遺跡であなたと
少し馬で走ると、木立が現れた。
その小さな森林の入り口に差し掛かると、アマリーたちは馬を降りた。
王太子は馬を木の枝に繋ぐと、森林の中へと入っていく。
そのすぐ後をアマリーも追う。木立のお陰で日差しを避けることができて、草原のただ中にいるよりも幾らか涼しい。
ジュールはのんびりと散策をするのではなく、はっきりとした足取りで進んだ。まるで目的地があるみたいな歩き方だ。
疑問に思いながらもついていくと、森林の奥には石組みの建物があった。それは灰色の石を積み上げたもので、家一軒分を軽く凌ぐ大きさがあったが、上部は崩れ落ちて廃墟と化していた。
外壁には蔦が這い、一部の壁は大きな木が突き破ってしまっていた。
「これは、なんですか?」
少し不気味に思ってジュールに尋ねる。
「これをお見せしたかった。これは古王国の遺跡だ」
(古王国?)
思わず目を丸くして遺跡とやらを見上げる。
古王国とは、八百年も前に滅びた国の名だ。かつてデューラシア大陸は一つの国家が支配していた。その拠点は大陸の南側にあったと言い伝えられている。
その王が倒され、後世では国が複数に分断されたのだ。
ジュールは最早扉が失われた遺跡の入り口から、
中へと入っていった。
中は更に冷んやりとしていた。
内部の壁も所々崩れており、床は既になく、完全に緑に覆われている。残された壁は全面に彫刻がされていて、単なる民家ではないと推察された。
「ここはかつて神殿だったらしい」
そう言うとジュールは指で彫刻の一つをなぞった。
かなり風化して分かりにくくはなっていたが、剣を振り上げた兵士が竜に乗っているようだった。
「古王国にも竜騎士がいたんですね」
「南ノ国の王家は、古王国の王家の子孫だと言う言い伝えがある」
「えっ!? そうなんですの? 西ノ国にも同じ言い伝えがありますけど……。西ノ国王は古王家の末裔だと」
アマリーたちはお互いに驚いた顔で見つめ合い、笑い出した。
「きっと、北や東の王家も同じことを言っているんでしょうね」
くすくすと笑いながらジュールに同意を求めると、彼は急に真顔になった。そのままアマリーの真正面に立ち、アマリーをじっと見つめる。
「貴女は、そのように屈託無く笑うと思えば、妙に沈んで壁を作る時がある」
「そ、そうかしら……」
ギクリとした思わず後ずさりをしたが、その歩数分ジュールもアマリーに向かって進んだ。結果的に壁に追い詰められた格好になり、アマリーは彼の真っ直ぐな視線からの逃げ場を失った。
「なぜ目を逸らす? ……私がすぐに王太子だと名乗らなかったことを、やはりお怒りか?」
そうではない、とアマリーは首を左右に振る。
アマリーは返答に窮した。
ジュールは右手を上げて、アマリーの頭のすぐ横に手をついた。彼に迫られている気分になり、反射的に身体がびくりと震える。
こんなに広い所にいるのに、異常に身を寄せ合っているこの状況に困惑してしまう。
目を上げるとジュールはアマリーの顔の横の彫刻を指差していた。
それは冠を被った男女が抱き合う様子が彫られていた。周りには沢山の花束が舞っている。
「これは、初代の古王国の国王とその妃だ」
「初代の王ーー、ジャンバール王ね……。英雄として名高い」
「伝説では、ジャンバール王は竜狩りの途中で出会った娘を妃にした」
アマリーは彫刻と、それに触れているジュールの指先を見つめながら静かに頷いた。
伝説によれば、ジャンバール王は怪我を負い、川で傷を洗っていた。その時、洗濯のためにとある村娘が偶然その川へやって来た。村娘は彼の正体を知らぬまま、彼を介抱したのだという。
ジャンバール王はその美しさと優しさに心打たれ、彼女を妃にした。そして、彼女はその後のジャンバール王のデューラシア大陸統一という偉業を、しっかりと支えたと言い伝えられている。二人の身分差を超えた恋物語は今でも人気のテーマで、子供向けの童話だけでなく流行の歌劇でもしばしば演じられていた。
「五年ほど前に、『竜狩りの川の先』という本が流行ったでしょう?」
「ええ、私も読みましたわ」
国を超えて大変話題になった本で、一時はどこの書店でも売り切れになるほどだった。アマリーの周りでは、侍女の一人が手に入れたものを皆で回し読みしていた。
それはジャンバール王の伝記というよりは素敵な恋愛小説だった。だが当時ファバンク家は競走馬の足音が屋敷全体を埋め尽くし出していた不穏な時期で、アマリーは物語の中の恋愛にそれほど熱中出来なかった。
ジュールはアマリーを見つめたまま続けた。
「貴女は『竜狩りの川の先』の作家であるドリモアの大ファンだと聞いている。ドリモアとも会ったことがあるそうだな」
えっ、と顔を引きつらせてしまう。
それは、アマリー・ファバンクではない。リリアナ王女本人だ。
ドキドキと心臓が鳴る。
「そ、そうだったかしら?」
「かつて西ノ国で『竜狩りの川の先』が舞台化された時に、貴賓室にいらした貴女にドリモアが挨拶に行ったと聞いている」
「ええ、ああ、そうだったかも知れないわ」
知らない。
知らないからその話題はそろそろ切り上げて欲しい。
ジュールは思い出しながら続けた。
「ドリモアには私も会ったことがあるのだ。当時、南ノ国のガーランド公爵家がドリモアのパトロンとなっており、彼は公爵家に滞在していたから」
そうなのか。それは全く知らなかった。
あれほど流行した小説だったから、パトロンとなっていたその公爵家も、さぞ誇りに思ったことだろう。
「以来、ぜひ貴女をここに連れてきてみたかった。大陸に残された数少ない古王国遺跡の一つだから」
「まあ、……そうでしたの。ありがとう」
アマリーは顔を綻ばせた。
当惑しつつも、ジュールがアマリー扮するリリアナを喜ばせる為に、わざわざ足を伸ばしてここへ連れて来てくれたことが、素直に嬉しい。
「この神殿は言い伝えでは、ジャンバール王が婚儀を挙げた場所なのだ」
「ここが? ……もしかしてジュール様も、『竜狩りの川の先』を読まれましたか?」
「公爵家の長男とは幼馴染でね。彼に猛烈に勧められて読まされたのだが、思いの外私も熱中してしまった」
「私の侍女たちも、あの頃はジャンバール王の恋愛話ばかりをしていました」
「ーー今の王族は当時のジャンバール王のような、自由な結婚など望めない。だが、もし私が将来結婚をした暁にはジャンバール王とその妃のような、仲睦まじい夫婦でありたいと思っている」
「ええ。私も、そうありたいと思っていますわ」
だから、リリアナ王女を妃に選んで欲しい、とはこの場で言う勇気はなかった。
ジュールは別の彫刻を見せようとアマリーを誘導する為に彼女の肩にそっと触れた。だがアマリーは無意識にびくりと震えてしまった。ーー遺跡の中の暗さと、急に触れられたことが怖かったのかもしれない。
アマリーの心臓が跳ねる。
ジュールは一瞬怯えた眼差しで自分を見上げたアマリーの青い瞳を、少し残念そうに見つめた。
「貴女は私がーー竜に乗る人間がまだ怖いのか?」
「いいえ。……最初は怖かったけれど、もう怖くないわ」
言うべきか少し迷ってから、ジュールは口を開いた。
「……貴女と私の縁談話が持ち上がっているのをご存知か?」
「え、ええ。知ってます。勿論」
ドキドキと急に盛大に心臓が早鐘を打ち始める。
静寂に包まれた廃墟の中、自分の呼気の乱れをジュールに気づかれるのではないかと心配になり、それが更に心臓に負担をかける。
「おしとやかな西の王女は竜に乗る武人になど、嫁いで来たくはないのでは、と私は心配している」
これを聞いてアマリーは目を丸くして盛大に焦った。
南ノ国から要らぬ気遣いを受けているらしい。
「そんなことないわ! 竜も……ジュール様も賊から私を助けてくれた英雄だもの」
言ってからアマリーは真っ赤になった。
自分はなんて小っ恥ずかしい台詞を言っているのだろう。ーーこれは私の台詞じゃないの、西ノ国の為の、リリアナ王女の台詞よ、と自分に言い聞かせる。
薄暗く不気味な遺跡の中で、自分を至近距離から見下ろすジュールの視線は、どうしてかほんの少し怖かった。
けれどアマリーは怯む気持ちを押しやり、勇気を振り絞って一歩前に出た。
「本当のことを言えば、こちらに来る前はとても怖かったわ。……でも、今は竜を怖いとは思わない。むしろピッチィは可愛いと思っているわ」
「本当に?」
「ええ、本当」
ジュールは強がって震えていたアマリーの震える手と杏を思い出し、いまだ疑り深く彼女を見下ろしていた。
アマリーもリリアナらしく大人しくしているべきかと迷った。だが少しは押してみなければ、あの押せ押せな中ノ国のエヴァ王女に勝てない、という気がしたのだ。
「ではエルベに着いたら、竜の乗り方をお教えしよう」
アマリーは途端にぱっと表情を輝かせた。
「本当に? 私にも操縦できるかしら」
ジュールはきらきらと目を輝かせて見上げてくるアマリーの無邪気な笑顔に胸を突かれた。
淑やかに微笑んでいるより、こうして笑っている方がよほど素敵だ、と感じる。
「ーー勿論だ。私が丁寧にお教えしよう」
そう言うとジュールは右手を伸ばし、アマリーの手をそっと握った。
アマリーの心臓がどきんと跳ねる。繋がれた手を、どうして良いのか分からない。
ーー本音を言えば、竜に跨るのはまだ怖い。
だが竜は南ノ国の貴重な財産だ。その操縦方法を伝授してもらえるというのは、自分が認められたからだ、という気がして嬉しい。
手を取られたままジュールと見つめ合うのが恥ずかしくなり、思わず顔を逸らしてしまう。
ーーアマリーにじゃない。王太子は、リリアナ王女に言っているんだ。
そう自分に言い聞かせることで、どうにか暴れる心臓を落ち着かせようとする。
アマリーが礼を言うとジュールは彼女の手を離し、壁一面を飾る彫刻を見渡した。
かなり風化が進み、判別出来ないものも多かったが、恐らくジャンバール王や古王国の偉業を讃えたものに違いない。
竜に跨る王と思しき人物の下に、沢山の人々が跪く場面を彫ったものもあった。
アマリーはその彫刻の前で足を止め、ふとジュールに尋ねた。
「ジュール様もジャンバール王のように、大陸を一つの国家で統一したいと思う?」
ジュールは壁から目を離し、アマリーを見た。それは意外な質問だった。
「リリアナ王女、貴女はどうかな? 例えばどこかの王と結婚をしたら、その王にそれを成し遂げて欲しいと?」
「……私なら、夫には戦地に赴いて欲しくありません」
きっぱりと言い切ってから、しまったと思った。
アマリーの後悔をよそに、ジュールは微かに目を見開いてから豪快に笑い出した。
鋼色の瞳が踊っている。低音の実に楽しそうな笑い声に、アマリーは意識を引き付けられた。
正面に立つジュールを見上げ、アマリーはふと思った。
客観的に見てジュールは立派な美男子だ。王女のふりをして、気の利かない返事ばかりするアマリーにも気を遣って、たくさん話しかけてくれる。
ついアマリー・ファバンクである自分に求婚している、胸しか見てない男爵と鼠色の頭髪の子爵を思い出してしまった。ーー何という差だろうか。
(何だか、切ない……)
「貴女は時折そうして意表を突いたことを言う。物静かでおっとりされていると聞いていたが、意見を実にはっきりというのだな」
「ご、ごめんなさい!」
「詫びることなどない。寧ろそういう貴女の方が、個人的には好きだ」
「そ、そう? あの、……ありがとう」
自分自身の意見をはっきりと表明してしまったが、それがジュールの気分を害したりはしなかったらしい。
おまけに好きだと言われて恥ずかしくなり、たじろいで視線を彫刻に戻した。
(アマリー、落ち着くのよ! ーー何ドキドキしちゃってるのよ!)
ジュールは自分に言っているのではないのだ。この言葉は、偽のリリアナ王女のためのものだ。ジュールとは、この滞在が終わればもう二度と会えないのだろうから。
アマリーは動揺を押し隠し、何とか笑顔を作った。
「でも、私ではジャンバール王の妃にはなれませんわね」
「確かに!」
ジュールは尚も笑っていた。
愉快そうなその灰色の瞳がアマリーに向けられると、彼女は気まずさとともに微かな喜びを感じた。一見鋼鉄のような冷たい色の瞳が、温かく自分を見つめるのが、心地よい。胸の奥深くをくすぐられるようなこそばゆさがあった。
その時、遺跡の六角形をした柱の一つから、毛むくじゃらの小さな動物が飛び出してきた。
(ーーネズミ!?)
思わず悲鳴を上げながら、隣にいたジュールにしがみ付いてしまった。
「ネズミがっ……! やだっ!」
腕にしがみついたまま、逃げるように王太子の向こう側に回る。
「大丈夫だ。壁の裏へ行ってしまったよ」
首を伸ばしてジュールの肩越しに、ネズミがいた方向を見ると、もう毛むくじゃらは見当たらなかった。
ああ、良かったと胸を撫で下ろす。
視線を戻すと、彼は苦笑していた。
「貴女は私を盾にするのがお好きだな」
えっ、何の話? と問い返そうとして思い出した。
ピッチィが頭上に絡まる藻を取って欲しがった時も、ジュールを盾にしていたのだ。
そうと気付いて慌てて両手を離して取り繕う。
「あ、あの……! そんなつもりじゃなかったんですけど……!」
「頼り甲斐があると思われたなら、光栄だ」
ジュールはアマリーの手を引くと、遺跡の外へと歩き出した。




