侍女の密告
膝の上に座らせていた侍女は、マチューの手の中のグラスを奪うと、婉然とした笑みを浮かべてからそれを飲んだ。
カラン、と氷がグラスに当たる涼しげな音に続き、よく冷えたグラスの表面から水滴が滴り落ちる。
転がり落ちた水滴は侍女の豊満な胸の上を滑り落ち、谷間に消えていく。
「ふふふっ、くすぐったいわ、マチュー様」
舌先でその水滴を舐め取るマチューの頭に手を当て、侍女は首を反らせて笑った。
「奥様に言いつけますよ。いけない人」
そう言えば妻が自分にもいたのだな、とマチューは久しぶりに妻のことを思い出した。もっとも名ばかりの妻は、その顔すら朧げにしか思い出せない。
ガーランド公爵家は数代にわたり中ノ国の王族から妻を娶ったせいで、国内の有力氏族との繋がりが薄れてしまっていた。それを挽回すべく、マチューは南ノ国の歴史ある侯爵家の令嬢を妻に選んだ。義父は高利貸しとしても名を馳せており、巨万の富を築いた人であった。
だが義父は商売を手広くやり過ぎた。彼は貴族にまで融資をし、借金を踏み倒そうとした彼らの企みにより、失脚した挙句に侯爵としての地位も失った。
義父の実弟までが彼に不利な証言をし、爵位を狙ったのだ。
マチューは甘えてくる侍女の手からグラスを取り返すと、残りの酒を一気に喉に流し込んだ。
最後に妻と会った時のことを思い出した。
妻は泣いていたように記憶している。
父は無実です、と妻は何度もマチューに訴えた。だがその度、妻の浅はかさに苛立った。
無実だろうが関係ない。重要なのはその妻自身に最早何の価値もなくなった、ということなのだ。
「私につまらないことを思い出させるんじゃない」
酒のついた口元を手の甲で拭うと、マチューは膝に横座りする侍女を見上げた。自分を見上げたその妖艶な眼差しに、侍女の身体がぞくりと震える。
マチューはグラスをソファの前に置かれたローテーブルに乗せると、侍女の長いスカートの裾を捲り始めた。
くすぐったげな侍女の笑い声が喉元から転がり出る。
侍女の柔らかな太ももに指が到達したころ、部屋の窓が微かに叩かれた。
マチューの手が止まる。
それはマチューだけが聞き取れるくらいの小さな音だった。
「ーーマチュー様?」
ももに触れる手の動きが止まったことを不審に思った侍女は、マチューの顔を覗き込んだ。
「少し席を外せ。今から来客がある」
侍女はえっ、と驚きを露わにした。
急にそんなことを言うマチューに驚きながらも、そろそろと膝の上を降り、名残惜しそうに彼の頰に口付けてからその場を後にした。
侍女が部屋を出ていくのと入れ替わるように窓が開くと、背の低い男がヒラリと部屋の中に身を滑り込ませてきた。
男は茶色い瞳を閉まったばかりの扉に向け、下卑た笑みを浮かべた。
「お楽しみのところ、申し訳ありませんねぇ」
マチューは苛立たしげにソファから立ちあがり、腕を組んだ。戯言に付き合うつもりはない。
「……何か分かったのか?」
男はひひひ、と笑い胸ポケットから何やら包みを取り出し、顔の高さに掲げた。
「ご注文の品が入手できましたよ。こちらがその扇子で、もう一つはとあるデッサン画です。へへ」
マチューが大股で近づくと、男はサッと後ろに飛び退き、包みをマチューが触れぬよう、遠ざけてニヤリと顔を歪めた。
その俊敏な動きにマチューは幾らか腹を立てた。まるで猿のような奴だ、と。
「いくらだ? どちらも買い取ろう。こちらに寄越せ」
「毎度ありがとうございます。へへ。扇子の方は二十万バレン、絵は五十万バレンになります」
マチューは眉根を大きく寄せ、高すぎる、と声を荒げた。扇子も十分高いが、デッサン画の対価が論外だ。
今までこの情報屋から様々なモノを仕入れたが、価格が異常だと感じたのはこれが初めてだった。
西ノ国がリリアナ王女を妃に、と推し始めた頃、マチューはリリアナ王女の情報収集を始めた。勿論、リリアナに不利な情報を集めて破談に追い込むためだ。
こうして聞こえ漏れたリリアナ王女の人となりから考えれば、王太子のジュールが好む女性だとはとても思えなかった。 この時点でマチューは相当安堵し、ジュールがリリアナを選ぶことはないだろうとたかをくくった。
だが近年中ノ国と接近し過ぎたことに反発する勢力や、北ノ国が南進を積極的に始めたせいで、西ノ国の重要性が増してしまった。国王やジュールも次第にリリアナ王女に興味を示しだし、雲行きが怪しくなったのだ。
こうなると、もう手段を選んではいられなかった。王室の情報はそう簡単には漏れなかったが、金を積めば擦り寄って来る者がいたのだ。
そんな時、別の情報屋から仕入れたのが、リリアナ王女は身体が丈夫ではないという話だった。マチューは天に感謝した。
世継ぎが産めなさそうな軟弱な王女であれば、国王が妃としては認めないかもしれない、と期待したのだ。
ところが実際にやって来たリリアナ王女は、至って健康そうだった。しかも途中、森で賊に襲われるという惨事すら物ともせず。聞けば既に初日のうちに竜にまで乗ったのだという。
健康どころか図太そうだった。
おまけに肖像画で見る以上に美しく、エルベに着く頃にはジュールの気をすっかり引きつけていた。
西からやって来たリリアナは、マチューが集めた王女の情報や、ドリモアから伝え聞いた人物と同じとは到底思えないほど表情豊かで、良く喋る女だった。
おまけに、やはり図太そうだった。
軽く脅すつもりで手の甲を吸ってやったところ、怯えるどころか顔色ひとつ変えずに平然としていた。
この女は本当にリリアナ王女なのだろうか?ーーそんな有り得ない疑念が首をもたげた矢先だった。
ーー西の国にはリリアナ王女にそっくりな従姉妹がいる。今回南に行ったのは、その従姉妹のほうだ。
この腕利きの情報屋がもたらしたのは、驚愕の話だった。
俄かには信じられなかった。だがそれに一縷の望みをかけた。
これ以上の出費と保身を天秤に掛け、マチューは逡巡した。
疑いの込められた視線を感じたのか、男は舌なめずりをしてから、マチューを扇動し始めた。
「この絵を入手するには、ちと危ない橋を渡ったんでね。ですが出所はこれ以上はないほど、確かでございますよぉ」
「……どこから仕入れた?」
男は黙って口元を歪めた。
それは買ってもらったとしても、教えるつもりはない。情報源の秘匿は絶対だ。
「では扇子を買おう。二十万バレン分だ」
マチューは近くにあったキャビネに歩を進め、苛立ちを隠せない様子で乱雑に引き出しを開けると、革製の巾着を取り出した。両手で開口すると、煌めく金貨が顔を覗かせる。
その内の数枚を取り出し、男に向かって放ると、彼は見事な動体視力で一枚残らず受け取った。
早く扇子を寄越せ、と急かすと男は金貨をカチャカチャと手の中で鳴らしながら、更にマチューを苛つかせる事を言った。
「旦那ぁ。ここの所、金の相場が下落していましてねぇ。これではちと足りませんねぇ」
「北ノ国と西に軍事的な衝突があったのを知らないのか? じきに金の価値が上がるだろう。それで十分な筈だ」
「未来の相場を語られましてもねぇ。お支払いは現時点での公表相場でお頼みしますよ」
男は包みをヒラヒラと動かしてから、更にマチューから遠ざけた。マチューは舌打ちしながらも、金貨を追加で放る。
金貨を受け取るとほぼ同時に男は包みをマチューに向かって投げた。床に落ちたそれを、急いでマチューが拾う。
腰を落としてマチューが拾い上げるその様子を、男は目を細めて見つめていた。ーーこの瞬間が好きだった。
いつもは平民を馬鹿にして見下し、踏ん反り返る傲然とした貴族や王族たちが、この時ばかりは頭を下げて膝を折り、男が地面に落としたモノに飛びつくのだ。
その姿はまるでエサにありつこうとする動物のようだ、と男は思った。
男が放った包みの中身は、一本の美しい扇子だった。香木と繊細なレース飾りがついた高価なものだ。マチューの依頼内容はこの貴重な扇子を、その持ち主から拝借してくることだった。無論、無断で。
扇子の要の下にはリリアナ王女個人の紋章と、名前が刻字されている。これは彼女が作家のドリモアにあげたものなのだ。
マチューは男に説明を求めた。
「これは……本当にドリモアの元から?」
「そうです。ドリモアがリリアナ王女からかつて下賜されたものです。滅多にないことらしいので、リリアナ王女ご本人なら、忘れるはずはありません」
マチューの薄い唇に笑みが広がる。
ジュールの隣で微笑んでいたあの娘にもう一度カマをかけてみる価値は、十分あるだろう。
「それからやはり例の侯爵令嬢とは接触出来ませんでした。なんでも今出張中とかで。これは怪しいですねぇ。ひひひ」
笑い声に苛立ちながらも、マチューはその断片情報を聞き逃さなかった。手元から目を上げると、未だ窓際に立つ男を睨む。
「ーーで、お前が見つけてきたそのやたらと高額なデッサン画とやらはどこにある?」
男は待ってました、とばかりに歯を見せて笑った。
胸ポケットに指を入れ、丸めた画用紙の端だけを露出させ、マチューに見せる。これ以上は金貨を受け取ってからだ。何せ男はこの絵を得るために、ある女に大金を支払ったのだから。
マチューは仕方なく男の言い値を支払った。
男は真ん中を赤い紐で結んで丸めた画用紙を放り、屈むマチューの後頭部を見ながら、ニヤついた。
デッサン画はリリアナ王女の侍女を名乗る女から仕入れたものたった。
男は大金を吹っかけてきたその侍女を思い出した。リリアナ王女を貶める情報を売るのが楽しいのか、なぜか嬉々としてデッサン画を売ってくれた。差し詰めワガママ放題をされて、日頃から恨みでもあるのだろう。
赤い紐を指先でサッと解き、丸められていた画用紙を広げると、マチューは目を見開いた。絵の隅々まで見入るに従い、その口角が上がっていく。
「これはーー、」
「リリアナ王女がある近衛騎士に描いてもらった絵だそうですよ。なんとその近衛騎士は王女の恋人で、今も愛し合っているのだとか。この世にたった一つしかないものです」
良くやった、お前は本当に使えるな、と言おうとマチューが顔を上げると、男はもう姿を消していた。
後にはただ、半分開いた窓から吹き込む風にレースのカーテンがはためいているだけだった。




