ニセモノ王女は真実を語る
アマリーは膝を折り、ジュールの正面に片膝をついた。
「私は何ともないわ。だから顔を上げて」
ジュールが顔を上げ、二人は目を合わせた。しばらくそうして見つめ合う。風が野原を渡り、サラサラと乾いた葉擦れの音がする。
「悪いのは私の方だから」
「ーーなぜ貴女が?」
言葉は続かず、二人は無言で見つめ合った。
先に口を開いたのはジュールの方だった。
「リリアナ王女、貴女が好きだ」
真っ直ぐに見つめられ、アマリーはその嘘のない気持ちに、泣き出しそうになった。
「だから、話してくれないか……?本当のことをーー」
淡々とした話し方ではあったが、アマリーは少なからず衝撃を受けた。
本当のことーーとは、先ほどマチューが指摘した点についてに違いない。
ジュールはアマリーに一歩近寄ると、おもむろに彼女の左手に軽く触れた。
「ジェヴォールの森で出会った時、貴女は薬指に指輪をはめていた」
ぎくりとアマリーの胸が一際強く鼓動し、そんなことをしても意味はないのに、彼女は左手をサッと後ろへ回して隠した。
「ーーだが気がつくともうしていなかった。私はあの時、それを妙だと感じた」
ジュールは両手を伸ばし、アマリーの二の腕を掴むと、急に力を入れて彼女を引き寄せた。
驚いて見上げたアマリーの唇に、ジュールが顔を近づける。
(キスされる……!?)
有無を言わせず降って来る唇を避けようと、アマリーは慌てて首の向きを変え、身体を強張らせた。
すると呆気ないほどすぐにジュールはアマリーを放した。
怯えながらも見上げると、ジュールの投げやりな笑みが目に飛び込む。
「私のことを好きだと言いながら、貴女はこんな風に、私を拒絶する」
「それは……」
それはーー?
なんだというのか。
アマリーは自分で自分に呆れた。
本物のリリアナ王女ではないから、ジュールと近づき過ぎまいとしたのだ。
息苦しさを覚えながらも尋ねた。
「ジュール様……。私を、疑っているの?」
ジュールは軽く目を閉じた後、答えた。
疑いたくないのだ、と。
マチューを言いふくめはしたか、ジュール本人も納得出来ない点があったのだ。
ここにいるリリアナはマチューの主張通り偽者なのか、もしくは本物だけれど本当は恋人がいるのか……?
「ジュール様……」
口を開きながらも、アマリーは自分が何を言おうとしているのか分からなかった。
言うな、上手く嘘をつけーー自分はリリアナだと言い張るのだ。
アマリーは自分にきつく命じた。
だが、ジュールの鋼色の瞳に真っ直ぐに見つめられると、その勇気はみるみる萎んでいく。
一億という巨額の報酬もサバレル諸島も、彼に嘘をつくことに比べれば何の価値もないのではないか?
弱気に呑み込まれそうな自分を、アマリーは奮い立たせる。
(だめよ。騙し通すのよ……。だってあと少しで帰国じゃないの!)
そうして帰国したら、きっと二度と会うこともない。
そう思うとまた胸が痛んだ。
自分の強気が萎んでいくのに焦り、しっかりしろと己を叱咤する。
ここで暴露してどうするのだ、と。
「ジュール様。ーー貴方が好き」
偽りの上に吐く愛の言葉が、とてつもなく虚しい。突けば一瞬で崩れ去る脆い告白に思える。
ジュールの鋼鉄の双眸が、甘く揺れた。
「貴女を私の妃にしたい」
その言葉はアマリーの胸中を喜びと幸せで溢れさせ、けれど幻に過ぎないことをすぐに自覚させる。アマリーが演じたリリアナというこの人物こそが、まやかしでしかなかったのだから。
嘘偽りのないジュールの気持ちを正面から受け、アマリーは罪悪感でいっぱいになった。
自分はなんて残酷なことをこの王太子にしたのだろう。
(私は、ジュールを弄んだのだ……)
そのことに気づくと、自分自信に激しい嫌悪感を抱いた。
ゆっくりとアマリーは口を開いた。
「私は、貴方の妃にーーなれないの」
言うな。
それ以上は口が裂けても言うな。
殺される覚悟がないなら、口を噤んでシラを切れ。
頭の片隅でまだ強気な自分が喚き散らす。
だがアマリーは愛に屈した。
「私はーー、リリアナ王女じゃないの。マチューの言う通りよ。陛下に命じられて、……いいえ、金に目が眩んでこの代役を引き受けた、汚い女よ」
溢れていた暖かさが、ジュールの表情から搔き消える。鋼色の瞳が、アマリーを拒絶する盾のような冷たい色に変わる。
ーー言ってしまった。そして、アマリーは最後まで言い切ろうとした。
「ただ一つ違うのは、本物の王女様は体調を崩されて来れなかったということだけ」
アマリーは密かに深呼吸をしてから、口を開いた。
「私は、騙して貴方を落とすためにここに来たの。本当の名前は、」
「もういい。十分だ」
それ以上は聞きたくない、といった風にジュールは首を素早く左右にふりながら、立ち上がった。
アマリーの名など、聞きたくもなかったのだろう。そう思うと彼女の両目から涙が溢れた。
だが泣いたらだめだ。だって、それは狡い。
アマリーは俯いてキツく目を閉じ、やり過ごした。
傲然とアマリーを見下ろしながら、怒りと困惑を隠しきれない酷く低い声でジュールは尋ねた。
「なぜ、こんなことをした?」
ーーなぜ?
思い返そうとしてもショックが大き過ぎて、思考を論理的に整理できない。
国王の命令だったから?
ーーいや、違う。自分自身が、いかに積極的に王太子に気に入られようと努力したかは、アマリーにも自覚があった。他人のせいにして逃げるのは卑怯だと分かっている。
多分それは二億バレンのためだったかもしれないし、家族のためだったかもしれない。エヴァ王女と出会った途中からは、自尊心も拍車をかけた。そうしてきっと、一番大きな理由は、アマリー自身がジュールを好きになってしまったからだ。
単純に彼に嫌われたくなかったし、選んで欲しかった。
そうしてだからこそ、結果的に嘘を貫き通すことが困難になった。
(私は、なんて、馬鹿なことをしたんだろう……)
けれど嘘がバレた今、最早理由などアマリーにはどうでも良かった。
大国の王太子とその妃候補の王女、という関係は脆くも消え去り、あとには嘘だけが残された。
今ここに惨めにも座り込んでいるのは、ただの嘘つき女なのだ。
「私の父は侯爵なのですが、ーー多額の借金がありました。南に行かなければ、屋敷を失うかもしれませんでした」
「父親に命じられたのか?」
はい、という言葉を咄嗟に呑み込む。
代わりに痛みと共に喉から震える声を絞り出す。
「いいえ。私は自分の意思でこの代役を引き受けました」
ジュールは静かな口調で言い放った。
「西ノ国に帰れ」
ズキン、とアマリーの胸が痛んだ。
それは刃のように彼女の心に響いた。そしてそれ以上に自分はジュールを傷つけたのだ、と自覚する。
謝りたかったが、詫びれば許されると思っていると思われたくなくて、どうしても出来ない。
「外務大臣のオデンや、その他の人たちは何も知りません。これは国王と私の父の間で仕組まれたことなのです」
アマリーは屈んだまま、両手を差し出して先ほどジュールから贈られた竜笛を彼の前に出した。
「お返しします。私には頂く資格がありませ……」
「私を侮辱したいのか?」
アマリーは目を見開いた。
その青い目が、困惑して揺れる。その哀れな青色を拒むようにジュールは冷徹に吐き捨てた。
「これ以上私を侮辱するな」
アマリーの唇が震えた。ーー抑えたくても、どうしても出来ない。キツく噛み締めた歯列が、カチカチと音を立てる。
涙が溢れ、頰を伝った。
なんて汚い涙だろうか、と己の浅はかさを憎む。
ジュールは身を翻し、アマリーに背を向けた。その背の分厚いマントが彼女の差し出したままの両手に強く当たり、手を薙ぎ払う。
竜笛はシャラ、と涼しい音を立てて芝の上に落ちた。アマリーはそれを拾うことが出来ず、しばらく輝く竜笛を凝視した。
顔を上げるとジュールはアマリーから更に離れ、どんどん先へと歩き出していた。瞳を彷徨わせると、ダルタニアンは腰を野原に落としたまま、主人の様子を訝しげに見つめている。
「ま、待って……」
アマリーは竜笛を拾い上げると慌ててジュールの後ろ姿を追った。
すぐ後ろまで追いつくと、ジュールは立ち止まってくれた。
「私を落とすのは、さぞ簡単だっただろう? 企み通りに私をいともあっけなく夢中にさせ、……私は西ノ国王と貴女の思うつぼだったということか」
己を嘲るようなその呟きに、アマリーは返す言葉を失った。
「楽しかったか?」
「はい?」
ジュールは野原の地平線に視線を投げたまま、繰り返した。
「私を騙すのは楽しかったか、と聞いている」
ややあってから、アマリーは答えた。
「ーーええ。楽しかったわ。とても」
怒りを溜めた険しい眼差しでジュールが振り返る。だがアマリーは構わず続けた。
「貴方と過ごすのは、生まれて初めて感じた喜びでいっぱいだったから。楽しくて仕方がなかったわ」
「……ならば、なぜお前が泣く」
「それはね、ーー私の正体がバレたら我が家が王様から報酬を貰えないかも知れないからよ」
ジュールはその後長いことアマリーを見つめた。
そうしてただ一言、嘘をつけ、と彼は呟いた。
そうだ、自分は嘘つきなのだと思うが、涙が目に溜まり過ぎて視界がボヤけてよく見えない。
泉のように涙が次から次へと溢れ出て、止まらない。それを拭うのは恥だとばかりに、アマリーは目を見開いて顔を上げ続けた。
やがて二人の後ろに二頭の竜が近づいてきて、気遣わしげに唸った。
ピッチィはアマリーの頰を、鼻でつついた。
「ーー王宮に戻ろう。予定通り明日帰るが良い」
「私を罰しますか?」
「屈辱を受けるのは私だけで十分だ。ここであったことは忘れろ。私も今聞いたことは忘れる」
それはリリアナが偽物だった事実を黙っていてくれると言う意味だろうか。
ようやく涙を拭うアマリーに、ジュールは目を細めた。
「それと、戻る前に川で顔と頭を洗え。ーーピッチィの唾液で、物凄く臭い」
今や屈辱で真っ赤になるのはアマリーの番だった。
恥ずかしさのあまり、紅潮した頰を押さえながら、ジュールから遠ざかる。視界に入った川に向かって、急いで走りだす。
川はそれほど太くはなく、流れも穏やかだった。
澄んだ水のために川底の丸い石もはっきりと見えるほど、綺麗な川だったが、それに見惚れるゆとりはない。
石を踏みならして川原へ急ぐと、アマリーは顔をそのせせらぎに突っ込んだ。
両手で水を掬い、バシャバシャと顔にかける。
(冷たい……)
暖かな陽射しにかかわらず、水温はかなり低かった。だがかえってその冷たさが、アマリーの涙を鎮める。
顔をひとしきり洗い、次は髪の毛を洗おうと水面から顔を上げると、後ろにジュールがいることに気がついた。
彼はアマリーのすぐ後ろに立ち、アマリーと水面に映った互いの顔を見つめ合っていた。
「手伝おう」
ジュールは手を伸ばすと、川原に座り込むアマリーの髪に触れ、真珠の彩る髪飾りを取り去ると、結い上げた髪を解いて下ろした。黄金色に煌めくその美しさに、微かに動きが止まる。
アマリーが俯いたまま髪を顔の横に流し、水に浸けて洗い始めると、ジュールは掬った水をゆっくりと彼女の頭の後ろにかけていく。
頭皮にかかるその冷たさに、アマリーの胸がざわつく。
やがてジュールは手を伸ばし、アマリーの髪を掻き分けながら洗うのを手伝ってくれた。その指の動きが、とてつもなく気持ちが良い。
優しい水音をたてながら、彼は思わず漏らした。
「なぜ、貴女が王女ではない……?」
びくり、とアマリーの動きが止まる。
「貴女がリリアナ王女であったなら……、どれほど……」
その先は続かなかった。
愛する女性も自分を愛してくれて、彼女を妃にできるかも知れない、という都合の良い夢を束の間見たのだ、とジュールは自分に言い聞かせた。
真珠の髪飾りが一つ、音もなく川に落ち、流されていった。
アマリーは瞳だけでそれを追うと、ふと思った。
かつてこの地を一つの王国に纏め上げたジャンバール王は、川である娘と恋に落ちたのだった。その娘はやがて王の妃になった。
彼の愛は川で始まったが、自分のそれは川で終わったのだ、と。
再び目を濡らす涙を、川の水で流す。
アマリーの髪をすくジュールの手はとても優しく、その一瞬一瞬が彼女の胸を突いた。
(このまま、この時間が永久に続けば良いーー)
もう二度と今までの二人には戻れないことを悟り、最後の二人きりのこの時間を、アマリーは記憶に焼き付けたかった。




