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王太子、西を訪ねる

 シエーナ商会は船を他社と共同で所有していた。

 西ノ国最大の貿易港から、父が営む商会の貨物を積んだ船が出て行くのを、アマリーは複雑な気持ちで見つめた。

 あの船は海を渡って南ノ国に行くのだ。


 アマリーが南ノ国から帰国して、一月が経っていた。……まだ一月。

 けれどエルベ城で過ごした日々は、遥か昔の出来事に思える。あの時見た光景が、走馬灯のように頭の中に蘇る。竜の背中の上から見た街並み。夕方の祝典。

 ーージュールの鋼鉄の瞳。


 この船に乗った靴や財布が、王宮の人に使われることはあるだろうか?

 そうしていつか、ジュールの目に触れることがあるだろうか?


 帆を上げて離れていく船を、護岸に立ち感傷に浸りながら眺めてしまう。

 アマリーのすぐ近くで台車を押す男が大きな声を上げ、我に帰る。現実に引き戻されれば、そこは貨物と人々がごちゃごちゃと行き交う、喧騒の中の開港だ。

 後悔と罪悪感を抱えて、アマリーは海に背を向け商会への帰路についた。




 ファバンク邸から少しの距離にあるシエーナ商会に帰り着くと、商会最年長の職員であるダグラスが革靴を机上に乗せ、何やら小型ナイフで切れ込みを入れていた。

 ダグラスは新商品の靴が入ると、必ずその解体を行なった。

 これはアマリーが子供の頃から遊びに来ていた商会で、最早見慣れた景色だった。


「靴の中に手を入れてご覧なさい、お嬢様。その靴の質が一瞬で分かりますとも」


 口癖のようにダグラスはそう言ったが、アマリーには実のところ良く分からなかった。

 作業を邪魔しないようにそっと近づいて見ていると、ダグラスは針のように細い小さなナイフで、靴の甲にある糸の縫い目をチクチクと切っていた。そうして爪先やかかとにある当て材や装飾の部材を剥がしていき、解体していく。

 やがて甲部分を底から浮き上がらせると、彼はニヤリと笑った。


「最近王都に出来た靴屋の職人が作ったものです。若いのに、素晴らしい」


 靴職人にとっては、いかに丈夫で歩きやすい靴を作るかは至上命題だったが、その両立が難しいのだ。

 頑丈を目指すと分厚く重くなるのが通常だったが、質の高い製品はそれを技術で軽く仕上げていた。

 ダグラスは甲が底にいかに上手く取り付けられているかを、常に注視していた。


「中底の下に、実に丁寧に織り込まれて縫い付けられている。この縫い目をご覧下さい」


 ダグラスは片目に掛けていた丸い眼鏡を外し、満足気にアマリーを見た。


「外見からは分かりませんな。化けの皮を一枚一枚、剥がしていくと本当の価値が分かるのです」


 革や糸屑で散らかった机の上を掃除し始めるダグラスに、アマリーは曖昧に笑って相槌をうった。

 ーー自分はジュールにとって、さぞ安っぽい靴だったことだろう。

 何を見ても聞いても、南ノ国での一週間に気持ちが引き摺られ、そんな自分が嫌だった。





 尖塔に登る狭く急な螺旋階段をリリアナは登っていた。

 階段の造りは粗かった。途中でやけに幅が狭くなったり、段ごとの高さにバラツキがあったり。

 手すりにしっかりと手をかけ、リリアナは上を目指した。

 尖塔の上に出ると秋の涼しい風が吹き、リリアナの髪を弄ぶ。大人が数人ほどしか立てない狭い尖塔だったが、王宮の建物から突き出るように取り付けられており、見晴らしは良い。

 リリアナは髪を抑えて北の方角を必死に見た。ーーその先にアーネストが幽閉されている北の塔があるのだ。


「アーネスト!」


 叫んでも声は届かない。

 だが日当たりが悪く陰気な灰色の北の塔の小さな窓は、その距離からもはっきりと見える。

 時折廊下を歩く兵士の横顔が確認できる。

 リリアナはアーネストがいるはずの最上階の窓に視線を走らせる。

 ジェヴォールの森で負った傷はかなり快復し、今は塔の中を自力で移動しているはずなのだ。


「やはりここにいたのか」


 背後から不意にした声に振り返ると、そこには階段を上り終えて尖塔にやって来た国王がいた。

 尖塔の外に視線を投げながら国王が歩くと、リリアナは少し横にずれて国王のために場所を開けた。

 国王は腕を組んだまま北の塔を見つめた。


「今度我が国に南ノ国のジュール王太子殿下がいらっしゃることになった」


 リリアナの青い瞳がゆっくりと大きく見開かれる。リリアナは隣に並んで立つ国王の横顔を見上げたが、国王は外を見続けていた。


「今度こそお前は王太子殿下とお会いするのだ」


 アマリー扮するリリアナ王女が西ノ国に戻ってから二ヶ月が経とうとしていた。

 西ノ国王は南ノ国の祝典に王女が招かれた返礼に、今度は南ノ国の王太子を西ノ国へと招待したのだ。

 表向きは単に友好親善を目的とした招待だったが、西ノ国王はこれを機会に一気にジュールとリリアナの縁談を進めるつもりだった。中ノ国の王女エヴァとジュールの話も特に進展がないと聞きかじっていた為、一気に攻めるべきだと思ったのだ。

 リリアナはその白い手を胸の前で握り、国王に向き直ると嘆願した。


「ジュール様と会いますわ。……ですからお願い、アーネストを助けて下さいませ」


 風が吹き国王の髪を揺すったが、彼は瞬き一つしなかった。元恋人の命乞いを未だにする一人娘に呆れ、そして失望していた。

 リリアナは大人しく従順な王女のはずだった。それが一体いつから、いつの間にこれほど強い光を灯した瞳で自分を真っ直ぐに見るようになったのだろう?

 扇子で顔を隠し、よろしくてよ、と囁くばかりの身体の弱い王女は、どこへ行ったのか。

 愛する人を手放した経験が、王女の精神を強くしたのだろうか?

 そう考えるのは国王にとって苦痛でもあった。彼の可愛かったリリたんは、ある日気づくと全く違うひとりの女性へと変貌を遂げていたのだ。


 細かなシワが刻まれた瞼に力を入れ、国王はリリアナを睨みつける。微かに怯えた様子のリリアナに彼は非情な宣告をした。


「南に嫁ぐのならば、アーネストの命を助けてやっても良い」


 南に嫁ぐ。

 それはすなわち、愛するアーネストとの永遠の別れを意味している。

 だが、そうしなければ違う方法でアーネストとの別れが来るだろう。

 リリアナは風に消え入りそうな声で答えた。


「お父様がそう仰るのなら……」







「リリアナ様、起きて下さい」


 女官が安眠を貪っていたリリアナに声を掛ける。

 爽やかなレモン色の花柄のカーテンが開かれると、王女の広い寝室を一瞬で陽光が満たした。

 ゆっくりと上体を起こしたリリアナの長い金色の髪は、あちこちに寝癖がついて広がっている。


「さぁ、今日は忙しくなりますから、お支度を始めませんと!」


 一斉に大勢の女たちが部屋に入ってきた。

 髪結い係に衣装係、靴係に化粧係。

 起床直後の洗顔を女官が手伝うと、彼女たちがリリアナを取り巻き、美しく飾り立てていく。


「リリアナ様、二ヶ月ぶりでございますものね?」


 女官に尋ねられて、リリアナは一瞬何のことか理解しかねた。すると髪をとかしていた若い娘が、はち切れんばかりの笑顔で口を挟む。


「ジュール王太子殿下とお会いするのが、でございます!」


 ぎこちなく笑みを浮かべ、リリアナはええ、そうねと答えた。


「王宮の門の前にまだ大勢の民が集まっておりましたよ」


 化粧係はふふっと微笑むと朝の城門の前の様子を話した。

 南の一行は今回、本国から二頭の竜を連れて来ていた。表向きは王太子の警備のためとされていたが、南の国の国威を一目で見せつける目的もあった。西の民が竜を目にすれば、恐れおののき非力さを実感するのは火を見るよりも明らかだった。

 実際西の国民は騒然となった。

 西ノ国に竜が足を踏み入れたその瞬間から、竜の噂は狭い国中に一瞬で広まったと言っても過言ではない。

 その上、王都に向かう道中に聳える、朽ち果てた古城の脇を通りかかったとき、一頭の竜が隊列を飛び出し、古城を倒壊させたのだ。

 空から急降下し、その強靭な足で蹴られた時、石造りの古城は一瞬で玩具の積み木のように崩れ落ちたのだという。

 南ノ国一行は竜の振る舞いを陳謝したが、西の人間はただただ、震え上がった。竜の力をこれでもかと見せつけられた気になったのだ。

 そうしてその異様な動物を一目見ん、と僅かなチャンスに賭けて、今も怖いもの見たさな老若男女が王宮の周りに集まっていた。


「リリアナ様は凄いですわ。あの生き物に南では乗られたのですもの」


 リリアナの頰に粉をはたきながら、化粧係は興奮に顔を上気させて言った。

 その粉にコホコホとむせながら、リリアナは少し困ったような、照れたような笑みを見せる。





 支度が整うと、リリアナは女官に先導されて謁見の間に向かった。

 南ノ国の王太子に会うのはこれが初めてだったが、アマリーの報告書を繰り返し読んだため、既に何度も会ったような気すらしていた。

 華奢な象牙で出来た、薄い貝の箔を貼り付けた扇子を片手に、廊下を歩く。


 謁見の間には既に国王や王太子たちが揃っていた。

 王族のうちでは最後にその場に登場したリリアナは、外務大臣のオデンに誘導され、イリア王太子の隣に立った。オデンはリリアナに笑顔で会釈したがリリアナはそれをさらりと無視した。

 イリア王太子はリリアナが横に来ると、大仰に眉を寄せた。


「お兄様?」


 イリア王太子は無言で手を伸ばし、妹の手から扇子を強奪した。


「これは不要だ。()()()は、こんな物を南ノ国の滞在時に使わなかったはずだ」


 リリアナはほんの少し動揺した。

 扇子で顔を隠さずにたくさんの見知らぬ人々の前に出るのは抵抗があったし、身分ある妙齢の女性としては恥ずべき行為に思えたのだ。だがアマリーがそうしてしまったのだから、仕方がない。

 扇子を失い手持ち無沙汰になった片手を、所在無さげに軽く握る。


 やがて謁見の間の扉が開き、南ノ国からの一行が現れた。

 先頭を歩く男の堂々たる足取りに、リリアナはその人が王太子なのだろうとすぐに分かった。

 柔らかそうな薄茶色の髪とは対照的に、硬そうな鋼鉄色の瞳が真正面を捉え、その視線は西ノ国王に向かっていた。その場にいた西ノ国側の二十人あまりの人々の視線は一斉にジュールに向かっていた。

 ジュールはたくさんの同行者を引き連れていたが、リリアナは彼だけを見つめていた。

 西ノ国王に挨拶をするその姿に、リリアナは見入った。その言動は自信に満ち溢れ、僅かも臆した様子がない。


「貴国の祝典では、我が国のリリアナ王女が大変世話になった」


 国王が敢えて話をリリアナに向けると、ジュールもここで初めてリリアナと目を合わせた。

 リリアナが父王に促されるようにして、ドレスの裾を摘んで膝をおると、ジュールは幾分目を細めた。


「お元気そうで、何より。またお会いできて嬉しく思う」


 当たり障りのない挨拶であったが、国王はにんまりと笑った。

 同行してきた側近全員の挨拶が終わると、ジュールは用意してきた書簡を広げ読み上げ始めた。


「南ノ国政府を代表し、啓上します。両国の親善と友好の証として、十頭の竜と十騎の竜騎士を貸与します」


 謁見の間がどよめく。

 それは長年、西ノ国が欲してやまないものだった。

 だが目の色を変える国王たちをよそに、リリアナはただ一人、ぼんやりとジュールを見つめた。

 広げた書簡を持つ手と袖口の隙間から垣間見える腕は、隆々としていて実に逞しい。


(私は西ノ国と自分自身、そして何よりアーネストのためにこの王太子様と結婚しなくてはならない)


 自分の運命の相手は、きっとジュールだったのだとリリアナは己に言い聞かせる。

 リリアナは王女としての決められた運命を静かに受け入れよう、と思った。

 リリアナが思案に暮れている間も、ジュールの読み上げは続いた。

 貸与される竜の又貸しは認められないこと、竜は北ノ国に奪われたサバレル諸島でしか使えないこと、竜の飼育の為に南ノ国から専門の職員を派遣すること。

 国王はジュールや使節団に対し、深い感謝の意を表明した。昼食会がこの後に開かれる予定となっていたが、国王は意味深な笑みを浮かべ、リリアナをすぐ近くに呼び寄せた。


「昼食会までまだ時間がございます。ジュール殿下、いかがでしょう。リリアナに我が王宮の庭園を案内させます。自慢の庭園をぜひご覧下さい」


 自慢の庭園より見せたいのは自慢の娘だ、と心の中で国王は付け足した。

 ジュールはええ、ぜひと言うと靴の音をカツカツと鳴らし、謁見の間の奥にいるリリアナの方へ向かった。

 リリアナは近づいてくるジュールに緊張し、無意識に扇子を探してしまった。だが顔を隠す物はないのだと気づき、俯き加減に微笑み、近づいてくるジュールを見上げた。

 ジュールがリリアナの真正面に立つ。

 リリアナはスカートをつまみ、それはそれは優雅に膝を折った。子供の頃から、手の位置から膝や背の角度に至るまで、教育係から厳しく教え込まれたリリアナの仕草は、溜め息が出るほど実に美しい。

 リリアナはその場にいる皆が自分に見惚れていることに気づき、自尊心を掻き立てられながらジュールの瞳を見た。


「お久しぶりです、ジュール様」


 リリアナが話し終えても、ジュールは彼女を不思議そうに見下ろすだけで、口を開かない。

 やや居心地の悪い沈黙が流れる。

 少しの間があいた後で、ジュールは言った。


「……貴女は誰だ?」


 返された言葉は酷く冷たい温度を帯びていた。

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