらしい。
「道、あったか?」
月神殿から東の森に行くとなれば、まずは北西に向かい、その後北東へと向かう道しかない。
少々遠回りになるが、安全な道だ。というか、その道しかないはずだ。
「ありません」
嘘を付けない影人の言葉に、カインは嫌な予感を覚えた。




