表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

29/40

帰国に向けた心の準備

 ジュールを先に大広間に帰すと、アマリーは胸の奥の痛みに耐え切れず、中庭のベンチに座り込んだ。

 足元の石畳に入った小さなヒビに視線を落としながら、深いため息をつく。

 立ち上がろうと両足に力を入れた時ーー彼女の前に何者かが立ちはだかり、影がさした。

 急いで顔を上げると、目の前に立つのはマチューだった。

 マチューはアマリーが口を開くより先に、顔を歪めて笑いだした。


「貞淑、ですか」


 その不気味な登場に怯え、アマリーは素早く立ち上がった。この怪しい男から一刻も早く逃げよう、と身体を反転させるとマチューは後ろからアマリーの二の腕を掴んだ。


「何するの!? 離して!」


 マチューはくつくつと喉を鳴らして笑った。アマリーはこの笑い方が全身の鳥肌が立つほど嫌いだった。


「外務大臣を遣ってシラを切れば、私が諦めると思いましたか?」


 理不尽な拘束から逃れようと暴れていたアマリーが、動きを止める。その反応に満足し、マチューは舌なめずりをした。


「リリアナ王女は、うなじに黒子(ほくろ)があるそうですね」

「何が、言いたいの……?」


 硬い声色でアマリーは言い返した。実際はリリアナに黒子があるかなど、アマリーには知る由もない。

 マチューはアマリーの結い上げた金色の髪に留まる青い花の飾りを見つめた。そうして、彼女の後ろへと周り、時間を掛けて視線をうなじへと下げていく。

 白く細いうなじには、黒子どころかシミひとつない。まるで磁器のような滑らかさで、無意識にマチューは喉を鳴らしていた。ーー見つめていると噛み付いてやりたくなるほど綺麗なうなじだった。力任せに歯を立て、苦しませてやりたい、という思いに駆り立てられる。白い首筋につく赤い歯型は、さぞ見応えがあるだろう。


「けれどリリアナ様。おかしいですねぇ。貴女のうなじには黒子がない」


 アマリーは動揺を必死に隠した。

 ひたすら強気に出る他なかった。


「生まれた時から、ありませんわ」


 そんな筈はないでしょう、と呟いてからマチューは掴んだ腕を己の方へ引き寄せ、顔を近づけると声を落として囁いた。


「だって貴女の恋人はそのうなじの黒子に口付けをするのが、好きだったのでしょう?」

「何を……」

「近衛騎士のアーネストですよ、もうお忘れに?」


 アマリーの目が見開かれ、次いで白い顔が目に見えて青ざめる。

 上出来な反応だ、とマチューはほくそ笑んだ。


「そんな貴女のどこが、貞淑なのです?」


 この男はアマリーとジュールの会話を、コソコソと盗み聞きしていたのだ。そのいやらしさに、反吐が出そうだった。マチューは人工物のように美しい容貌をしていたが、そんな彼が顔を歪ませて笑うと、不気味さが際立った。


「ーー何が目的なの? 私をどうしたいの?」


 マチューは腕に更に力を込め、アマリーを引き寄せた。

 恐怖に震えるアマリーに対して、マチューは幼な子に言い聞かせるように言った。


「西と対立したいのではありません。ただ、ジュール様のお妃になられるのは、エヴァ様でなければ。……ローデルに行くのを断りなさい」

「そんなこと、絶対にしないわ」

「まったく、侯爵令嬢というのは、常に私を苛立たたせますね」


 耳を疑った。実家のファバンク家が侯爵家だということも、マチューは知っているのだ。だが国王が自分を王女として送り出している以上、王女は自分だ。偽者である証明など、逆にしようもない。アマリーは泣き出しそうな恐怖を堪え、どうにか平静を保って強気に言った。


「つまらない妄想で私の名誉を傷つければ、お立場が悪くなりますよ」

「私の立場を憂えて下さるのですか? なんとも有り難い」


 喉を鳴らしてマチューが不気味に笑う。

 拘束したアマリーの腕が、小刻みに震えているのが心地良く、マチューは指先を曲げて彼女の柔らかな肌に爪を食い込ませた。

 アマリーが微かに眉を寄せ、痛みを堪えたのが分かる。

 持って生まれた美貌だけで王太子の心を掻っ攫い、マチューの計画を崩そうとする年端もいかない目の前の美少女が、弑虐したいほどに憎らしい。


「妄想ではなく事実を申し上げております。ーーローデルに行かず予定通りお帰り頂ければ結構。ですが、従って頂けないのなら、貴女が偽者だという証拠をジュール様にお見せします」

「そんなことは、不可能よ。私がリリアナ本人なのたから」


 きっぱりと言い切ってから、アマリーは蛇のように腕に巻きつくマチューの手を振り払った。そうして大急ぎで大広間へと戻った。






「ローデルはお断り下さい。予定通り明後日の朝、帰りましょう」


 中庭での顛末を打ち明けると、カーラはアマリーを説き伏せ始めた。外に声が漏れぬよう、二人は寝台にうつ伏せになり、頭から寝具を被って話した。

 アマリーは寝具に顔を埋め、唇を噛む。

 ここで正体をジュールに明かされてしまうくらいなら、大人しく帰る方が安全だ。どうせマチューはアマリーが帰国したらその後でジュールに、「来ていたリリアナ王女は偽物だった」と言うに違いない。彼の最終目的は破談なのだから。

 それにこれ以上ジュールと多くの時間を共有しては、後で本物のリリアナに成り代わった時に危険だ。何より、アマリー自身にとって辛かった。

 カーラは真っ暗で見えない寝具の中で、アマリーの手を握った。


「とにかく今は、無事に西ノ国に戻れることだけを考えましょう」

「そうね……」


 祝典に参加し、王太子と踊った。やるべきことはやったのだ。

 あとは帰国後にマチューが何をしでかそうが、私たちには関係のないことです、とカーラは言い放った。







 翌朝、朝食を終えたアマリーはバルコニーから景色を見渡していた。

 もうこのエルベ城も見納めなのだ。帰国したらここに来ることはもう二度とないだろう。そう思うと、西に帰れる安心感と同じくらい、寂しさが募った。南ノ国に来ることなど、考えたこともなかったのに不思議だ。城の奥に見える緑深い森や、朝靄にまだかすむ灰色の城壁をしみじみと眺める。


「南は緑が多いですよねぇ」


 隣に立ったカーラが何気なくそう呟く。

 アマリーはテーブルにゆっくりと戻ると、食べ残した葡萄の房に手を伸ばし、丸く瑞々しいその一粒を外すと、口に放りこんだ。

 その時、カーラがぎゃっと短い悲鳴を上げた。


「どうしたの?」


 葡萄を口に含んだまま振り返ると、カーラは手すりからやや身を乗り出して、目を剥いて斜め上を見上げている。


「あ、あそこ! 竜がいますよっ」


 流石南ノ国ね、と独りごちながらカーラの真横に向かうと、アマリーは絶句した。見上げれば、すぐ近くの小さな塔の上に本当に竜が座り込んでいたのだ。朝日を浴びて輝く丸い塔に巻きつくその尾は、それほど長くない。子竜だ。

 まさかのピッチィかも知れないが、ここからではよく見えない。アマリーは試しに小声で呼んでみた。


「ピッチィ!」

「呼んでどうするんです!?」


 カーラが目を剥いてアマリーを振り返るのと、塔で休んでいた竜が翼を広げたのは同時だった。竜は小さな塔から滑り降りるように飛び立つと、こちらへ向かって羽ばたいた。

 カーラは段差もないのに躓き、バルコニーのタイルの上に尻餅をついた。

 竜はバルコニーの手すりの上に降り立った。

 アマリーはカーラを助け起こしながら、目の前にやって来た竜の首元を確かめる。灰色のゴツゴツとした肌に、赤い模様が幾筋か入っている。

 間違いなく、ピッチィだ。

 今朝は早目に鎖を解いて貰ったらしい。

 ピッチィはクエッと鳴くと口角を上げた。多分笑っているつもりなのだろう。そう思うと、この大きな子竜が愛らしく見えてくる。


「ピッチィ、おはよう。こんな所に止まって良いの?」


 アマリーがそう尋ねると、ピッチィはキョトンと首を傾けて、何を思ったか手すりを蹴ってバルコニーの中に入り込んで来た。

 情けない声を上げながらカーラがバルコニーの端まで後ずさる。

 ピッチィは急に手狭になったバルコニーの中で身体を反転させると、アマリーに背を向けた。そのまま後ろ足を折って腰を落とす。アマリーは思わず噴き出した。


「違うわよ! 背に乗せて欲しくて呼んだんじゃないの。……お前こんな所に来て、竜騎士たちに叱られないの?」


 既に背に鞍を装着済みなところから察するに、もうすぐ竜騎士が朝の訓練を開始するところだったのだろう。今ごろピッチィを探しているかも知れない。

 ピッチィはしばらく待ってもアマリーが自分に乗ってくれないので、やや困惑した様子でその場に座り込んだ。ふとその視線がテーブルの上に残された葡萄に止まり、そこから動かなくなった。ピッチィは幾度かゆっくりと瞬きをし、小さく口を開け閉めした。何度目か口を開けた時に、その口元から涎が溢れ落ちそうになり、慌ててピッチィは首を激しく左右に振った。


「……食べたいのね」

「餌付けしちゃダメですよ! 毎朝来ちゃいますよ」


 カーラが物凄い高速で被りを振る。

 アマリーはピッチィの背を軽く叩き、森に戻るよう身振り手振りで伝えたが、通じない。

 カーラは竜騎士を呼んでくる、と言い残すとバルコニーを飛び出して行った。

 ピッチィとアマリーはバルコニーで見つめ合っていた。やがて風が吹き、朝食のトースを包んでいた紙が、カゴの中から転がり出てテーブル上を舞った。

 ギュゥン、と不思議そうに唸るとピッチィは風に舞う紙を見つめ、顔を寄せた。やがてピッチィの鼻息に煽られた紙は、テーブルの奥へと進み、床に落ちた。

 アマリーが屈んでそれを拾い、カゴに戻す。

 すると紙が戻るや否や、ピッチィはカゴに鼻先を突っ込みまたしてもフッ、と鼻息を吹いて紙を押し出した。


「こら、ピッチィ!」


 アマリーは思わず大笑いしてしまった。ピッチィは間違いなくわざとやっている。落ちた紙をカゴに戻す代わりに、手を伸ばしてピッチィの鼻先を撫でる。


「ダメじゃないの。散らかしちゃ」


 ピッチィはアマリーに大人しく撫でられていたが、不意にその大きな耳がピクリと横に動いた。次いで森の方に微かに顔を向けると、またアマリーの方を見た。

 もしかして竜騎士に森の中から呼ばれたのかも知れない。竜は耳が良いのだ。


「竜騎士たちがお前を探しているんでしょう?」


 ピッチィは黙ってアマリーを見ていた。その緑色の大きな瞳は、銀色を溶かし込んだような神秘的な色合いで幻想的だ。


「もう行きなさい。重さでバルコニーの床が抜けるかもしれないわよ?」


 グルル、と低い唸り声が聞こえる。ピッチィはテーブルに顎を乗せたまま、動こうとしない。


「お前にも、もう会えなくなると思うと寂しいわ」


 アマリーはピッチィの耳元で小声で言った。


「竜を見たことは一生忘れないわ。ーーお前だけはここにいる私を覚えていてね。ここに来たのは、私よ」


 ピッチィはそんなアマリーをジッと見ていた。

 やがてゆっくりとテーブルから顔を上げると、ピッチィは翼を広げ、森へと帰っていった。竜騎士を引きずるようにして連れて来たカーラがアマリーの元に猛ダッシュで駆け戻ったのは、その数秒後だった。





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ