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ニセモノの決意

 翌朝、まだ白み始めたばかりの空の下。

 ファバンク侯爵夫人は白い華奢なレースの手袋をはめた手で両手バサミを持ち、庭の低木の枝を切っていた。

 バチっ、ガキっ、とやや重みのある音を立て、伸び過ぎた枝を剪定していく。


「シエーナ、聞いているのか?」


 真後ろでした鬱陶しい声に、侯爵夫人は溜め息と共に振り返る。

 手の甲で額の汗を拭うと、彼女は地面に落ちた枝葉を拾い集める。


「ーー聞いておりますわ。それで? 今度は五億でアマリーを南に売れと?」

「そ、そういう訳ではない。ジュール王太子は素晴らしいお方だ。アマリーやお前にも、悪い話じゃあないはずだ」


 侯爵夫人は眉をひそめて異母兄である現国王を見た。

 供も連れずに現れた国王は、厚手の外套を脱ごうとはせず、顔に流れ落ちる汗をひたすらハンカチで拭いていた。

 隣国の貴賓を招いている最中に国王が王宮を抜け出して侯爵邸を訪ねて来ているのだ。それもこんな早朝に。

 いかに切迫した状況なのかは推し測られたが、それとこれとは別問題だ。


「お兄様はそれでリリアナ王女をどうなさいますの?」

「リリアナを王宮に置いておくわけにはいかぬ。一番良いのは、リリアナはファバンク家の娘としてアマリーの代わりにこちらへ来させて……」

「そんな子、いりませんわ」


 バッサリと言い捨てられた国王は天地がひっくり返るほど驚いた。シエーナは昔から大人しく、反論したことなどなかった異母妹だった。そのシエーナがこんな言い方をするとは。

 そもそも国王はシエーナが大きな剪定バサミを振り回して庭木の手入れをしていることに驚いた。

 というより、ファバンク邸の庭の状況に唖然とした。

 広い庭はそのほとんどが未開の森のように荒れていた。子どもが迷い込んだら数日は出て来られないかもしれない。

 侯爵夫人はその庭園のごく一部だけでも、元の状態を保とうと努力していた。


「ファバンク侯爵家は金銭的にかなり困窮して久しいとも聞いている」

「だから、アマリーを売れと?」


 侯爵夫人は剪定バサミをグッと握り締めた。

 そもそもアマリーを南の祝典になどやるべきではなかったのだ。それ自体が間違っていた。

 アマリーは帰国後、ほとんど笑わない子になってしまった。時折屋敷の中にある竜の描かれたタペストリーをぼんやりと眺めては、目を赤くしていた。

 王女の身代わりなどをさせた代償は大きかった。侯爵夫人は強く後悔していた。

 夫である侯爵に意見を言わなかった責任は重いと感じていた。守るべきものがあったのに、貞淑な妻でいることを優先してしまったのだ。


「今、ここでお兄様に娘を差し出すほど私落ちぶれてはおりませんの」


 国王は朦朧としながら異母妹の名を呼んだ。

 侯爵夫人は一際不恰好に成長し過ぎた木の横まで歩みよると、片手を腰に当てて見上げた。侯爵夫人の記憶が正しければ、元は綺麗な長方形に刈り込まれた木のはずだった。

 気合いを入れるために袖をめくり直すと、思い切ってハサミを入れ始める。

 そんな侯爵夫人に追い縋る国王に、侯爵夫人は背中を見せたまま言った。


「薔薇を摘んでいるのではありませんの。忙しいのでもう帰って下さる?」


 国王は腰を抜かして座り込んだ。

 引き下がるわけにはいかないのだ。

 リリアナが嫁いでくれる気になろうが、最早彼女ではジュール王太子が妃に迎えてはくれない。

 南ノ国にとってはーーいや、西にとっても王女の役割はアマリーにしか今や果たせない。

 国王は侯爵夫人に追い縋って四つん這いで進んだ。伸び放題の雑草が手の平にチクチクと刺さったが、焦燥が完全に凌駕し、痛みは感じなかった。

 身分低い側妃から生まれたこの異母妹に、何かを心底請う日が来ようとは、夢にも思っていなかった。

 国王は両膝を地面についたまま、片手を上げて侯爵夫人を呼び止めた。


「頼む、ーーでは、な、七億。七億バレンでどうだ……? それにリリアナは田舎に送る。こちらに来させる気はない」


 侯爵夫人は何も言わず、茂る木々の小枝を剪定し続けた。

 国王はこめかみから頰に流れ落ちる汗を払いながら、更なる提案をした。


「八億。八億バレンにしよう。ーー頼む、シエーナ……」


 すると突然背後の雑草を踏みしだくカサカサとした音が聞こえ、間髪容れずに澄んだ声が朝靄の庭に響いた。


「十億。……十億いただけるなら手を打ちますわ」


 はっと目を見開いて声の方角を確かめると、そこには白くシンプルなドレスを着たアマリーが立っていた。

 アマリー、と咎めるような声で侯爵夫人が言いながら、木から両手バサミを離す。

 アマリーはゆっくりと国王のそばまで歩いて来た。

 王宮で見た時とは異なり、装身具もなくまだ髪を無造作に垂らしたまま、簡素な衣服に身を包んだ侯爵令嬢を前にすると、束の間リリアナとはまるで別人のように見えた。

 呆けたようにアマリーを見上げる国王に、もう一度いう。


「陛下。十億バレン下さいませ。それで参りますわ」

「ほ、本当か……?!」

「アマリー! そんな事を貴女がする必要はないのよ」


 狼狽して首を左右に振る侯爵夫人に対し、穏やかな笑みを浮かべながら、アマリーは言った。


「良いんですお母様。ーー男爵も子爵も本当は嫌いなんです、私」

「で、でもアマリー……。南の王太子様は、」


 侯爵夫人に向かってアマリーはきっぱりと言った。


「私、ジュール様が好きです。竜も、あの国も」










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― 新着の感想 ―
[良い点] 十億! 良いですねぇ。 こういうウィットが岡達先生の魅力です。
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