ジェヴォールの森を行く
二人で並んで歩き出すと、やや進んだところでルシアンは立ち止まった。
訝しく思って見上げると、彼はアマリーの足元に鋼色の瞳を落としていた。
アマリーの足は靴を失っていた為に、森の植物や岩との接触によって所々出血していた。
ルシアンはやや驚いてその足を凝視した。
「お怪我をされている」
「ええ。かすり傷だから、お気になさらないで」
「歩かれない方が良い。竜の背にお乗せする。飛べば先ほどの所まで一瞬だ。よろしいか?」
ーー竜の背に!?
とんでもない提案に、目を剥いて竜を探した。
竜はアマリーたちの前方に、木をなぎ倒して立っており、首を傾けてアマリーを見ていた。
ゴツゴツの皮膚は異様で、その緑色の大きな瞳がアマリーと合うなり、竜はグエェェェイ、と鳴いた。
口角が上がり、笑っているみたいな顔をしている。その上、ルシアンが近づくとまるで猫が甘えるようにグルルル、と喉を鳴らすが、ちっとも可愛くない。頭の中まで振動を感じる太い鳴き声が、恐ろしい見た目を助長するのだ。
それに半開きの口から覗く歯は見事なまでに白く輝き、その大きさに鳥肌が立つ。
ーーあれに乗る!?
「よろしく……ないわ。結構よ、私は乗りたくない……」
「ですが、」
「むり、無理、無理よ。あんなものには乗れないわ」
「その足で森を歩かれるのですか?」
「大丈……」
アマリーが言うを待たず、ルシアンが突然屈んだと思ったら、アマリーを抱き上げた。硬い腕が腰や腿に巻きつき、一瞬で顔に熱がのぼる。
「お、下ろして! 何するの……」
暴れるとルシアンは不機嫌そうな顔でアマリーを見上げた。
だが対するアマリーも怒っている。
(女性をこんな風に気安く抱き上げるなんて。なんて失礼なの。しかも私は仮にも今、王女なのに!)
自分の足に回された腕が不快であるばかりか、有無を言わさぬ態度に恐怖を覚えて、ついに足に力を込めてルシアンの腹を蹴った。
「お放し! 無礼者!」
ようやく腕がするすると解かれ、アマリーは地面に下ろされた。安堵しつつも見上げれば、ルシアンは冷たげな鋼色の瞳で彼女を睨んでいた。
「ではもといた場所まで、歩いて行かれるおつもりか?」
「担がれるより早いはずよ」
「どうかな。その短く細い足で森を歩き回れるのか?」
なんて失礼なんだろう!
カッとなって反論しようと口を開きかけ、なんとか理性で押し留める。
(落ち着いて。落ち着くのよ……! リリアナ王女らしくしなくちゃ)
アマリーが黙っているとルシアンは背を向けてスタスタと先へ進み始めた。
それを慌てて追う。
道は非常に悪かった。
倒木や藪が茂る中を進まなければならなかった。
前を行くルシアンは速度を落とさず颯爽と進んだが、ついていくアマリーはちょこまかと足を繰り出さねばならず、早々に息が上がった。
(ーーなんて歩きにくいの!)
視界を遮る草木を手で払いながら歩いていると、あることに気づき、アマリーは瞠目した。
自分の左手の指に、キラリと光る見慣れぬ金色の指輪がはめられていたのだ。薬指には何もはめていなかったはずなのに。
(何この指輪。いつの間に……)
ーーあの時だ。
よく思い出せば、指に何かをはめられた感覚がたしかにあったではないか。
馬上で無理やり近衛騎士からキスをされた時だ。唇を奪われたショックに気を取られ、手の方を気にしていなかった。
あの時、押し当てられた雨に濡れる男の唇の感覚をつい思い出してしまい、慌てて口を袖でゴシゴシとこする。
指輪にも先ほどの男の怨念のようなものが篭っていそうで、不気味に思えた。
アマリーは慌てて指輪を指から抜いたが、すると今度は処分に困った。
本来は王女のものだと思うと、ポイっと投げ捨てるのも躊躇われる。
仕方なく指輪をポケットにねじ込む。
顔を上げると、ルシアンは変わらずアマリーなど存在しないかのように、サクサクと調子良く進んでいた。倒木もなんのその、長い足を駆使してヒラリとこえている。
腰ほどまで茂る藪をルシアンが軽く跨ぎ越し、アマリーもそれに続けと足を高く上げーー、跨ぐのに失敗した。
ズボリと藪の中に片足を踏み込んでしまい、その直後にもう片方の足も宙に浮く。
「わっ……やだっ……!」
藪の中に完全にはまり込んでしまい、両手を振り回すも、手が小さな枝を折るだけで何の効果もない。
スカートはすっかり捲れ上がり、足に藪が刺さって痛い。
思わず助けを請うために前方をいくルシアンに視線を投げると、彼は上半身だけで振り返り、腰に両手を当てて、いかにも呆れた風情でアマリーの惨事を眺めていた。
(信じられない。見ているだけーー!? )
ルシアンはそこから一歩も動かない。
助けてくれるどころか、冷たい視線をくれている。
「ちょっと、助けなさい……!」
「ーー人に物を頼む態度ではないな」
そんなことを仮にも王女に言うなんて、信じられないーーアマリーは驚き過ぎて喘いだ。
「……た、助けて……動かないのよ」
「竜に乗るか、私に担がれるかどちらか選んでくれ」
「どうしてその二択なのよ……!」
「一生そこでハマる方をお選びか」
そう言い残すとルシアンは顔を背けて先へ進み出した。
目にしているものが信じられない。
仮にも王女たる自分を森の藪にハメたまま置いていこうなんて。
「ちょ、待ってよ! 待ちなさい!」
男はアマリーの命令を清々しいほど無視した。
(こんな森のど真ん中に置いていかれたら死んじゃうわよ!!)
アマリーは小枝を握り潰す勢いで掴みながら、叫んだ。
「ーーま、待ってください! 分かったわ。担いで頂戴!」
懇願が通じたのか、ルシアンは止まってくれた。アマリーは心底ホッとして小枝を離した。
彼はアマリーの所まで引き返してくると、彼女の両脇に腕を回し、勢いよく引いた。まるで農作物でも引き抜くような乱雑さだったが、文句は言えない。
アマリーをそのまま子どものように抱え上げると、ルシアンはいかにも不承不承と言った顔付きで、言い捨てた。
「これ以上その足で歩いて無理をなさると、足が腐り落ちる」
「えっ……」
ルシアンは溜め息をついて、アマリーから顔を背けて眉をひそめた。
自分だってアマリーを抱えたくはないが、仕方なくそうしている、と言いたげな表情だった。
身体に回された腕が恥ずかしく、下ろしてもらおうかと逡巡した。だが、竜の背に乗るのも怖かった。
……足が腐り落ちるなんて、もっと嫌だ。
「私、重くないかしら?」
「重いな」
凄まじい勢いで球を打ち返された気持ちになった。顔面に球が当たり、一瞬息が止まるくらいの。
「ご、ごめんなさい」
一応詫びてみたが、ルシアンは何も言わない。
せめて返事をして欲しかった。
アマリーを抱えたまま歩くルシアンを、竜はのろのろと追いかけて来ていた。
アマリーが恐々とそれを振り返って確認すると、ルシアンは溜め息まじりに言った。
「竜がお珍しいか?」
「ええ。私の国にはいないの」
アマリーを下から見上げるルシアンの瞳は、不躾なまでに真っ直ぐにアマリーを見上げていた。
目元は涼しげで、自分とあまり年齢が変わらなそうなのに彼が敬語を使わないことに、少し違和感を覚える。
(私はリリアナ王女だと言ったのに)
この男が南ノ国の騎士だとすれば、返す返す随分無礼な態度だ。
軍事大国の南ノ国では、きっと軍人の立場が相対的に高いのだろう。その上竜騎士ともなれば、重宝がられて傲慢になるのかも知れない。
そう考えながらルシアンの顔を見ると、目が合った。
その射抜くように力強く自分を見上げる瞳に、密かに困惑してしまう。
(何を考えているのかしら……?)
端正な顔立ちの裏に隠した意図が、読めない。
怖くなってアマリーは目を逸らした。
早く他の皆と合流したい。そして、この不気味な森を出たい。
いや、リリアナ王女のフリをやめたい。
予定外の出来事の連続に、アマリーは身も心も疲弊しきっていた。
そうしてルシアンに抱えられた結構な道のりを、それきり黙って過ごした。