竜の上の南ノ国人
こんなはずではなかった。
隣国の建国記念祝典に参加する王女として、アマリーは美しく着飾っていた。
王宮を華々しく出発して、街頭で歓声を上げる市民に送られてーー祝いに包まれてここまで来ていたはずだった。
それなのに僅かな時間のうちに、事態は一変していた。
昼間とは思えぬほど、暗い森の中。
隊列から遠ざかるアマリーの視界の端に、必死にこちらへ走ってくる兵たちとカーラの姿を見た。だが直ぐに木々に阻まれ、それも見えなくなった。
空から降り注ぐ雨は止むことを知らず、鬱蒼とした森の木々の葉を通り越し、ドレスをどんどん濡らしていく。
男はアマリーを後ろから抱き締めていたが、それでも少し走っただけでアマリーはずぶ濡れだった。
震えが止まらないのは寒さからか、恐怖からか自分でも分からない。
(どうして、なんでこんなことに……? この人一体何なの?)
馬の速度が緩んだのを見計らい、アマリーは男に話しかけた。
「お願い、こんなことはやめて! 私を返して!」
「リリアナ様。貴女は私がお嫌いになったのですか?」
元々好きですらない。
「貴女と逃げる為に近衛騎士も辞めました。ーーもともとは貴女に近づくために血の滲むような努力をして、近衛騎士になったというのに」
えっ、あんた近衛騎士だったの? とアマリーは馬上で目を剥く。王族を守るためにいる近衛騎士が、ここで何をしている。
「 私のためなら全てを捨てられると、貴女もかつて仰ったではありませんか。その言葉を糧に、貴女を奪いにここまで来たのです」
震えながらもアマリーは状況を懸命に整理した。
男の話が本当ならば、どうやらリリアナ王女とこの近衛騎士は恋人同士だったらしい。しかも男はいまだ激しく未練を抱いているようだ。
別れ方がよほどまずかったのか。
「リリアナ様。これが私の覚悟です。貴女と共に生きていくための。その証を受け取って下さい」
男はグッとアマリーの顎を掴んだ。その物凄い力に心臓が凍りつきそうなほどの恐怖を覚え、ひっ、と声が漏れる。
揺れる馬の背の上で、男の顔がアマリーに迫り、噛みつくような口付けをした。抵抗しようと手を振り上げると、いとも簡単に絡め取られ、その指先に何かをはめられた。ようやく唇が離され、粗くなった呼吸を整えると、馬の速度はかなり落ちていることに気づく。あまりの恐怖にもうこれ以上、馬に乗っていられない。
飛び降りれば怪我をするかも知れない。
(でもキスされるくらいなら、肋骨の一本や二本、折れた方がマシよ!)
だが動きを察知されたのか、男はアマリーを抱え直し、激しく馬の脇腹を蹴った。
馬の走る速度が再び上がる。
(逃げられない……!)
見上げると男の表情は怖いくらい真剣だ。
キツくうねる黒髪を伝い、雨が彼の額を滑り落ちその目を濡らすが、彼は瞬きすらしない。余程馬を疾走させることに集中しているようだ。
(怖いよ……、怖い!! どうしよう、どうやってこの男を止めたら良いの?)
説得には応じてくれなさそうだ。何しろこの男は色んなものを捨ててまで、ここに来ているのだろうから。
そうなれば、もうアマリーが偽物だと打ち明けるしか、ないかもしれなかった。
でもそうなったら、一億バレンはどうなるだろうか。
(私の一億バレンを返してよーー!)
その時だった。
疾走していた馬が突然びくりと震え、足を止めた。
上空から、奇妙な咆哮が聞こえたのだ。
それまで頭の中でぐるぐる渦巻いていた思考が、真っ白になる。
「何だ……? 今の声は……」
男が動揺する声で呟いた。
森の中で馬を止め、アマリーたちは全身に緊張をみなぎらせた。何事かと耳をそばだてる。
すると、グエー!、という凄まじい音が頭上から降り注いだ。
その獣の咆哮に似た音は、アマリーたちの全身をびりつかせ、本能的に恐怖を感じさせた。
それは何かとてつもなく巨大な動物を彷彿とさせる鳴き声だった。
男は剣を抜刀し、瞬時に警戒態勢をとる。
アマリーたちは、一様に空を見上げた。
雨を避けながら見上げるアマリーたちの視線の先に、大きな黒い影が横切る。
自分の目を疑った。
鉛色の空を、長い尾を靡かせた二枚の翼を持つ生物が飛んでいたのだ。
「竜だ!!」
男が叫ぶ。
(竜? あれが、竜なの?)
西ノ国には竜という生き物が生息していない。
本や絵画の中に描かれた竜の姿を見たことはあっても、この目で本物の竜を見たことなど、今まで一度もなかった。
大陸の南に生息する竜は、犬より嗅覚が鋭く、飛べば馬より速く、どんな剣より鋭利な爪を持つのだという。
木々を揺さぶり、地を這うような低い咆哮が、今度は上空のあちこちから上がった。
空高く鬱蒼と茂る濃い木々で視界が遮られ、判然としないが、鳴き声を上げた生物はおそらく複数体いるのだと予想される。
見上げているとアマリーたちの真上、遥か上空にいた竜が一気に降下を始めた。
(ぶつかる!?)
咄嗟にアマリーは頭を庇い、目を固く閉じた。
やがて衝撃音と激しい振動が地面越しに伝わった。
目を開けると、近くの木々が薙ぎ倒され、ーーそこには奇妙な生き物が降り立っていた。
あまりの光景に、アマリーは呼吸を忘れた。
灰色の皮膚は岩のようにゴツゴツとしていた。
何本ものツノが生えた頭は大きく、それを長く太い首が支えている。まるで巨大な蜥蜴だ。
長く鋭い爪を持つ後ろ足は太く、それよりやや小さい手は、薙ぎ倒されて横倒しになった木々の上に掛けられていた。
尾は大木の太さで、身体と同じ長さがあった。
なんと異様で、そして圧倒的な生き物なのだろう!
その奇妙な生物が、ゆうに大人二人分はあろうかという長い翼を畳むと、竜の背の上に乗る黒い衣装の男の姿が見えた。
男はアマリーたちを見下ろしていた。
ーーあれは、人間なの?!
こんなに大きく凶悪な見た目の生物の上に、人が乗っているーー。アマリーにはそのことが信じられなかった。
アマリーをしっかりと抱き寄せながら、男が叫んだ。
「まさか、竜騎士!?」
竜を操る騎士は南ノ国では竜騎士と呼ばれていた。
(これが竜騎士!?)
男が手綱を握り直して馬を反転させる。すると彼らの後ろにも、轟音を立てて別の竜が降り立った。
「リリアナ様、逃げましょう!」
挟まれたことに気づいた男はそう叫ぶと、二人を乗せた馬を再び走り出させた。
彼らを乗せた馬は、木立の細い隙間を木にぶつかりそうになりながら、駆け抜けていく。
馬を操ることに集中した男は、両手を手綱にかけ、剣を離した。
その隙に馬を降りようとアマリーは暴れた。これ以上連れて行かれるわけにはいかない。
「私を離して! !」
刹那、あの奇妙な咆哮がすぐそばから聞こえ、アマリーたちを乗せた馬はそれに驚いて急に暴れ始めた。
左右に跳ねる馬をどうにか落ち着かせようと、男は手綱を強く引くが、効果はなかった。馬は激しくいななくと、急に後ろ足で立ち上がり、背中からアマリーたちを振い落とした。
そうして身軽になると、馬はあっという間にその場から逃げていった。
本能的に竜を怖がったのだろう。
男はアマリーを健気にも抱き抱え、己が盾となって落馬の衝撃を和らげてくれた。
胸を押さえて呻く男を必死で振り解くと、アマリーは手をついて立ち上がった。
(今だ! 逃げなきゃ……!)
走り出したアマリーを、逃すものかと男がすぐに追う。
「リリアナ様! どちらへ!?」
その時だった。
轟音と共に木々が横方向へと薙ぎ倒されると、飛び散る木の屑の合間から、大きな緑色の目があらわれた。次の瞬間、バキバキと木を砕く音を立てながら、竜がその長く鋭い爪を持つ足を一歩ずつ前に進め、こちらへと近づいてくるのが見えた。
その金光りする緑色の瞳は、意外にも睫毛が長く、アマリーたちをジッと見つめている。
アマリーの倍はあろうかという竜の背中の上から、そこに座っていた竜騎士が口を開く。その灰色の目はとても力強く、雨の中ですらアマリーにひたと注がれていることが分かる。
「リリアナ王女にあらせられるか?」
よく通る、若い男性の声だった。
アマリーは震える声で叫んだ。
「そうです!……た、助けて!」
竜騎士はひらりと竜の背より舞い降りると、着地した次の瞬間にはもうこちらに駆けてきていた。
男の手がアマリーの腕を離れ、竜騎士と剣をぶつけ合う。逃げるなら今しかない。
その隙を逃さずアマリーは木々の間に駆け込んだ。
駆け始めて間もなく、後ろの方で男の絶叫が上がった。アマリーを攫おうとした男か、もしくは竜騎士のどちらかが叫んだのだろう。
勝敗が決したらしい。
だがアマリーは振り返らなかった。
(カーラは……、オデンたちは?)
皆の元へ戻ろう、と懸命に走った。
靴はとうに脱げ、その下に履いていたものは擦り切れ、殆ど裸足でアマリーは走っていた。不思議と痛みは感じず、ただ心臓の鼓動だけが胸に痛みを与えていた。
走り疲れて速度を落とした頃、背後から猛烈な力で肘を掴まれ、止められた。
その反動で蹴躓き、アマリーは地面に倒れこんだ。
肘を掴まれたままだったので、転倒は膝の辺りまでで免れたが、掴むその強さにアマリーは却って恐怖を覚える。
震え上がりながら顔を上げると、アマリーを掴んだのは先ほど男と剣で戦っていた竜騎士だった。
ーーつまり、倒されたのは近衛騎士の方だったのだ。
得体の知れない竜騎士の再登場に、悲鳴を上げて急いで立ち上がり、可能な限り距離を取る。
「せっかくお助けしたのに、どちらへ行かれる」
竜騎士は頭の形に合わせた銀色の兜と同じ輝きを持つ鋼色の瞳をアマリーにひたと向けていた。
「間に合って良かった」
竜騎士はアマリーの腕をまだ掴んだままだったので、アマリーはつい怖くなって彼の腕を振り払った。
すると彼は少し傷ついたように眉根を寄せた。
「あの……、さっきの男性は……?」
「貴女を連れ去ろうとしていた男のことか? 森に転がしてきた。ーー貴女が走って明後日の方向に行かれてしまうから、トドメがさせなかった」
竜騎士はアマリーが逃げたことを不満に思っているらしい。その非難がましい視線を浴びがらも、思わずあの近衛騎士が血まみれで倒れている光景を想像してしまい、両手で口を覆った。
あの近衛騎士はもしかしたら、リリアナ王女の元恋人かもしれない。まさかこんなことになるなんて、思いもしなかった。
「怖がらないでくれ。お迎えに参った」
「迎え……」
竜騎士は低い声で答えた。
「私は南ノ国の者だ。国境で王女様御一行をお待ちしていたが、森の鳥たちが一斉に方々へ飛び立つのが見えた。西ノ国の隊列に何かあったのだろうと、竜を飛ばして来たのだ」
「まあ、……そうでしたの」
アマリーはほんの少し警戒を解いた。
でもまだ、震えが止まらない。
「ジェヴォールの森は夕方までに抜けないと危ない。ーー貴女がたを襲ったのは、何者かご存知か? 一体何があった?」
そんなのはこちらが教えてほしいくらいだった。
アマリーは即座に首を左右に振り、自分にも全く分からないのだと答えた。
あの男が近衛騎士かもしれない、ということも言わない方が良いという気がした。
近衛騎士がこのような失態を犯したとすれば、西ノ国の責任問題に発展するだろうし、王女の恋愛沙汰が明るみに出る可能性があるからだ。それはまずい。
「ねぇ、竜騎士さん、」
「ーー私はルシアンだ」
「……ルシアン、隊列からはぐれてしまったのだけれど、西ノ国の皆の所へ、連れて行って貰えるかしら? 」
実を言えば、来た道を一人で辿れる自信がなかった。
「致しましょう」
ルシアンはアマリーの背に手を当て、先導するように歩き出そうとしたが、あの不気味な竜に乗っていた男性に身体を触られるのが何となく恐ろしく、アマリーは思わず大仰によけてしまった。
アマリーがパッと離れると、ルシアンは上げていた手を束の間硬直させ、やがてゆっくりと拳を握りしめ、静かにそれを下ろした。
ルシアンはアマリーにあからさまに避けられたことに、苦笑した。