オールドパッション
舞台に立つのは男女四人組。スポットライトに当てられた四人がお辞儀をして小さな拍手が起こる。男女二人ずつでみなそれぞれ歳を召しており、4、50代のみてくれの人だ。僕はこのアカペラのアンサンブルを見に来ていた。どれほど心待ちにしていたことか。さあ、早く僕の心を癒してくれ。聴覚が、いや五感全てがその声を求めているんだ。
一人の男性がすっと息を吸い込む。
その一呼吸だけで、このホールの空気は一変した。
透き通るような高い声音が響き渡る。体をそのまま通り抜けていくような、そんな感覚だ。たった一人の、非力な年老いた人間に、間違いなく聴衆全員が圧倒されていた。続いて他の3人も声をハモらせる。
四重奏、一人一人が楽器そのもの。ふと懐かしい思い出が頭をよぎる。
けれど眼前の四人はそんな暇を与えない。全神経を集中させて彼らの声に耳を澄ませざるを得ない。
四人の輪唱が始まった。深みのある男声が続いたかと思えば繊細でいてしなやかな女声があとを追う。なんてスリリングな追いかけっこなんだ。追えば追われ、追われば追うの繰り返し。美しいで表現するにはおこがましいくらいの調和。無限の螺旋階段を駆け上っていく錯覚に支配されていく。
続いて女性のソロパートだ。彼らの中では一番若そうな慎ましそうな人。喉を震わせ、美しい美声を唸らせる。これは……船、船の上だ。雄大な海を渡れることに対する船の歓喜。どんな荒波も恐れない気高さがその声に滲み出ている。その声は大海をも越えてその先を行くに違いない。四人がまた声を合わせる。陽気な水夫たちの活気ある仕事ぶり。四肢をすり抜ける潮風。カモメたちの鳴く声が聞こえる。この鮮明な情景は何なのだろうか。映画を見ているように色鮮やかな映像が頭の中で再生される。
声が落ちていく。低く、不安げな雰囲気に包まれていた。紺碧の空は黒雲に閉ざされて濁り、波は荒立っている。嵐が来るのだ……四人の歌声は激しさを増していく。全員が鬼気迫る緊迫感を声だけで表現しているのだ。降り出した雨はすぐに豪雨となり船を襲う。海が牙を剥き、力強く暴れ出す。それを船はかろうじて受け止める。絶妙なバランスの上に船はぎりぎり持ち堪えていた。
雷が落ちる。轟音を轟かせて船を軽々と貫いてみせる。かろうじて耐え忍んでいた船は堪らず音を上げる。浸水していく船を懸命に持ち堪えさせようとする乗組員達。しかし誰もが知っている。その努力が無駄なものであることを。
ああ、人はこんな絶望をしってなお生きていられるものなのだろうか。自由落下とは違う。重く深く、沈み溺れ死んでいく寂寥の孤独。大自然の前にあまりに無力なちっぽけな人間。あまりに無残ではないか。誰かが船底を海底に引きずりこんでいく。
船の最期だ。最初に歌い出した男性が一人、弔いの声を上げる。朽ちゆく船は誰にも存在を知られることなく、海底でその身を休ませるのだ。さあ、ゆっくりおやすみ……
すべての観客が立ち上がりその手を叩き合わせた。スタンディング・オベーションの大絶賛の合唱。
ーーー伝説の序曲の始まりだったーーー
「最高だよティミー!なんでもっと早くこの人達のコンサートを聞きに来なかったんだろう。一度聞いたら、忘れろと言われても忘れられないよ!」
「てぃむー!」
興奮も冷めやらぬコンサート後。圧巻の序曲に始まり、夢のようなアンサンブルを観賞した僕達の話題は尽きることが無かった。僕がいくコンサートは大抵がオーケストラの演奏であったが、これからは合唱もチェックしようと固く心に誓った。
「おー、よくわかんねーけどぐわーってきたな!」
「そうね、素晴らしさは素人でも十分伝わったわ。」
あまり芸術事に興味を示さない2人の好評に心なしか僕まで嬉しく思えてきた。パンフレットの印刷には「オールドパッション」というグループ名とメンバー四人の名前が記されていた。記憶にその名を刻みつけてポケットに突っ込む。
「んじゃ、今日のところはホテル戻ろうぜ。」
「ああごめん、2人は先に戻っててよ。僕とティミーはもうちょっとここ観ていこうと思ってるから。」
「てぃむ〜。」
「おうじゃあな、長居しすぎて関係者に摘み出されなきゃいいけどな!」
「あはは、言えてるわ〜。罰金取られてもお金貸さないわよ?」
憎まれ口で2人と別れた僕はそっとホールへと戻る。聴衆は既にもういない。伽藍堂のホールで耳をすませば、かつてここで演奏したというチャイコフスキーのピアノが聞こえてくるような気さえしてくる。
「てぃむ〜!」
ティミーは座席の上をぴょんぴょん跳びながら舞台へと進む。
カーネギーホール、音楽家なら誰しもここで演奏することを夢見るだあろう最高の舞台。伝説の巨匠たちが実際に立った舞台でヴァイオリンが弾けたらどんなに素晴らしい事だろうか。今日のオールドパッションさんたちはその舞台に恥じない、最高以上のものを聴衆に与えた。僕もいつかここで……ふと、昔赤鬼に「ここに行きたい。」と言った時、それにまつわる冗談を教えてくれたことを思い出す。
「練習して練習して、もっと練習しろ、か。」
ヴァイオリンケースに目を落とす。鍵が壊れたそのケースは少しくたびれて見える。僕はそれに見合うだけの練習をしてきたのだろうか。ある人から手渡されたこのケースは年季の入った汚れと少し金具の錆が目立つが担ぐとびっくりするくらい肩に馴染む。
「ティミー、そろそろ行こうか。見つかったら本当に怒られちゃうしね。」
最後に照明の落とされた舞台に目を向け、そっと背を向けてホールを去った。
外はもう夕暮れ時、空が茜差してきた。2人に心配かけさせちゃうな、早く帰らなければ。白コンクリートの階段を降りきろうとしたその時、前に立ち塞がる影があるのに気づく。夕日で伸びたそのシルエットには少し見覚えがある。
「み、見つけました!」
「げっ、あの時の、あの時の……えっと、名前なんだっけ?」
「エース・ダイヤモンドです!今度こそ逃がしませんよ!」
昼間のお巡りさんが僕を睨みつけていた。本当になんて一日だよまったく。