表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

11/40

王女、リリアナ

 リリアナは生まれた時から、特別な存在だった。

 彼女は西ノ国の唯一の王女であり、兄王太子とは違って父である国王の美貌を色濃く受け継いでいた。

 国王は彼女を溺愛し、王妃は彼女を「わたくしの天使ちゃん」と呼び、可愛がった。

 兄からは甘やかされた。

 そして臣下たちは彼女の美しさを常に讃えた。


 歩く道には真紅の絨毯が敷き詰められ、障害物は彼女の視界に入らぬよう予め撤去され、心地良い物だけが前に差し出される。

 リリアナの日常には、思考も行動も必要とはされない。

 侍女や女官が快適に積み上げ、整えたビロードのクッションにただ座っていれば万事が滞りなく進む。


 そもそもリリアナとその他の者たちでは、価値が違った。だから王宮の窓から、もしくはごく時折馬車に乗って道端で見かける民衆も、彼女にとっては道端の小石と同じ意義しか持ち合わせてはいなかった。

 日々は優雅で、豪奢で、けれどひたすら空虚であった。

 余計なことは考えず、ただ王女として望まれるように生き、期待されたことだけをする。それがリリアナの生き方だった。

 ーー侍女のアガットが来るまでは。


 アガットは男爵令嬢だった。

 リリアナが十五歳の時に侍女としてやってきたアガットは、靄に包まれた湖のように静寂の中にあった彼女の精神世界に突然大きな穴を開けた。

 人懐こいアガットは、リリアナに気後れすることなく、何でも話した。いっそ無礼なほど、開けっぴろげに。だがその気さくさが、リリアナには新鮮な驚きだった。

 アガットが話す城の外の世界の話は、驚くほど複雑で難解だった。誰もが普通に目にし、感じてきた事柄の大半を、自分は全く経験してこなかったのだ、ということをこの時初めて痛感させられた。


 そしてある日、恋は本の中の架空の世界だけのものではないことを知ったのだ。




「リリアナ様。誰にも言わないでくださいね」


 アガットが声を小さくして、リリアナの耳元に顔を寄せる。

 リリアナの胸が期待に躍る。

 アガットはいつだって、リリアナを驚かせる何かを思いつくのだから。今度はなんだろう?

 まるでとっておきの秘密を打ち明けるかのようにアガットはリリアナに微笑む。その目はやや悪戯っぽく踊っている。


「リリアナ様に恋をしている騎士を、知っているんです」

「……私にーー?」


 リリアナは激しく瞬きをした。海の最も澄んだ色を切り取ったかのような青の瞳を、驚きに見開く。それは予想もしない話だった。

 いままで一度だってリリアナに愛を告げたものなど、いなかった。なぜならリリアナは特別過ぎる存在だったからだ。


 自分に好意を寄せてくれる人がいると思うだけで、胸をくすぐられるようなこそばゆさがあった。

 いつしかリリアナはその騎士のことが気になって仕方がなくなった。自分を王女としてではなく、ひとりの女性として見てくれる人がいるのだ。


 やがてアガットを通してリリアナはその騎士と文通をするようになった。

 数えきれないほど手紙を交わした頃ーーもう、リリアナは彼と例え会ったことなど一度もなくても、心が通じ合っている気になったものだ。

 いつしかリリアナは文通相手ーーアーネストという近衛騎士に心惹かれて仕方がなくなった。だから、アガットにこっそり会ってみるかと提案された時、迷うことなく「よろしくてよ」と答えていた。


 夏の暑い日差しが燦々と照り付ける日だった。

 城で働く者たちも普段は滅多に通らない、塔の裏でリリアナはアーネストと出会った。

 陽光の元でも変わらぬ暗さを持つ、きつくうねる黒い髪と、思慮深そうに見える暗い色の瞳。明るい色の髪を持つリリアナとは、まるで陰と陽ほどに対照的だった。

 二人は互いの表情を確かめるようにゆっくり近づいて距離を縮めると、どちらからともなく駆け出し、間近に向かい合った。


「リリアナ様! ずっとお慕い申し上げておりました」

「アーネスト! やっと会えたわ……!」

「お手に……触れてもよろしいでしょうか……?」

「ーーよろしくてよ」


 膝をついたアーネストはリリアナの手の甲に口付けた。

 周囲に人がいないか確認していたアガットが再び視線を彼らに戻すと、二人は両腕を広げて抱き合っていた。

 塔の陰から二人を見つめていたアガットは、この胸踊る光景に興奮した。西ノ国の唯一の王女と一介の近衛騎士の恋愛だ。普通なら許されないが、自分がこの恋を支えるのだ。

 アガットはアガットで、王女のお気に入りとして周囲に重宝される己の立場が誇らしかった。

 この国で最も高貴な少女ーーその人のそば近くで仕える喜び。そして、美しく柔らかな雰囲気を纏いながらも王女然とした鷹揚なリリアナに、いつしか心酔していた。

 そのリリアナと秘密を共有し、自分だけが役に立てるのだ。


 だが秘密の恋は、ついに終わりを迎えた。


 やがて王妃と乳母がリリアナとアーネストの関係に気がついたのだ。二人は即刻交際をやめるよう、リリアナを説得し始めた。

 それでも愛しい人とズルズルと関係を断ちきれなかったリリアナが、アーネストに別れを告げるまでは時間がかかった。

 最終的には、国王に知られればアーネストはサバレル諸島のような紛争地送りになるに違いない、と王妃が脅してリリアナを決意させた。


 アーネストは関係を終わらせようとリリアナが別れを切り出すと、絶望に色を失い呆然とした。

 貴方が近衛騎士で、私が王女でいる限り私たちは結ばれる運命には決してないのだ、とリリアナは血の涙を流しながら、愛する人に向かって叫んだのだ。

 ーーそしてそれから数日後のこと。

 血相を変えて乳母が王宮のリリアナの部屋にやって来たのだ。


「リリアナ様、アーネストが近衛騎士を辞職したそうです……!」


 リリアナの意識が一瞬遠のき、彼女は隣にあったテーブルに手をついた。そのまま机上にもたれかかる。

 なんてこと、なんてこと、と頭の中が混乱し、リリアナは不規則に喘いだ。金色の髪を震わせ、両手で口元を押さえた。

 アーネストはリリアナが別れを告げたショックのあまり、辞めてしまったというのか。もともと家柄がそれほど良くなかったアーネストが、その血の滲むような努力で手に入れた近衛騎士という地位だったというのに。

 自分はアーネストから、彼の長年の努力の成果までもを奪ってしまったのだ。


「それでアーネストは、どうしているの?」


 リリアナにいつになく怖いほど真っ直ぐに見つめられながら、乳母は震える声で答えた。


「様子を見に行かせた私の息子が申しますには、姿を全く見かけないと……。屋敷も片付いていたそうです。王都を出て行ったのかも知れません」


 リリアナは床に崩れた。同時に机上に置かれていたカップまでが倒され、机の縁まで転がると床についたリリアナの手のすぐそばに落ち、割れて飛んだ。

 粉々になった磁器の破片と水の飛沫がリリアナにも飛んだが、リリアナは振り払おうともしない。

 カップが割れたことに気づいてさえいなかった。

 ーー出て行った? つまり、もう二度と会えないということだろうか?


「きっと、アーネストは身を引いたのですよ」


 それを聞くと、リリアナの目に涙がせり上がり、頰を伝い落ちた。

 乳母は床に這いつくばるリリアナを抱き起こし、寝台に座らせた。

 リリアナは乳母に抱きついて泣いた。

 リリアナはひとしきり泣いた後、虚ろな目で吐息を漏らしながら言った。


「アーネスト……私の為に……」

「リリアナ様、……もうあの騎士とは終わったのですよ。お二人は結ばれる運命にはなかったのです。最初から」


 乳母はリリアナの両肩に手を掛け、彼女の青い両目を食い入るように見つめた。そうして必死の思いで言葉を紡いだ。


「よろしいですか、リリアナ様。元々お二人は許される関係ではなかったのです。お二人の恋は何も良いものをうまなかったではありませんか」


 彼女の脳内には、愛しいアーネストの姿が走馬灯のように再生され続けていた。

 リリアナを優しく見つめる姿が。

 言葉少ないリリアナに代わり、愛を熱く語る情熱的な黒い瞳が。


 リリアナも本当は別れたくなどなかった。アーネストを愛していたのだ。だが、王女として仕方なくその決断をしたのだ。それが、間違っていたというのだろうか。

 言われた通りにしただけなのに。





 …………………………




 賑やかで豪奢な王宮とは異なり、郊外にある離宮は物寂しい。

 ここへ来てから、二週間目になる。

 退屈したリリアナは、いまだ熱の名残でふらつく足取りのまま、寝台を降りた。

 本来なら今頃、南ノ国に行っていたはずだが、体調を崩してしまって叶わなかった。

 顔にあらわれた発疹を、リリアナは物憂げに指先で触れる。

 この発疹を見るなり、父王は真っ青になって頭を抱えたのだ。南ノ国の祝典に参加するという、またとない機会をどうするのだ、と。

 ーーだがまさか、父が代役を従姉妹にさせるとは思わなかった。

 リリアナは窓に映る己の顔を見つめ、深い溜め息をついた。


「リリアナ様、起き出したりして大丈夫ですか?」


 部屋の隅にいたアガットが急いで駆けつけ、リリアナの背を摩る。


「お水をお飲み下さい」


 アガットに差し出されたグラスを受け取ると、ゆっくりと飲み干す。

 グラスを返すとリリアナは出窓に腰かけ、長い溜め息をついた。そうして落とした視線の先にあった、出窓に置かれたスケッチブックに手を伸ばした。

 どのページもリリアナを描いたデッサン画で溢れていた。 色彩はなく、細いペンで描かれた黒一色の絵だが、繊細なタッチによってリリアナの特徴をとても良く捉えていた。

 花壇の前で微笑むリリアナ。

 長椅子に寄りかかり、微睡むリリアナ。

 窓辺に座り、本を読むリリアナ。

 全てこれは別れた恋人のアーネストが描いてくれたものだった。

 アーネストは絵を描くのが得意だった。

 自分と手元のペン先を交互に見つめながら、絵を描き進めていくあの優しく熱心な眼差しは今もなお、リリアナの脳裏に焼き付いている。ーーあの時が、どれほど幸福に満ち溢れていたか。

 一番最後のページは、二人で並んで座る姿を鏡に映し、アーネストが描いた絵だった。

 絵ではなく、本人に会いたい。


「貴方に、会いたいわ……。アーネストっ……」


 力なくスケッチブックがリリアナの手から滑り、床に落ちる。

 リリアナはどこを見るでもなく、窓の外に視線をやった。充血した青い瞳が揺れ、涙が頬から滑り落ちる。


「リリアナ様……! ああ、どうかお泣きにならないで」


 アガットは手を伸ばすとリリアナの小刻みに震える背を撫でた。

 庭すらも王宮と違って、ここは簡素で手入れもあまり行き届かず、窓の外にも寂寥感が広がっている。 リリアナとアガットはこみ上げる虚しさに身を委ね、ひたすら泣いた。

 そうして二人で抱き合って涙していると、バタン、と激しく扉が開いた。


「リリアナ様、大変です!」


 部屋に飛び込んできたのは、乳母だった。リリアナはアガットにしがみつきながら、まだ涙に濡れる虚ろな目で乳母を見上げる。


「息子が王宮から馬で走ってきまして……南に向かったアマリー様の隊列が、ジェヴォールの森で賊に襲撃されたそうです。なんでも賊どもはアマリー様を馬車の中から連れ出し、攫っていこうとしたとか……」

「まあ、そんな……」


 白い顔を青くさせ息を呑んだリリアナは、首をふるふると左右に振った。

 なんて恐ろしい。その場に居合わせなくてよかった。

 賊に攫われるなんてとんでもない。


「ーー外務大臣は森ではぐれてしまわれたとか。アマリー・ファバンク様にお怪我はないそうです」

「まあ、そうなの」


 実のところ大臣や従姉妹など、どうでも良かった。アーネストの身を案じて傷ついているリリアナの心には響いてこなかった。

 リリアナにとってオデンは幾らでも代えのきく役人の一人に過ぎず、アマリーは単なる身代わりでしかない。


「なんでも南の王太子様がいらして下さって、アマリー様を助けたそうです!」

「まぁ……」

「なんて勇ましくて頼りになるお方でしょうか。……リリアナ様、もうアーネストのことはお忘れ下さいませ。こんなに素晴らしい方との縁談があるのですから」


 リリアナは乳母の言葉に上の空で頷いた。


 乳母が退室するとアガットはリリアナを支えながら、寝台に座らせた。


「リリアナ様、大丈夫ですか?」

「私、ーー南になんて……、」


 その後の言葉は王女として、続けるわけにはいかなかった。だがアガットは崇拝する女主人が何を言わんとしたのかを、的確に察知した。

 ーー嫁がれたくないのですね、とその後はアガットが引き継いだ。

 アガットは先ほどまで二人で腰掛けていた出窓を振り返った。


「私に良い考えがあります。ーーきっと、リリアナ様が南に嫁がなくても良いようにして差し上げます……!」


 そう言うなり出窓に向かい、床に落ちたままとなっていたスケッチブックを拾いあげるアガットを、リリアナは不思議そうに見つめた。


「まぁ、アガット……。アーネストの絵で何をするの?」


 アガットはページをめくると、そのうちの一枚を選び取り、微笑んだ。


「この絵をお借りしますね」


 閃いた奸計に目をギラつかせる侍女の危うさに気づいたのか気づいていないのか、リリアナは何も追究はせず、「よろしくてよ」とただ答えた。

 リリアナがその絵を目にしたのはそれが最後となった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ