竜が見たもの
夢だと思った。
それも、とびきりの悪夢だ。
竜が大口を開け、自分にかぶりついたのだ。悪夢以外のなんだろうか。
アマリーは自分が何を叫んだかーーいや、そもそも叫んだのかすら分からなかった。
ただ凄い質量の物体が自分の腰の辺りを襲い、熱さを感じた。続いて重力の感覚が失われ、足から地面の感覚が奪われる。頭に血が上り、視野が逆転して初めてアマリーは自分が置かれた状況を曲がりなりにも理解した。
アマリーはピッチィに咥え上げられていた。
周囲にいる男たちが何やら叫んでいるが、皆がいっぺんに叫んでいるせいで何と言っているのか分からない。右肘は完全にピッチィの口の中に入り込んでおり、ザラザラとした舌を皮膚に感じる。左手は自由だったが、振り回すしかできない。
可憐な花々の上に落ちる大きなピッチィの影が見える。そしてその影が、大きく横に広がっていくーーピッチィが、両翼を広げたのだ。
ガクンと揺れたかと思うと、ピッチィが地面を蹴ったのが分かった。お腹にピッチィの下顎が強く食い込む衝撃を感じた直後、見下ろしていた花々が急に遠ざかった。
「待て!! ピッチィ……!」
はっきりと聞き取れたのはジュールの声だ。
その声も急激に遠ざかった。見上げていたはずの木々が、いつの間にか足の下を通過していく。上から見下ろす緑の木々の葉が、まるで絨毯のようだ。
(飛んでるーー!! 浮いてる!!)
ピッチィはアマリーを咥えたまま、空へと舞い上がっていた。
足が揺れた勢いで靴が抜け落ち、虚空へと落ちていく。自分の靴がなす術なく空気を切りながら落下していく光景を目の当たりにし、気が遠くなる。
防御を失った足の裏に当たる風が、異様に冷たく感じられ、それは鳥肌とともに瞬く間に上へと駆け上がり、空の上でアマリーは気を失った。
地上にいた竜騎士の内の一人は、急いで矢を構えた。
「よせ!! 落としてどうする!?」
その動きに気づいたジュールが慌てて矢を押し下げた。
「ダルタニアンで追う! 鞍の準備を致せ」
ジュールの命令を受け、竜騎士が竜のいる森の方角へ走り出し、それをジュール自身も追う。ジュールの視界の端に、時間が止まったかのように立ち尽くすマチューの姿が捉えられた。マチューは急速に遠ざかっていくピッチィの後ろ姿を目に焼き付けながら、緩慢に穏やかな笑みを浮かべていった。
マチューの異様な様子に舌打ちしたい心境になりながらも、ジュールはダルタニアンの元へと急いだ。
ーー大丈夫だ。あれは親竜が子どもを運ぶのと同じやり方だ。何よりピッチィがリリアナ王女に、危害を加えるはずがない。
ジュールはそう思うことで自分を落ち着かせ、アマリーの無事を必死に願った。
生暖かく、ザラザラとした濡れたものが、自分の顔を擦っている。
ーーおまけに猛烈に臭い。
その気絶しそうなほどの臭いに、アマリーは目が覚めた。
薄い白雲がかかる青空が見え、次いで視界を埋め尽くしたのはゴツゴツとした灰色の皮膚。緑色の瞳がびっくりするほど近くに見えて、アマリーはギョッと目を見開いた。
横たわる自分の顔をピッチィが、せっせと舐めていた。背中の下には柔らかな草の感覚がある。
アマリーは見覚えない野原に寝転がっていた。
(ここ、どこ!?)
がばりと起き上がると、全身の節々が激しく痛んだ。おまけに髪の毛と顔面がピッチィの唾液でベトベトだった。
恐る恐る腹部を確認すると、傷どころか出血もしていなそうだ。
「生きてる……、私、生きてる!」
安堵の溜息を漏らすと、ピッチィも嬉しそうにギュッと唸った。アマリーはどうにか立ち上がりながら、辺りを見渡すが、周りには誰もいない。野原には柔らかな風が吹き、近くに小川があるのかキラキラと陽の光を反射して輝いている。人家は見当たらない。
ピッチィは大人しくアマリーの隣に佇んでいた。今は閉じられた口からは歯が一本も見えないが、ついさっき開かれた大口が自分に突進してきたことを思い出すと、ゾッとして怖くなる。
腰の辺りを押すと酷く痛むから、痣になっているのは間違いない。アマリーは鋭く睨みあげると、自分を見下ろすピッチィに文句をつけた。
「どうしてこんなことをしたの? 死ぬかと思ったじゃない!」
怒られたことを察したのか、ピッチィは数歩後ろに退き、カクッと小首を傾げた。緑色の円らな瞳が、微かに曇って瞼が下がる。
「食べられちゃうのかと思ったわ」
するとピッチィは不服そうに喉の奥を鳴らした。
よく見るとピッチィはモゴモゴと口を動かし、何やら咀嚼していた。
「ーー何を口に入れているの?」
ピッチィの顎の動きがぴたりと止まる。
おもむろに開かれたピッチィの口から、ボロボロの木片が転がり出て、草むらに落ちた。ピッチィが噛んで遊んでいたそれは、拾いあげなくても何か分かった。アマリーがマチューから奪った扇子だった。
摘み上げて元の形に広げようとすると、濡れた箇所からポロポロと崩れ、アマリーは苦笑してそれを放った。
ーードリモアの家宝だったのに。
次に顔を上げた時、アマリーは硬直した。
ピッチィの耳の付け根が、輝いていたのである。
「えっ、……それ、お前……」
アマリーは時が止まったようにしばらくピッチィの耳元を凝視した。
耳の付け根の水晶のような鱗が、白く光を放っていた。目に焼きつくような明るさではなく、雲間から覗く優しい陽のような穏やかな光だった。
輝いているのは間違いなく、竜珠だった。
竜が心を許した人間にだけ、輝く竜珠。
アマリーはガバリと身体ごと己の背後を振り返った。だがやはり、この場にいるのは自分ただ一人だ。
ピッチィは間違いなく、アマリーだけを真っ直ぐに見つめていた。
「私? 私なの!? まさか……」
何をすれば良いのかは分かっていた。竜珠に触れてやれば良いのだ。だがアマリーはもうすぐ帰国してしまう。ピッチィに選んで貰って良いのだろうか。
アマリーとピッチィがそうして音もなく見つめ合っていると、やがて遠くから竜の咆哮が聞こえてきた。視線を漂わせると、空の向こうに浮かぶ一頭の竜が見えた。ーーダルタニアンだ、とすぐに分かった。
あれほど均整の取れた美しい姿形の竜は二頭といない。
それはあっという間に近づいてきて、竜は翼を畳むと轟音と共に野原に降り立った。ダルタニアンが完全に翼をしまう前に、その背から滑り降りたのはジュールだった。
その光景にアマリーは初めてジェヴォールの森でジュールと出会った時のことを思い出した。あの時もこうして、ジュールは上空から滑空してきて、すぐさま竜から滑り降りたのだ。
ジュールはアマリーを早々に見つけられたことと、彼女が一見して無事そうなことの両方に安堵し、地面に足を着くなり膝から崩れそうになった。肩で息をしながらアマリーの近くまで駆けてくる。
「リリアナ王女ーー! お探しできて良かった」
そうしてちらりとピッチィを見て、そのまま絶句した。
「ジュール様、ピッチィの竜珠が光っているの。触ってあげて」
アマリーのすぐ隣までやって来るとジュールはそれを断った。
「……それは出来ない。ピッチィが選んだのは私ではない」
アマリーは思わず輝く竜珠を観察した。それは触れてもらうのを待ち、いまだ輝いている。ピッチィは緑色の瞳をしっかりとアマリーに向けていた。
手を伸ばす勇気が出ないアマリーに、ジュールは声をかけた。
「触れてやらねば、その美しい竜珠はそう遠くない未来に、ピッチィの耳から転がり落ちてしまう」
「そうね……。本当に、私で良いのなら」
ゆっくりと腕を上げ、ピッチィに向けて伸ばした。ピッチィはアマリーの動きに反応して頭を下げ、顔を近づける。アマリーの指矢がピッチィの柔らかな耳に当たり、輝く竜珠に触れた。その瞬間に、光は一瞬より強く輝きを放つと、徐々に収束していった。
もう片方の竜珠にも同じことをすると、二つの竜珠の輝きは失われ、後には元どおりの透明な輝きだけが残された。
「おめでとう。ピッチィに認められたな」
ジュールはアマリーにそう言いながら、彼女の肩に手を掛けた。
「でも良いのかしら? 私はこの国の人間じゃないのに」
「竜は人の本質を見抜くと言われている。きっと、貴女はまたこの国に戻って来るのだろう」
アマリーは返事に困った。
きっと自分がこの国の地を踏むことはもうない、と思っていたからだ。ピッチィと自分は多分、二度と会えない。
感傷に浸っていると、ジュールが硬い声で尋ねた。
「ピッチィはマチューに貴女が襲われていると思ったのだろう。助けようとしたのだ。ーー怪我はないか?」
気遣わしげな視線を受けてアマリーが首を左右に振る。
「怖い思いをさせて、すまなかった。我が国の馬鹿な竜が、大変な無礼を働き申し訳ない」
アマリーが気にしないで、と言おうとするとその前にジュールは腰を落とし、膝を野原についた。そのまま黙って首を垂れる。広い野原にしばらく沈黙が流れ、動揺するアマリーの前で膝をつくジュールは微動だにしなかった。
やがてジュールは頭を更に深く下げた。己の不甲斐なさと、ピッチィに咥えられた彼女が恐らく感じたであろう恐怖を思い、ジュールは苦悶に表情を歪めた。
「すぐそばに居ながら、止められなかったことを恥ずかしく思う」
王太子が地に膝をつけ、頭を下げる様をアマリーは痺れたように見つめていた。
「……頭を下げないで。謝らないといけないのは、私の方だもの」




