アマリー・ファバンク侯爵令嬢
激しい雨だった。
雨は天から地に叩きつける勢いで降っていた。
昼間でも暗いと言われるジェヴォールの森は大雨に見舞われ、まるで墨で塗り潰した様な景色が広がっていた。
木々の闇に溶けそうなその暗い森の獣道を、一頭の馬が爆走していくーーーーひと組の男女を背に乗せて。
この深い森の中、アマリー・ファバンクは間違いなく人生最大の危機を迎えていた。
アマリーは見知らぬ男から、疾走する馬上で熱烈な愛を告げられていた。
男は馬を操りながら、腕の中のアマリーにもう何度目かの告白をした。
「王女様、愛しています!」
(しつこいわよ、何回言うのよ!?)
返事をしようにも、馬にしがみつくだけで精一杯だ。
降りしきる雨が、吸い込んだ空気と一緒に口の中に入り込む。
「ああ、私の王女様。私は貴女を奪いに来たのです」
(ーーっていうか、アナタ誰!?)
アマリーは瞬きで雨を避けながらも、困惑して男を見上げる。
そもそもアマリーは王女ではない。
だが今この場で自分が偽者の王女だと告白してしまうのは、あまりに危険が大きい。
アマリーを見つめる男の黒い瞳は、病的なまでに思い詰めている。いっそ身の危険すら感じるほどに。
男は馬に乗ったまま、アマリーの身体が折れそうなほど力強く、彼女を抱きしめた。
反射的にアマリーが叫ぶ。
助けを呼ぶ声は鬱蒼とした深い森の木々の中に吸い込まれていく。
男は激情の込められた声で、熱い胸の内を吐き出した。
「リリアナ様! 貴女のためなら、一切を捨てられます」
「離してーー!」
(私は何も捨てたくないーー!!)
この国の国王が考えた、リリアナ王女の身代わり計画。
うまくいきそうもないと思っていたこの計画は案の定、出だしから頓挫の兆しを見せていた。
………………
侯爵令嬢であったアマリーの身を襲った数奇な運命は、生家のファバンク家が借金まみれになったせいだった。
全ては、ある馬の絵から始まった。
ある日、ファバンク邸の居間に一枚の馬の絵画が飾られたのだ。
森林を荒々しく駆け行く一頭の馬。
馬の筋肉が細部まで描写され、躍動感に溢れた、とても美しい絵だった。
この後ファバンク家を襲う没落劇の火蓋が切って落とされていたとは気づくはずもなく、「まぁ、迫力のあるステキな絵ね」とアマリーは平和に見上げていたものだ。
この絵を契機に、この西ノ国きっての名家、ファバンク侯爵家は転落していった。
気がつけば馬の絵画は徐々に増えていたのだ。
ファバンク家の屋敷の壁は数ヶ月の内に、馬の絵画だらけになっていったのである。
屋敷の大回廊を飾っていた侯爵家の先祖たちの肖像画は、一枚、また一枚と馬の絵画にとってかわられていく。
天使のように愛らしい、子ども時代の貴重な一場面を切り取った絵画も、いつの間にか雄壮な野生馬にその座を奪われた。
ついにはこのファバンク家を一大名家にのし上げた偉大な先祖である、三代目のファバンク侯爵の巨大な肖像画すらもが壁から外され、前脚を高く上げる馬の絵画がその隙間を埋めた時、ようやくアマリーの母は異変を察知した。
侯爵ーーつまり夫が、馬にハマったのである。
侯爵は各地の競走馬を購入し、競馬に巨費を投じていた。
だが彼には賭け事のセンスがなかった。
王家出身で残念なほど世間知らずなアマリーの母である侯爵夫人が、やっと財産管理人に自家の財務状況を聞き出した時、ファバンク家は既に手の施しようのない債務超過に陥っていた。
この西ノ国の歴史に燦然と名を刻む名家、ファバンク家は一代にしてその財の大半を失いかけていた。
アマリーが十歳になった頃の話である。
このようにしてアマリーは、社交界に華々しくデビューする機会を失った。
アマリーが十七歳になると、侯爵は娘の結婚相手を躍起になって探し始めた。
食いぶちを減らそうとしたのではない。
もうじき立ち退きを命じられる、先祖代々受け継いだ絢爛豪華な屋敷から、一家が追い出されて親子共々路頭に迷う運命から、彼女だけでも救いたいという親心からだった。
たぶん。
きっと、そう。……だとアマリー本人は今も信じている。
だが侯爵は肝心な時に決断力がなかった。
幸いアマリーは美貌の令嬢としてその名を馳せていたので、馬で沈没寸前の家の娘でも娶りたいという奇特な貴族の男性が二名ばかりいた。
アマリーをぜひ妻にと名乗り上げたのは、鼻息荒い成り上がりの男爵と、優しそうだがちょっと年寄りの子爵だった。
流石に以前なら娘を嫁がせる相手として考えもしないような相手に、侯爵は狼狽した。
そう、身の程知らずにも逡巡してしまったのだ。
だがこの迷っていた半年間に、事態は急変してしまった。
とんでもない命令が国王から下されたのだ。