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消滅

 妻がいなくなった。

 社長は確かにそう口にした。

 ひどく、落ち込み切った表情で。


「奥様が……ですか? どうしたんですか突然」


 不穏なその物言いに、どこか引っ掛かりを覚えながらも、私は話の続きを促した。


「……先月、一緒に装置の納品をしたでしょう? あれの検収を終えた日の夜、自宅に帰ると、妻が珍しく本を読んでいたんですよ」


 何を読んでいるのか気になった社長は、なんとはなしに、リビングのソファーに座る奥さんに声を掛けたという。

 すると、奥さんは生返事を寄こすばかりで、本の内容どころか題名すらも、教えようとしなかったらしい。


「その時は、読書に熱中しているのかなと思って、それっきりにしたんです。夕飯は外で済ませていたので、その日は風呂に入って、十一時前には床に就きました。たぶん、妻もそれからすぐに寝たんだと思います」


「多分って、奥様とは同じ部屋で寝ているんじゃないんですか?」


「別々ですよ。あぁ、でも勘違いなさらないでください。不仲ではありません。妻と結婚したのは八年前ですが、これまで一度も喧嘩したことなんてありませんし。休日には妻の買い物に付き合ったりもしますしね。子供はいませんが、だからと言ってギクシャクした関係ではありませんでした。そもそも、私から言い出したんですよ。部屋を別々にしようって。何故かと言うと、私のイビキがかなり煩くてですね……幻滅されたくなかったんですよ。妻は一緒に寝たいと言っていましたが、こればっかりはどうも」


「はぁ……それで?」


「それで、翌朝も仕事でしたから、六時ぐらいに起きて。一階に降りて朝ご飯を食べようと思ったら、いつも台所で朝食を作っているはずの妻の姿が見当たらなくて」


 珍しく寝坊でもしたのかと思い、社長は自分で簡単な朝食をこしらえて、テレビを見ながら一人で食べていたらしい。

 ところが、三十分ほど経っても奥さんは二階の寝室から降りてこない。

 体調でも悪いのだろうかと、心配になって寝室のドアを開けたら、抜け殻のように布団が横たわっているだけで、奥さんの姿が見当たらなかったのだそうだ。


「朝食を作って食べている間、妻が降りてくる気配は全くありませんでした。足音すらもです。だから、これはおかしいと思って、トイレとか風呂とか、とにかく探せるところは全て探しました」


「それでも、奥様は家の何処にもいなかったと?」


 社長は黙って首を小さく縦に振った。


「靴もきちんと揃えられていましたし、財布も置きっぱなしでした。外に出た様子もなかったんです。それで、ですよ、藤田さん。奇妙なのはここからなんです」


「と、申しますと?」


「状況が状況だけに、さすがの私もこれはおかしいと思いました。それで、急いで妻の携帯に連絡を入れようとしたんです。外に出た気配がないだけで、実際は出たのかもしれないと、そう思い直して。朝っぱらから何処にいるんだと、一発叱りつけてやろうかと」


 そこで一旦区切ると、社長は、痩せた貌に緊張を張り付かせて、ごくりと唾を飲み込んだ。


「でも、繋がりませんでした。『この電話番号は現在使われておりません』っていう、あのアナウンスが流れてくるばかりで……何度電話を掛けても、そればかりで……」


「……え?」


 それは、番号を変えたということだろうか?

 いや、しかし、社長の話では夫婦仲は良好だと言う。

 そんな状況で、果たして電話の番号を変えるだろうか?


 私が頭の中で状況を思い浮かべながら思案している一方、社長は、当時の心境を思い出してしまったのだろうか。

 視線を忙しなく動かし、緊張と不安からか、小さく貧乏ゆすりを始めた。

 らしくない態度だった。見ていられなくて、私は煙草の箱を社長に差し出した。


「どうぞ」


「あぁ……これは、すいません」


 社長の喘ぐような声を耳にして、私は何だか今さらになって恐ろしく、そして寂しく思えてしょうがなかった。

 仕事の関係上での付き合いとは言え、村神社長とは少し年上の友人、といった感じで接している。

 いつも物腰が丁寧で、礼儀を欠かさない良識人。

 そんな社長を、私の知人の心をここまで乱した元凶を思えば、背筋が妙に寒気立つというものだ。

 つまり、奥さんはなぜ家を出たのか。その理由についてだが……いや、まて。


……家を出た?


「……もしかして」


 脳裡に食い込んだ引っ掛かりの正体を探ろうとしているうちに、自然と口が動いていた。

 と同時に、周囲の空気がねじくれたような違和感を覚えた。

 その違和感の正体が何なのか、私には直ぐに理解が及んだ。

 つまりは、社長の話から滲み出る、どこか奇妙な雰囲気。


「いなくなったって……消えてしまったって、ことですか?」


 社長は力なく頷いた。雄弁な頷きだった。

 下を向いたまま、力なく煙草の煙を吐き出すその姿が、何とも言えず物悲しく見えた。


「おっしゃる通りです。しかし、消えたのは彼女だけじゃないんです」


「彼女だけじゃない?」


「話を続けますとですね……その日は会社を休みました。当然ですよ。妻が家から書き置きも何も残さずに消えたのに、素知らぬ顔で仕事なんて出来やしませんから。それに、妻の身に何が起こったのかを、ちゃんと確かめる必要がありました。それで、私はまず、妻の実家に電話をかけてみたんです」


「まさか、そこでまた通話不能の通知が?」


「いえ、ちゃんと繋がりました。でも、電話に出たのは全然知らない男の人だったんです」


「え?」


「信じられますか? 彼女の実家に確かに電話したはずなのに、義父や義母どころか、私の全く知らない他人が、その家に住んでいたんです」


 社長は当初、奥さんの失踪……いや、消失にその男性が関係しているとみて、急ぎ車を飛ばし、隣県にある彼女の実家まで出向いたという。


「妻の実家は、山を切り開いた団地の一角にあるんです。車を運転している途中、何度も訪れたあの家が視界に入った途端、私の中に、妙な安心感が沸いてきました。何があったのか分からないが、きっと妻はあの家にいる。そう祈りながら、玄関のチャイムを鳴らしたんです」


 だが、社長の願いを無視するかのように、姿を見せたのは奥さんではなかった。

 見ず知らずの、無精ひげを生やした、パジャマ姿のおじさんだったと言う。

 電話に出た相手で間違いなかった。


「そりゃあ、戸惑いました。でも相手の方が、ずっと戸惑っていたんじゃないかな。とにかく会ったからにはしっかりお話を聞かなきゃと、色々な質問をしました。すると男性は独身で、もう五十年近くずっと、彼の祖父母と暮らしているって言うんです。妻の実家があったはずの家で」


 信じられなくて、社長は近所にも聞き込みを行ったらしい。

 だが返ってくるのはどれも同じ答えばかりで、彼が奥さんの話をすると、『そんな人はこの辺りには住んでいない』の一点張りだったという。


「家に戻って、冷静になろうと努めました。何かの間違いだって、何度も自分に言い聞かせました。妻だけじゃなくてその家族まで消えたなんて、とても信じられなかった。とにかく、彼女に関係しているあらゆる場所に電話を掛けました。でも、彼女が勤めているはずの会社に電話しても、『弊社にそのような女性は在籍しておりません』とか、なんとか言われて……」


「共通のご友人には?」


「もちろん電話しましたよ!」


 狭い檻に閉じ込められた犬のように、社長は苦しげに顔を歪めた。

 それから、短くなりつつある煙草に唇をつけ、力を込めて吸ってみせる。

 口火が、一際赤々しく燃えている。


「結婚式に招待した中学時代の友人たちに聞いて回りました。俺の奥さんの名前、言えるかって。でも、誰も分からないと。どんな印象の人か聞いても、なんとなく覚えているけど、顔までは思い出せないって……馬鹿げていますよ。みんなうちの妻と会っているし、何度も一緒に飲みにいった仲なのに。それなのに……」


「け、警察には……」


「どうやって話せって言うんですか。妻が失踪しただけなら、行方不明届けも出せるでしょうが、でもみんなの記憶から、妻の存在が消えているんですよ! 警察にそんな話、信じて貰えるわけが……」


 そこまで言うと、社長は再び下を向いて沈黙してしまった。

 奥さんが急に消えたことで、彼の精神は著しい疲弊を迎えたのだ。

 きっと、食事も喉を通らない毎日を過ごしてきたのだろう。

 虚ろ気な瞳の向こうに、奥さんの幻影を追い求め続けているのかもしれない。


 消えたのが奥さんだけなら、色々と理由をあげつらって辻褄を合わせることは出来る。

 だがしかし、社長を襲った不可解な出来事は、より複雑怪奇で難題だ。

 奥さんだけでなく、そのご家族までも消息を絶っている。

 加えて、奥さんに関する記憶や想い出が、知人の頭から消えてしまっている。

 世界から、その存在の痕跡を跡形もなく排除されてしまっている。


「まるで、神隠しですね」


「そう。それです」


 追加で運ばれてきたビールを飲みながら、社長はテーブルにもたれかかるような体勢になると、私を指差して言った。

 まぶたがとろんと落ちかかって、頬は先ほどよりも赤味を差している。

 酔いが回ってきているのだろう。呂律はしっかり回っているが、声に熱が入っている。


「まさに神隠しですよ。でもね、藤田さん、考えてもみてください。この現代に神隠しなんて、そんなの現実的な話じゃありませんよ。そう思いませんか? 所詮はオカルトですよ、神隠しなんて。そんなものが、あってたまりますか」


 まるで自分に言い聞かせるかのように、社長は一気にまくし立てた。


「絶対に……絶対に確固たる理由があるはずなんです。神隠しなんて、そんな曖昧とした理由じゃ納得いかない」


「何か、手がかりになりそうなものは?」


 まるでこれでは聞き込み役だ。

 しかし私には、それに徹する義務がある。

 普段通りの社長に戻ってもらうためにも、奥さんが何処に消えたかの謎を明らかにせねばならない。

 その一念で、私は社長にそう問いかけた。


 私の質問に、社長は「あります」とだけ口にすると、鞄から一冊の文庫サイズの本を取り出し、テーブルの上に置いた。


 本をあまり読まない私にも、それがただの本ではないことは一目で分かった。

 無地の肌色に近い装丁は、四隅が焼け跡のように黒ずんでいて、細かい皺の山が刻まれている。

 雨に打たれて、そのままずっと放置していれば、こんな皺が出来るのだろうか。


 装丁がそれだけみっともないのに、黒インクで印字されたと思しきタイトルだけが、やけにくっきりとしているのが、ひどくアンバランスに映った。

 タイトルは英字で書かれていた。

 達筆過ぎて、何と書かれているかは分からなかった。


「妻が消える前の晩に読んでいた本です。これだけが、リビングに置かれていて……」


「タイトル、読めますか?」


「いえ、さっぱりです。後付けのところに作者と思しき名前があるんですが、なにぶん全編英文で書かれていて、何がなにやらという感じです。でも、手がかりと呼べるのがこれしかなくて……あ、読まない方がいいですよ。私、軽く目を通してみたんですが、その、なんだかとても気分が悪くなるような挿絵ばかりで……」


 行き詰って、私も社長も押し黙った。

 どうして社長の奥さんは、消失の前日にこんな不気味な念を放つ本を読んでいたのか。

 仮に理由が判明したとして、奥さんの消失と、この奇怪な本とに密接な繋がりがあるのかは分からない。

 しかしながら、我々が得られている情報がこれだけというのも、また事実である。


「いっそのこと、不審者に誘拐されたと説明を受けた方が、辛いですが理解できますよ。納得はできませんがね」


「不審者……」


 その言葉を無意識に呟いた、その直後だった。

 唐突な記憶の覚醒が、私の中で起こった。


「そういえば、社長。先月の工事の時、一緒にホテルに泊まりましたよね」


「ああ、泊ったね」


「実はあの時、社長の部屋の前で、ちょっと変な人を見かけたんですけど」


 私は、見えない暗闇の中で光明を探し求める心持ちで、社長に『あの事』について話した。

 先月の工事の際、宿泊先のホテルで目撃した、気色悪い謎めいた女性の話を。


 今になっても、あの女が何者であるかは全く見当がつかないが、我々の工事が終わった直後に奥さんが失踪したのと、何か関係があるように思えた。

 なにせ、あの女性は一体どんな目的があってかは分からないが、じっと社長が泊っていた部屋の前に佇んでいたのだ。

 騒ぐでもなく、泣き喚くでもなく。ただじっと。


 記憶を頼りながら、あの不気味な女性について私は話を始めた。

 こちらの口から語られる女性の容貌を耳にした途端、社長は驚愕の相を浮かべ、かと思うと、次第に眉間に皺を寄せていった。


「藤田さん……それ、本当ですか?」


 声音に、訝しさと若干の怯えが混じっていた。

 なぜ、そんな調子の声を出したのか。

 疑問を覚えながらも、私は「間違いありません」と言い切った。


「もしかしたら、あの女性が奥さんの失踪に関係しているのかも……ホテルに連絡して確認すれば……」


「藤田さん、それは」社長は煙草を持つ手で俺を制して、続けた。ぎこちなく笑みを浮かべて。


「悪い夢でも見たんですよ、きっと」


「夢? そんな、あれは夢なんかじゃありませんよ。何を以てそんな事を……」


「その女性が、藤田さんの言葉通りの姿をした人だったら、私にも覚えがあります」


「え?」


「その人、うちの親父の愛人ですよ」


「先代の、ですか? あの人が?」


「ええ……名前は、たしか秋江さんと言ったかな。普段から、みすぼらしい恰好をしていた人で。なぜだか親父は、そんな彼女にぞっこんのようでしたが。元はホステスをやっていたらしいんですが、ホストに夢中になっちゃったらしくて。よくある話ですよ。貢ぎまくった結果、借金に借金を重ねて、にっちもさっちもいかなくなったところで、常連だった親父が金銭的援助を申し出たんです。そこから色々あって……早い話が、情が移ったんでしょう。馬鹿な話ですよ」


「どこにお住いの方か、分かりますか? 今からでも話を聞きにいきましょう! きっと奥様の失踪にその女性が……」


「いえ、無関係だと思います」


「どうして! 分からないじゃないですか!」


「もう亡くなっているからですよ」


 なんだって?


「ですから、亡くなっているんですよ。その人。もう何年も昔に」


 本人は普通に話したつもりなのだろうが、耳にした私の心は、間近で落雷を打たれたかのような衝撃を受けた。

 思考が混乱と静止の狭間に立ち、それは呆然という形をとることで、一応の解決を見た。

 遅れて、言い知れぬ空気感が私を苛んだ。

 ぬらついた何かが、じっとりと足元を這う予感があった。

 それは舐めるように私の体にゆっくりと纏わりついてきて、こちらの肌を存分に粟立たせた。

 社長は苦笑いを浮かべながら、灰皿で煙草の火をにじり潰した。


「私が社長に就いてからも、あの人、嫌がらせを止めてはくれなかったんです。それでもう、これはきっちり手を打たなきゃと思って、弁護士を雇ったりなんだりして、二度とウチに関わるなって通知したんです。それからしばらくは無言電話も嫌がらせもなかったんですが、半年後ぐらいですかね。秋江さんにはお姉さんがいるんですが、その人から連絡があったんです。妹が焼身自殺したって。遺書の類はなかったそうです」


 社長はそう口にすると、少し屈んで右足を掻いた。


「……そう、ですか……」


 それだけを口にするので、精一杯だった。


「だからきっと、藤田さんが見たのは悪い夢ですよ……と、すいません。ちょっとトイレに行ってきます」


 社長はおもむろに席を立った。

 一人個室に残された私は、何時にも増してハイペースで煙草を吸い続けた。

 たくさんのタールとニコチンで肺を満たした。

 けれども、心はちっとも平静を取り戻してはくれなかった。


「あれが、夢だって?」


 いや、そんな筈はない。

 私は心の中で激しく頭を振った。

 あれが夢であるはずがない。

 夢なんてものは所詮、空想の産物に過ぎない。

 時間の経過と共に記憶もおぼろげになっていく。


 しかし、あの日の夜の出来事を、私は断じて忘れてはいない。

 社長の部屋の前に佇む女性は、確かに質感を備えていた。

 あの時間、あの場に存在していると、私の脳は一寸の狂いもなく認識している。

 その証拠に、一ヶ月ほど経過した今でも、あの女性が全身から放っている、陰気で不気味な雰囲気を、はっきりと感覚できた。


『足が萎える』 


 女性が口にしたあの不可解な台詞も、私の耳朶にしかと残っている。

 言葉の意味は分からずじまいだが、重要なのは彼女が話しかけてきたという点だ。

 まさか、あの日私が目撃したのは、彼女の亡霊だとでも言うのだろうか。

 ということは、私は幽霊と言葉を交わしたことになる。


 馬鹿馬鹿しい。普段の私なら、そう一笑に付したことだろう。

 心霊現象は実在するものではなく、怯え不審に満ちた心のレンズで物事を眺めた時に、無意識のうちに事実を歪ませてしまう。その結果に過ぎないのだ。

 自分なりにそういった定義をしていた。

 だが今は、その定義の根幹が大きく揺らいでいた。


 なぜなら、聞かされてしまったからだ。

 社長の奥さんの、存在の消失。

 現代の神隠し。

 身近な世界で起こった、奇妙で恐ろしい現象の数々を。


 得体の知れぬ怪奇に精神を侵食されて、すっかり心が摩耗した社長の口から語られる、現実離れした物語。

 そこに込められた力が、私を取り巻いている世界の形を、少しずつ、だが確かに変容させていく。

 そんなビジョンが意識の底に溜まっていくのを、どうしても止められなかった。

 私の平凡で平穏な世界を、社長の語りが一変させてしまったのだ。

 そしてそれは、もう二度と、本来のあるべき形には、戻らないのだろう。


 なんてことを話してくれたのだ――憐憫と同情よりも僅かに怒りの方が勝っていた。

 複雑な心境のまま、煙草を吸い続けた。


 はたと気づいた時には、灰皿が黒と白の残骸で一杯になっていた。

 腕時計で時刻を確認。

 社長が席を立ってから、もう十五分以上経過している。


「(……遅いなぁ)」


 私は席を立って、社長をトイレから呼び戻しに向かった。

 酔っているせいか、店内は迷路のように複雑に見えた。


 軽く迷いながらも、男性用トイレのスペースを見つける。

 扉を開けようと手をかけた時だった。

 乱暴に扉が開かれ、誰かが目の前に飛び込んできた。

 黒いコートと黒い帽子を目深に被った男性だった。

 驚きのあまり咄嗟に避けようとしたが間に合わず、ドン、と肩がぶつかった。


「あ、すいません」


「……」


 反射的に謝った私とは対照的に、男性はこちらを見向きもせず、沈黙のまま大股で去っていった。

 無礼な人だなと思いつつ、私はトイレに入った。


 誰もいなかった。

 小便器が二つに、大便用の個室が一つ。

 個室の扉は開け放たれていて、がらんとしていた。

 社長の姿はどこにもなかった。


 行き違いになったのか、無駄足を踏んだな、などと考えながら自席に戻る。

 しかし、そこにも社長はいなかった。

 女性店員が一人、空いた皿を片付けにやってきているだけだった。


「あの、すいません」


 不吉な予感を覚えるよりも、戸惑いの方が強かった。


「連れが一人いるはずなんですが、見かけませんでしたか?」


 店員は不思議そうに私を見ると、


「お客様、お一人でのご来店のはずですが?」


「え? いや、だって飲み放題は二人分でお願いした――」


「そのようなご注文は、承っておりません」


 店員は去っていった。突き放すような言葉を残して。

 素っ気ない態度。私の頭を存分に搔き乱すには、十分過ぎた。

 激しい困惑に苛まれたまま、ふと見ると、席に置いてあったはずの社長の鞄が、いつの間にか消えていた。

 そして、あの不気味な本だけが、自身の存在をことさら主張するかのように、テーブルにぽつねんと置かれたままだった。


 突発的に湧き上がる大学生たちの笑い声をぼんやりと耳にしながら、私はしばらく、その場から動けなかった。

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