ニセモノ王女の心の痛みとキス
エルベ城の大広間では、西ノ国と中ノ国の王女が帰国する前の最後の賑やかなパーティが開かれていた。
広間に集った貴婦人たちは皆着飾り、とても見応えがあったが、誰も主役の王女たちには勝てなかった。
リリアナ王女もエヴァ王女も、どちらも巨匠の描いた絵画から飛び出てきたように美しい。
だがこの二人の訪問は、単に祝典のためだけではなかったことを、皆既に知っていた。
この国の王太子の妃となる王女を選ぶ為に、招待したという側面もあったのだ。
大広間は花の香りで溢れるほどの量の花々で飾り付けられ、全ての明かりが灯されたその内部は夜にもかかわらず、豪奢な天井の装飾が細部にわたるまで見えるほど明るかった。
軽やかな音楽を管弦楽隊が奏で、和かな歓談が進む中、人々の視線は遅れて登場したジュール王太子に釘付けになった。今宵、ジュールが誰を最初のダンスの相手に誘うかが、皆の注目を集めていた。
その相手こそが、彼が気に入った女性だと推察されるからだ。
ジュールが大広間の奥に向かって歩き出すと、人々は割れるように道を開けた。
その先に立つのは、国王と歓談する二人の王女だった。
ジュールはゆっくりと歩いていった。
やがて二人のそばまでくると、彼はもうアマリーしか見ていなかった。アマリーは自分の纏うドレスの腰の辺りの生地を、震える手で握り締めていた。
「リリアナ王女」
ジュールはアマリーにそう呼びかけ、マントを後方へと払うと膝をついた。
大広間にいる皆が、息を呑む。
「私のダンスのお相手をお願い出来ますか?」
アマリーは震える手をジュールに差し出す。
「勿論ですわ」
二人が踊り始めると、エヴァは泣き出しそうになった。結果は既に予想できたものだったが、それでも現実に目の当たりにすると、ショックは大きかった。
顔色を失いかけたエヴァを、中ノ国の大臣が懸命に慰める。
彼女はあまりに落胆していたので、彼は自分が若かりし頃の、三年も交際したのに五分で別れを告げられ、三日寝込んだ経験談すらした。
それでも目に涙を溜めるエヴァの前に現れたのは、マチューだった。
「マチュー、わたくしジュールお兄さまのお妃様になれないの? こんなのってないわ」
「まだ決まったわけではありませんよ、エヴァ様。諦めてはなりません。……私がどうにかして差し上げますから」
本当? とエヴァは甘えるようにマチューを見上げた。
とっておきがございますゆえ、と呟きながらマチューはその視線をジュールと踊るアマリーに向けた。
アマリーは照れに頰を紅潮させながら少しぎこちなく踊っていた。そのアマリーの顔をひたと見つめる。
ジュールと見つめ合うその輝く青の瞳を、絶望の海の色に染めてやるのだ。
ーーもう直ぐだ。間も無く、あの幸せに溢れた笑顔を、どん底に落とし込んでやる。
自国の王女を騙るあの美しい娘が、恐怖に顔を歪ませ、恐れ戦く様は、想像するだけで身震いするほど愉快だった。
ジュールとのダンスが終わると、アマリーはたくさんの人々に一斉に話しかけられた。皆、未来の王太子妃になるかも知れない王女と今の内に懇意になろうと必死だった。
そんなアマリーと手をつなぎ、常に彼女と寄り添ったのはジュールだった。
やがて宴もたけなわといった頃になると、城に招かれた旅芸人たちがその芸を披露し始めた。この日のために各地から選抜された芸人たちは、それぞれの趣向で王侯貴族たちの目を惹きつけ、なかなかの盛り上がりを見せた。
アマリーもジュールと一緒に旅芸人の一角に行くと、東ノ国から来たという旅芸人たちが、興味深い芸を見せていた。長い棒の先に何枚もの皿を重ね、落とさぬようクルクルと回転させているのだ。
「凄いわね。私なら怖くて一枚でも出来ないわ」
驚くべきことに、芸人たちはその棒を掌から顎先へと移しかえ、更に回転速度を上げながらアマリーたちの側を練り歩いた。
楽器や舞で芸人たちが場を盛り上げ始めると、歓談もそこそこに人々は芸人たちの技に見入った。人々の注目が逸れるその頃合いを見計らったのか、ジュールはアマリーに少し外さないか、と耳打ちした。
アマリーの手を取り、大広間の出口に向かうジュールに向かって彼女は声を上げた。
「あの……ジュール様、どちらへ?」
「すぐ近くに小さいが中庭がある」
「でも主役の貴方が中座するなんて」
「どちらかと言えば主役は貴女だろうに」
ジュールは少し強引だった。
進むのを躊躇するアマリーの腕を少し強く引き、歩かせた。途中で話し掛けてくる人々には気さくに笑顔を見せ、挨拶をしていたが、アマリーの腕は決して離さなかった。
大広間を出ると中の喧騒が別世界のように、廊下は静かだった。
廊下を少し先に進むと、簡素な木製の扉があり、外へと通じていた。
城で働く者たちの休憩用に作られたその空間は、簡素な作りをしており、四方を飾り気のない建物の外壁や物置きに囲まれていたが、その雰囲気にアマリーはかえって落ち着いた。
狭い中庭の床は石畳が敷き詰められ、端には草木が茂る植木鉢がいくつか並んでいる。奥に佇むのは長いベールを被って首を傾けた女性の像だ。
エルベ城の中のアマリーの寝室より狭いくらいの、小さな中庭だったが、見上げると大層綺麗な満天の星空が頭上に広がっていた。
「私がダンスに誘ってから、ずっと緊張されていたのでは? 少しここで休もう」
ジュールはそう言うと、アマリーの顔に手を伸ばし、彼女の金色の後れ毛を指に掛け、耳の後ろに流した。ぴくり、とアマリーの瞼が動く。
もう後れ毛はなかったが、その柔らかな髪の感触がたまらず、ジュールはもう一度彼女の髪を耳に掛け直した。
そのままアマリーの両頰に指先を当て、彼女を正面から覗き込む。
「ーーダンスに誘い、迷惑だったか?」
ダンスをしてから硬かったアマリーは、なぜか先程から気もそぞろになっているのが気になった。
未来の妃として皆の注目を集めたことに緊張しているのかとも思ったが、それにしても顔色が悪いのではないか。
ジュールはアマリーの気持ちが本当に自分に向いているのか、気になった。
アマリーは少し揺れるそのジュールの声色にはっとさせられて彼を見上げた。その鋼色の瞳と目が合うと、胸の奥深くが熱い感覚で満たされていく。
「ジュール様……」
不安げなジュールを安心させたかった。
アマリーは爪先立ちになり、ジュールの頰に唇をそっと当てた。それだけで彼女の心が温かな幸福感で溢れていく。
まるでお返しのように、ジュールがアマリーの額にキスをした。
どちらからともなく、二人は少しぎこちない動きで抱き合っていた。
ジュールの広い胸に顔を押し当てれば、ドクドクと彼の心臓が鼓動する音が聞こえた。
ーーずっとこうしていたい……。
全身を支配していく充足感に、アマリーは抗えなかった。
アマリーを抱き締めたまま、ジュールは囁いた。
「五代前の国王は、遊びに行った貴族の館にいた令嬢と恋に落ち、彼女をそのまま強引に連れ帰って妃にしたという」
アマリーを抱き締めたまま、少し身体を離して彼女を覗き込む。青い瞳がほんの少しの困惑を含んでジュールを見上げている。
「ーー当時の国王の気持ちが、今は痛いほどよく理解できる。貴女を、西にひと時であれ、帰したくない。このままここにいて欲しい」
恥ずかしそうにぎこちなく微笑むアマリーが愛しくて、ジュールは彼女を一層強く抱き締めた。
人を愛するとは、こういうことなのだ、と深い感慨が胸中に押し寄せる。
「貴女が好きだ。貴女が西ノ国の王女で本当に良かった」
「……もし王女でなかったら、好きになってくれていなかった?」
アマリーがそっと尋ねると、ジュールは軽やかに笑った。
「そんなことはない。勿論、王女だから惹かれたわけではない」
嘘だ、とアマリーは思った。
もし自分がただのアマリーとしてジュールと出会っていたら、彼はアマリーを歯牙にも掛けなかったに違いない。存在すら意識されなかったはずだ。
そう思った直後、途方もなく虚しくなった。
(そうじゃない。嘘つきは、私なんだ)
ジュールは誠実な声で語った。
「もし貴女が私の妃になってくれたなら、貴女をとても大切にする」
その誠実さが辛い。
ジュールは幻に向かって愛を告白しているのだ、とアマリーは思った。そしてそうさせているのは私だ、と。
(自分はなんて酷いことをしているのだろう……)
「西ノ国に帰国したら、リリアナ王女専用の竜の鞍を作らせよう。ローデルの城にも、手の込んだ部屋を作らせておこう」
それは全て本物のリリアナ王女が享受するものになるだろう。私じゃないのだ、と思いながらもアマリーは礼を言った。
次にこの国でジュールと会うのは、リリアナ王女だ。自分は偽物なのだから。
アマリーは顔を上げてジュールを見つめた。
その磨き上げた剣を彷彿とさせる鋼色の瞳が、好きだった。少し強引だけれど、思い遣りを感じさせてくれる彼の性格に、惹かれた。恐ろしいと思いさえした、その強さと比類ない精悍さに、心を奪われた。
ーーもう今は、彼のマントが風にたなびく様にすら、心揺さぶられてしまう。
アマリーは本心から言った。
「ジュール様、好きです」
ジュールはこれほど悲しそうに愛を告げられたのは初めてだった。
アマリーの頰に触れ、指を滑らせるとそれは驚くほど滑らかなで心地が良かった。指先が近づくとぴくりと動いた青い瞳が可愛らしく、ジュールは目元に唇を押し当てた。そのままアマリーの唇にもキスをしよう、と角度を変えて顔を寄せると、不意に腕の中のアマリーの身体が強張った。
「待って……!」
アマリーは腕を突っ張り、ジュールの身体を自分から少し遠ざけた。
どくどくと心臓が激しくなった。キスはしたくなかった。お互いのために。
「次に会う時まで、取っておきたいの」
なんとか声が震えずにすんだ。
ジュールを直視出来なかったが、次に発せられた彼の声は少し笑いを含んだ穏やかなものだった。
「貴女は貞淑なのだな」
アマリーは引きつった笑みを浮かべる他なかった。槍でも飲みこまされているような気分がした。




