縮まる二人の距離
葡萄酒祭りの翌朝。
ジュールはリリアナ王女が滞在している部屋の前で、ノックをしようとしていた手を止め、立ち止まった。
予告のない訪問によって、印象を悪くしてしまうかもしれないーーそんな一抹の不安が過ったのだ。こんな風に自信なく狼狽えてしまうのは、実に久しぶりだった。
兄を亡くし、激流に攫われて頼りなく、けれどもなんとか波を乗りこなそうと気を揉んだ幼い頃のようだ。
彼はすぐに首を左右に振った。
(私は王太子だ。こんなことに怖気づいて、どうする。情けない)
扉を叩くとリリアナ王女本人が顔を出した。
「ジュール様! お、おはようございます」
王太子の突然の訪問にアマリーは大層驚いた。朝食を食べ終え、まだゆったりとした部屋着を着ているのだ。
太って見えないだろうか、と思わず腰回りに手をやり、誤魔化す。
ジュールは控え目な笑みを浮かべて言った。
「昼から祝典が始まるが、それまでは特にご予定がないと聞いているがーーピッチィに乗ってみないか?」
「ピッチィに? 私に竜の乗り方を教えてもらえるの?」
エヴァ王女が竜に乗りたがるとは思えないから、きっとジュールと二人きりになれるということだ。自分だけ特別に教えてもらえるのだ。そう思うと、アマリーのは頰を綻ばせ、喜びが滲み出る声で答えた。
「少々お待ちをーー。すぐに乗馬服に着替えて来るわ」
アマリーは扉を閉めると、カーラに飛びついた。
「ジュール様が竜の乗り方を教えてくれるって!」
カーラは目を剥いた。
アマリーは驚くカーラをよそに、至極嬉しそうに支度を始めた。クロゼットから乗馬服を引っ張りだすと、そのまま素晴らしい速さで服を脱ぎ去るアマリーを見て、カーラは少し不安を覚えた。
「アマリー様。大丈夫ですか?」
アマリーは両袖を倒しながら、何が? と問いかえす。
「……そんなにこの国の王太子殿下と親しくなられて、大丈夫なのでしょうか?」
「親しくならないと、妃に選んで貰えないわ。それにリリアナ王女には顛末を全てお話しして、後々困らないようにするわよ」
「そういう心配ではありません」
アマリーはボタンを閉める動きを止め、カーラを見た。カーラはいつになく神妙な顔つきをしていた。
「ーージュール様のお話をなさるアマリー様は、本当に楽しそうです」
「そうかしら?」
カーラは昨夜、ジュールと踊っていたアマリーの様子を思い出した。葡萄のカスや果汁まみれなのに、アマリーはとても幸せそうに見えた。ジュールを見上げる青い瞳は、カーラがこれまで見たことがないほどの、輝きと喜びに満ちていた。
「お分かりですよね? ーーアマリー様は、ジュール様のお妃様にはなれないのですよ」
「ええ。分かっているわよ……。これは西ノ国王の命令で、仕事であって。私はリリアナ王女の代役だもの」
分かっている、といいながらも心がグサリと痛む。アマリーは俄かに表情を曇らせつつも、残るボタンを閉め始める。
少し震える声でアマリーはカーラに言った。
「だからカーラお願い。着るのを手伝って。ーーお待たせしたくないの」
「アマリー様……」
アマリーは着替えながら、鏡の前に立って自分の容姿を映し、一生懸命確認をしていた。
カーラはアマリーの言葉とは裏腹に、余計に不安になっていった。
ミイラ取りがミイラになるのではないか、と心配で仕方がなかった。
アマリーが部屋から飛び出して来ると、ジュールは鋼鉄色の目を微かに見開いた。
見慣れたドレス姿ではなく、ジャケットとズボンを纏ったアマリーの姿が、とても新鮮に感じる。
当の本人は視線を受け少し気まずく感じた。
「あの、似合ってないかしら……?」
なにせ本物のリリアナ王女という、他人の乗馬服だ。
ジュールは目尻を下げて微笑んだ。
「いや、お似合いだ。とてもお綺麗だ」
(綺麗、ですってーー!?)
予想もしなかった唐突な賛辞に、アマリーは赤面した。その分かりやすい照れ方にジュールは更に気を良くした。
「貴女は何を着ても可愛いのだろうな」
「あ、あの……、ありがとう」
アマリーは青い瞳を激しく瞬かせ、その直後に逸らした。爪先と靴底の一部に硬い鉄板の入った乗馬靴は重くて歩きにくく、そのぎこちない動きすら、ジュールの目には愛らしく映る。
ジュールはアマリーに手を差し出した。
「さあ、裏の森に行こう。ーーピッチィも、貴女が来るのを楽しみにしている」
差し出された手にアマリーが自分の手をそっと乗せると、ジュールはそれを握った。
指先を取るような握り方ではなく、指と指を絡ませるような、まるで恋人同士を思わせる繋ぎ方だった。
城の裏手にある森では、ピッチィが竜騎士の手で鞍を装着されて、アマリーたちを待っていた。
ピッチィは二人を見るなり、グォォン、と鳴いた。
その響きの大きさに思わずアマリーの身体がびくりと震える。
「ピッチィ、リリアナ王女を脅かしてどうする」
ジュールが手を伸ばすとピッチィは頭を下げて、撫でて貰おうと彼の前に突き出した。
ジュールがぐしゃぐしゃと頭の上の角を搔きまわすと、ピッチィはグルル、と喉を鳴らした。
「ピッチィ、どうぞよろしくね。私を乗せてくれるかしら?」
アマリーはおずおずと近づくと、ピッチィの頭部に触れた。するとすかさずピッチィは頭をジュールからアマリーの方へと動かし、アマリーの胸に存外柔らかなその灰色の耳を押し付けた。
顔を引きつらせて硬直し、けれどもなんとかその場を退かずに竜の頭を触るアマリーの姿に、ジュールは苦笑した。
だがすぐにピッチィの頭部がアマリーの胸を突いていることに気づき、急速に腹が立った。
「そこまでにしろ、ピッチィ」
角を掴んでアマリーから引き離す。
「竜に乗るときは、名を呼んでから、竜笛を短く吹き、地面を指差すのだ」
ジュールの説明を受けてアマリーはピッチィの名を呼んだ。
ピッチィは耳をピクリと動かし、そのみどりの瞳をアマリーに向けた。更にジュールが竜笛を吹いて足元を指差すと、ピッチィはアマリーの前に腰を落とした。人が自分の背に上りやすくする為の姿勢だ。
アマリーは拳を握って気合いを入れると、そのゴツゴツと硬い背によじ登り出した。
自分が竜に登る日が来るとは、少し前までは思いもしなかった。
灰色の岩を彷彿とさせるその背に跨りながら、自分の身に起きている非現実的な展開に今更ながらも目眩がする。
「竜笛は短く吹くと上昇し、長く吹くと下降を命じることになる」
ジュールがそう教えるとアマリーは力強く頷いた。
安全のためにジュールもアマリーの後ろに跨った。アマリーは真後ろに座ったジュールを振り返り、不安げに尋ねた。
「ピッチィはまだ小さいけれど、私たち二人を乗せて大丈夫かしら?」
「子竜でも男二人を担ぐ。心配無用だ」
「強いのね、ピッチィ!」
グエっ、と短く鳴くとピッチィはその尾を激しく左右に振った。途端にグラグラと背が揺れ、アマリーは鞍にしがみつく。
「歩かせてみよう」
ジュールが背を蹴ると、ピッチィはノロノロと動き出した。
馬より格段に高く、馬の歩みより速いのだが、揺れはあまり変わらないように思えた。
手綱と足で望む速度を竜に伝える方法をジュールから教わりながら、アマリーはピッチィを乗りこなした。
ピッチィは時折アマリーの指示を無視し、草むらに顔を突っ込んだりあらぬ方向に行きかけたりしたが、それもご愛嬌だった。気を大きくしたアマリーはふざけて言ってみた。
「私も竜騎士になれそうかしら?」
「ーーどうかな? お手並み拝見しよう」
ジュールはそう言うと、ピッチィの脇腹を強かに蹴った。それを受けてピッチィが急に駆け足になる。
「ま、待って。 無理、無理だから……! 調子に乗って悪かったわ!」
ジュールは後ろから手を伸ばすと手綱をグッと引き、速度を落とさせながら爆笑した。
森の中を散策しながら、ジュールは後ろから話しかけた。
「今夜の建国記念祝典では、私もダルタニアンの背に乗る」
「まあ、そうですの。楽しみだわ!」
雄壮なダルタニアンに乗って現れるジュールは、さぞ見応えあるに違いない。
なにせ初めてジェヴォールの森でその姿を見たとき、アマリーは腰を抜かしそうになったのだから。
二人がピッチィの背に乗って森を行くと、途中で出くわす衛兵や竜騎士たちが、目を丸くして驚いた。
ジュールはそれが少し煩わしかった。森とは言え、城の敷地の中だ。人目がもっとない、二人になれる場所へ行きたかった。
「リリアナ王女。ピッチィを飛ばして見ないか?」
「ーーええ、お願い」
ジュールが竜笛を吹くと、アマリーは勇気を振り絞ってしがみ付いた。ピッチィはゆっくりと翼を広げた。
ジュールがアマリーの身体を後ろから支える。
両翼を高く上げてから、雄々しく風を切るとピッチィは地を蹴り、高く駆け上がった。
一気に重力が頭から下にかかって重たく感じた次の瞬間、二人は宙に浮いていた。
次の瞬きで木々はもう眼下にあった。
「乗るのが上手になられた!」
本当に? と爆発的な笑顔でリリアナは後ろを振り返った。と、その思わぬ近さに慌てて顔を元の位置にもどす。
ジュールの左手が鞍から離れ、アマリーのお腹に回され、彼女を抱き寄せる。
「ジュール様……、あ、あの……」
「貴女と二人きりになりたかった」
ドキンドキン、とアマリーの心臓が激しく鼓動する。
「貴女がいれば、きっと毎日が楽しいのだろうな」
二人はそうして黙って身を寄せ合い、空の旅を束の間楽しんだ。
ピッチィはエルベの街を出て、特にどうという指示もないので、自由に川沿いを飛んだ。
時折近くを飛ぶ鳥を見つけるたび、追いかけて一緒に遊びたい衝動に駆られたが、背の上に乗せている女性が乗竜に不慣れなのが分かっているので、ピッチィなりに気を使って我慢した。
空高く飛ぶ竜の背の上にいるというのに、アマリーの意識は景色や手綱からすっかり離れていた。
彼女の頭の中は、霞がかかったように半ば朦朧としていた。それはとても甘く心地良い霞だった。
ジュールと二人きりで身を寄せ合うのは、彼女を夢心地にさせた。
「リリアナ王女。祝典が終わったら、ローデルに行かないか?」
ローデルとは、南ノ国の首都だ。
祝典の後はエルベの周辺を案内して貰ってから帰国の途につく予定だったが、その中にローデルは含まれていなかったはずだ。
アマリーが解釈に苦しんでいると、ジュールは付け加えた。
「滞在を伸ばして貰えないだろうか」
それは願ってもいなかった申し出だった。
アマリーの胸中に喜びが溢れる。ーー滞在が長引けば、それだけジュールと長く共にいられるということだ。
だが同時に重たい石が胸に詰められた気分がした。
「貴女さえ良ければ、私から西ノ国にも伝えておこう」
アマリーはふと思ったーーそうなれば、きっと西ノ国のあの白光り王太子は快哉を叫ぶだろう。西ノ国の王女が選ばれた、と。
ジュールは空いていた方の手もそっとアマリーの身体に沿わせ、両手で彼女を抱きしめた。
アマリーの身体はジュールの胸の中にすっぽりと収まり、それでいて微かに身を固くさせ緊張しているようだった。
「貴女ともっと一緒にいたい、リリアナ王女」
(ーー私は、リリアナじゃない……)
喜ばしいはずの台詞が、ちっとも嬉しくない。
(ーー私の名前は、アマリーなのに)
他の女性の名で甘く囁かれることが、ジュールに呼ばれることが、なぜか今更とても歯痒い。彼は自分ではない別の女性に呼びかけているのだ。
こうしてジュールの温もりをしっかりと感じられる距離にいるのに、アマリーは彼の前にいる幻のような存在であった。
そう思うと目の奥がジンと熱くなってくる。
(どうして泣きそうになっているの? しっかりしなさい!)
アマリーは山と積まれる札束を思い浮かべ、なんとか自分をコントロールしようとした。
震える声で尋ねる。
「中ノ国のエヴァ王女も……ローデルに誘われているのかしら?」
自分が行かなければ、ジュールはエヴァと二人でローデルに行くのだろうか? その光景を想像するだけで不愉快になる。
「誘っていない。貴女だけだ」
喜びに打ち震えて天にも舞い上がりそうな気持ちと同時に、足元を何者かに暗い地の裂け目目掛けて力強く引き摺り下ろされるような感覚を覚える。
「ーー迷惑だっただろうか? もしそうなら、遠慮なく断ってくれ」
「迷惑だなんて、思ってないわ」
アマリーは慌てて上半身ごと後ろのジュールを振り返った。
両手を離したその行為を咎めてジュールは危ない、と呟いたが言葉とは裏腹にとても優しい言い方だった。
「考えておいてくれ」




