帰国に向けた心の準備
ジュールを先に大広間に帰すと、アマリーは胸の奥の痛みに耐え切れず、中庭のベンチに座り込んだ。
足元の石畳に入った小さなヒビに視線を落としながら、深いため息をつく。
立ち上がろうと両足に力を入れた時ーー彼女の前に何者かが立ちはだかり、影がさした。
急いで顔を上げると、目の前に立つのはマチューだった。
マチューはアマリーが口を開くより先に、顔を歪めて笑いだした。
「貞淑、ですか」
その不気味な登場に怯え、アマリーは素早く立ち上がった。この怪しい男から一刻も早く逃げよう、と身体を反転させるとマチューは後ろからアマリーの二の腕を掴んだ。
「何するの!? 離して!」
マチューはくつくつと喉を鳴らして笑った。アマリーはこの笑い方が全身の鳥肌が立つほど嫌いだった。
「外務大臣を遣ってシラを切れば、私が諦めると思いましたか?」
理不尽な拘束から逃れようと暴れていたアマリーが、動きを止める。その反応に満足し、マチューは舌なめずりをした。
「リリアナ王女は、うなじに黒子があるそうですね」
「何が、言いたいの……?」
硬い声色でアマリーは言い返した。実際はリリアナに黒子があるかなど、アマリーには知る由もない。
マチューはアマリーの結い上げた金色の髪に留まる青い花の飾りを見つめた。そうして、彼女の後ろへと周り、時間を掛けて視線をうなじへと下げていく。
白く細いうなじには、黒子どころかシミひとつない。まるで磁器のような滑らかさで、無意識にマチューは喉を鳴らしていた。ーー見つめていると噛み付いてやりたくなるほど綺麗なうなじだった。力任せに歯を立て、苦しませてやりたい、という思いに駆り立てられる。白い首筋につく赤い歯型は、さぞ見応えがあるだろう。
「けれどリリアナ様。おかしいですねぇ。貴女のうなじには黒子がない」
アマリーは動揺を必死に隠した。
ひたすら強気に出る他なかった。
「生まれた時から、ありませんわ」
そんな筈はないでしょう、と呟いてからマチューは掴んだ腕を己の方へ引き寄せ、顔を近づけると声を落として囁いた。
「だって貴女の恋人はそのうなじの黒子に口付けをするのが、好きだったのでしょう?」
「何を……」
「近衛騎士のアーネストですよ、もうお忘れに?」
アマリーの目が見開かれ、次いで白い顔が目に見えて青ざめる。
上出来な反応だ、とマチューはほくそ笑んだ。
「そんな貴女のどこが、貞淑なのです?」
この男はアマリーとジュールの会話を、コソコソと盗み聞きしていたのだ。そのいやらしさに、反吐が出そうだった。マチューは人工物のように美しい容貌をしていたが、そんな彼が顔を歪ませて笑うと、不気味さが際立った。
「ーー何が目的なの? 私をどうしたいの?」
マチューは腕に更に力を込め、アマリーを引き寄せた。
恐怖に震えるアマリーに対して、マチューは幼な子に言い聞かせるように言った。
「西と対立したいのではありません。ただ、ジュール様のお妃になられるのは、エヴァ様でなければ。……ローデルに行くのを断りなさい」
「そんなこと、絶対にしないわ」
「まったく、侯爵令嬢というのは、常に私を苛立たたせますね」
耳を疑った。実家のファバンク家が侯爵家だということも、マチューは知っているのだ。だが国王が自分を王女として送り出している以上、王女は自分だ。偽者である証明など、逆にしようもない。アマリーは泣き出しそうな恐怖を堪え、どうにか平静を保って強気に言った。
「つまらない妄想で私の名誉を傷つければ、お立場が悪くなりますよ」
「私の立場を憂えて下さるのですか? なんとも有り難い」
喉を鳴らしてマチューが不気味に笑う。
拘束したアマリーの腕が、小刻みに震えているのが心地良く、マチューは指先を曲げて彼女の柔らかな肌に爪を食い込ませた。
アマリーが微かに眉を寄せ、痛みを堪えたのが分かる。
持って生まれた美貌だけで王太子の心を掻っ攫い、マチューの計画を崩そうとする年端もいかない目の前の美少女が、弑虐したいほどに憎らしい。
「妄想ではなく事実を申し上げております。ーーローデルに行かず予定通りお帰り頂ければ結構。ですが、従って頂けないのなら、貴女が偽者だという証拠をジュール様にお見せします」
「そんなことは、不可能よ。私がリリアナ本人なのたから」
きっぱりと言い切ってから、アマリーは蛇のように腕に巻きつくマチューの手を振り払った。そうして大急ぎで大広間へと戻った。
「ローデルはお断り下さい。予定通り明後日の朝、帰りましょう」
中庭での顛末を打ち明けると、カーラはアマリーを説き伏せ始めた。外に声が漏れぬよう、二人は寝台にうつ伏せになり、頭から寝具を被って話した。
アマリーは寝具に顔を埋め、唇を噛む。
ここで正体をジュールに明かされてしまうくらいなら、大人しく帰る方が安全だ。どうせマチューはアマリーが帰国したらその後でジュールに、「来ていたリリアナ王女は偽物だった」と言うに違いない。彼の最終目的は破談なのだから。
それにこれ以上ジュールと多くの時間を共有しては、後で本物のリリアナに成り代わった時に危険だ。何より、アマリー自身にとって辛かった。
カーラは真っ暗で見えない寝具の中で、アマリーの手を握った。
「とにかく今は、無事に西ノ国に戻れることだけを考えましょう」
「そうね……」
祝典に参加し、王太子と踊った。やるべきことはやったのだ。
あとは帰国後にマチューが何をしでかそうが、私たちには関係のないことです、とカーラは言い放った。
翌朝、朝食を終えたアマリーはバルコニーから景色を見渡していた。
もうこのエルベ城も見納めなのだ。帰国したらここに来ることはもう二度とないだろう。そう思うと、西に帰れる安心感と同じくらい、寂しさが募った。南ノ国に来ることなど、考えたこともなかったのに不思議だ。城の奥に見える緑深い森や、朝靄にまだかすむ灰色の城壁をしみじみと眺める。
「南は緑が多いですよねぇ」
隣に立ったカーラが何気なくそう呟く。
アマリーはテーブルにゆっくりと戻ると、食べ残した葡萄の房に手を伸ばし、丸く瑞々しいその一粒を外すと、口に放りこんだ。
その時、カーラがぎゃっと短い悲鳴を上げた。
「どうしたの?」
葡萄を口に含んだまま振り返ると、カーラは手すりからやや身を乗り出して、目を剥いて斜め上を見上げている。
「あ、あそこ! 竜がいますよっ」
流石南ノ国ね、と独りごちながらカーラの真横に向かうと、アマリーは絶句した。見上げれば、すぐ近くの小さな塔の上に本当に竜が座り込んでいたのだ。朝日を浴びて輝く丸い塔に巻きつくその尾は、それほど長くない。子竜だ。
まさかのピッチィかも知れないが、ここからではよく見えない。アマリーは試しに小声で呼んでみた。
「ピッチィ!」
「呼んでどうするんです!?」
カーラが目を剥いてアマリーを振り返るのと、塔で休んでいた竜が翼を広げたのは同時だった。竜は小さな塔から滑り降りるように飛び立つと、こちらへ向かって羽ばたいた。
カーラは段差もないのに躓き、バルコニーのタイルの上に尻餅をついた。
竜はバルコニーの手すりの上に降り立った。
アマリーはカーラを助け起こしながら、目の前にやって来た竜の首元を確かめる。灰色のゴツゴツとした肌に、赤い模様が幾筋か入っている。
間違いなく、ピッチィだ。
今朝は早目に鎖を解いて貰ったらしい。
ピッチィはクエッと鳴くと口角を上げた。多分笑っているつもりなのだろう。そう思うと、この大きな子竜が愛らしく見えてくる。
「ピッチィ、おはよう。こんな所に止まって良いの?」
アマリーがそう尋ねると、ピッチィはキョトンと首を傾けて、何を思ったか手すりを蹴ってバルコニーの中に入り込んで来た。
情けない声を上げながらカーラがバルコニーの端まで後ずさる。
ピッチィは急に手狭になったバルコニーの中で身体を反転させると、アマリーに背を向けた。そのまま後ろ足を折って腰を落とす。アマリーは思わず噴き出した。
「違うわよ! 背に乗せて欲しくて呼んだんじゃないの。……お前こんな所に来て、竜騎士たちに叱られないの?」
既に背に鞍を装着済みなところから察するに、もうすぐ竜騎士が朝の訓練を開始するところだったのだろう。今ごろピッチィを探しているかも知れない。
ピッチィはしばらく待ってもアマリーが自分に乗ってくれないので、やや困惑した様子でその場に座り込んだ。ふとその視線がテーブルの上に残された葡萄に止まり、そこから動かなくなった。ピッチィは幾度かゆっくりと瞬きをし、小さく口を開け閉めした。何度目か口を開けた時に、その口元から涎が溢れ落ちそうになり、慌ててピッチィは首を激しく左右に振った。
「……食べたいのね」
「餌付けしちゃダメですよ! 毎朝来ちゃいますよ」
カーラが物凄い高速で被りを振る。
アマリーはピッチィの背を軽く叩き、森に戻るよう身振り手振りで伝えたが、通じない。
カーラは竜騎士を呼んでくる、と言い残すとバルコニーを飛び出して行った。
ピッチィとアマリーはバルコニーで見つめ合っていた。やがて風が吹き、朝食のトースを包んでいた紙が、カゴの中から転がり出てテーブル上を舞った。
ギュゥン、と不思議そうに唸るとピッチィは風に舞う紙を見つめ、顔を寄せた。やがてピッチィの鼻息に煽られた紙は、テーブルの奥へと進み、床に落ちた。
アマリーが屈んでそれを拾い、カゴに戻す。
すると紙が戻るや否や、ピッチィはカゴに鼻先を突っ込みまたしてもフッ、と鼻息を吹いて紙を押し出した。
「こら、ピッチィ!」
アマリーは思わず大笑いしてしまった。ピッチィは間違いなくわざとやっている。落ちた紙をカゴに戻す代わりに、手を伸ばしてピッチィの鼻先を撫でる。
「ダメじゃないの。散らかしちゃ」
ピッチィはアマリーに大人しく撫でられていたが、不意にその大きな耳がピクリと横に動いた。次いで森の方に微かに顔を向けると、またアマリーの方を見た。
もしかして竜騎士に森の中から呼ばれたのかも知れない。竜は耳が良いのだ。
「竜騎士たちがお前を探しているんでしょう?」
ピッチィは黙ってアマリーを見ていた。その緑色の大きな瞳は、銀色を溶かし込んだような神秘的な色合いで幻想的だ。
「もう行きなさい。重さでバルコニーの床が抜けるかもしれないわよ?」
グルル、と低い唸り声が聞こえる。ピッチィはテーブルに顎を乗せたまま、動こうとしない。
「お前にも、もう会えなくなると思うと寂しいわ」
アマリーはピッチィの耳元で小声で言った。
「竜を見たことは一生忘れないわ。ーーお前だけはここにいる私を覚えていてね。ここに来たのは、私よ」
ピッチィはそんなアマリーをジッと見ていた。
やがてゆっくりとテーブルから顔を上げると、ピッチィは翼を広げ、森へと帰っていった。竜騎士を引きずるようにして連れて来たカーラがアマリーの元に猛ダッシュで駆け戻ったのは、その数秒後だった。




