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恐慌

 あの不気味な女性を目撃してから、一ヶ月後の事だった。


「藤田君、ちょっといいかな」


 課内の朝礼が終わって自席に座ろうとした時、ふと課長に呼び止められた。


「なんですか?」


「今日は外回りしないんだろ?」


「ええ」


「そうか。実は今日の午前中に、村神社長がウチに来るんだよ。例の、キタガワ化成さんのところに納める装置の仮組をお願いしていてね」


 ガラスプラント装置を納品するにあたって、現場に出向いて一発勝負、なんて無茶なことは基本しない。

 部品が全て揃ったところで、自社の作業場で装置を実際に組み立ててみて、問題がないかどうかを確認する『仮組』の工程をするのが必須とされている。


 キタガワ化成さんの案件は課長の担当だ。

 八百万程する試験用の蒸留装置を、来月の頭に納める手筈になっている。

 当然のことながら仮組作業も、課長が進んで行う予定になっているのだが、


「今日やるつもりだったんだけど、さっき富沢重工さんから連絡があってさ。まいったよ。装置が故障したらしくて、急いで修理に向かわなきゃいけなくなっちゃったんだ」


「という事は、代わりに私が仮組の監督を?」


「そういうこと。任せてもいいかな? 装置はでかいけど、システム自体は君が組んだこともある、ごくごく簡単な奴だから。社長にやってもらえれば直ぐに終わると思うよ」


「承知しました。部品はどちらに?」


「全部作業場に置いてある。図面のことで分からないことがあったら、設計の中川さんに聞いてくれ。組んでみて足りない部品があったりしたら、メールで報告してくれるかな?」


「はい」


「ありがとう。じゃあよろしく頼むね」


 要件を伝え終わると、課長は大慌てで荷物を整え、車のキーを手に技術営業課の部屋を出て行った。

 村神社長が作業員を引き連れてウチにやってきたのは、それから一時間後の事だった。

 受付から来客の電話を受けて、一階の待ち合わせスペースに行く。

 作業着姿の社長に高宮さん、それに中途採用で入ったばかりの森咲さんが、玄関先で所在無さげに立っていた。


「あぁ、社長、先月の蒸留装置の工事では色々と――」


 お世話になりました。と口にしかけたところで、思わず息を呑んだ。

 視線が意識せずに釘付けになり、社長の頭から足のつま先までを、舐めるように眺めてしまう。

 そうして、私の口からようやく出た言葉が、


「社長……だいぶ、痩せられましたね……」


 サーフィンを趣味にしているだけあって、村神社長はかなり引き締まって肉体をしていたはずで、本人もそれを自慢にしていた。

 それが、どうしたことだろう。腕や腰回りの作業着がぶかぶかに見えるほど、体の肉が薄くなっていた。

 目元にははっきりと隈が浮かんでいた。いつもワックスでかっちり整えているはずの黒髪も、寝起きそのままといった風に乱れていて、しかも何本か白髪が混じっている。


 だらしない印象。

 私が抱いている社長のイメージからは、かなりかけ離れていた。

 隠し切れないほどの動揺が、私の胸の内で起こった。


「あれですか。ダイエットって奴ですか? ダメですよ社長。ただでさえスタイルいいんですから、それ以上絞ってどうするんですか。私の肉を移植してあげたいくらいですよ」


 空気が重苦しくなるのを避けようと、昔より一回り成長した脇腹を摘まみながら、咄嗟に慣れない冗談を口にしてみるが、


「はは……まぁ」


 ぎこちない笑みをこちらに向けて、社長はそれっきり黙ってしまった。

 高宮さんと森咲さんは、どこか辛そうに眉根に皺を寄せている。

 おかしな流れを断ち切ろうと、私は早々と口を切った。


「あ、えーっと……今日は課長が急用で外出してしまったので、私が指示することになりました。よろしくお願いします」


「なるほど。承知しました」と、社長に代わって高宮さんが答えた。「車はいつものところに停めていいですかね?」


「ええ、お願いします」


「はい。それじゃ社長、行きますよ」


 高宮さんはそう言うと、優しく社長の手を取って玄関を出ていった。

 ガラス張りのドア越しに、萎んでしまった社長の後ろ姿を眺めていると、なんだか介護されている老人を彷彿とさせる。

 いや、彼はまだ三十ちょっとで、決して老人ではないのだが、それぐらい憔悴しきってしまっていた。

 一体全体、どうしてしまったのだろう。


「あの、すいません」


 社長たちの後に続いて玄関を出ようとしていた森咲さんを呼び止め、周りに聞こえない程度の小声で問うた。


「社長、顔色がすごく悪そうでしたけど……もしかして体調が優れないんですか?」


「いや、まぁ、色々とあるんですよ。色々と」


 森咲さんは黒縁眼鏡越しに目を細めると、困ったように苦笑いを浮かべるだけだった。

 察してくれと、雰囲気で告げられたような気がした。

 だから私も、それ以上突っ込んだ質問をするのを止めにした。

 大変、気にはなるのだが。


 昼前から始まった仮組作業は、高宮さんが率先して動いてくれたことで、思いのほか順調に進んでいった。

 社長は……はっきり言うと、まるで使い物にならなかった。

 こちらが指示を出しても、地に足がついていないのだろう。

 常にうわの空で、内容が全く頭の中に入っていないのが表情から分かる。

 いつも世話になっている恩義はあるが、このまま現場に居座られても、作業の邪魔にしかならない。

 だからと言って、無碍に現場から追い出すこともできない。

 仕方なく、無視するような形になってしまう。

 高宮さんや森咲さんも、同じ調子だったのが意外だった。


 指示を出しながら、脳裡の片隅を徐々に浸食していく。

 社長の、幽鬼めいた表情が。

 最初は体調不良かと思っていたが、組み上がる装置をぼーっと見つめる精気のない顔を横目で伺っているうちに、不意に違和感を覚えた。


 違う……体調不良なんかじゃない。

 精神が精彩を欠いている。

 端的に言えば、病んでしまっている。

 社長は心の病気に罹ってしまったのだろう。

 証拠はないが、彼の死人めいた振る舞いから、私はそんな確信を抱いた。


 仮組作業は午後の四時を回ったところで終了した。

 課長に報告するためにデジカメで装置の写真を撮り、それが終わると、私は高宮さんと森咲さんに解体の指示を出した。


「藤田さん」


 部品に不足が無かったか、部品表と睨めっこしている時だった。

 背後から声を掛けられた。

 振り返ると、佐藤さんの憔悴しきった表情が飛び込んできた。


「どうしました?」


「今日の夜、予定あります?」


「いえ……真っ直ぐ家に帰るだけですけど」


「でしたら、どうですか」


 そう言うと、社長は右手の親指と人差し指で輪っかをつくり、ひび割れた口元に持っていく仕草をした。

 頑張って笑みを浮かべているが、青白い顔と混じって、不気味という他ない。

 予想外の申し出に少々の困惑を抱きながら、私は、解体作業に取り掛かっている高宮さんたちの方を見た。

 その仕草だけでこちらの考えを察知してくれたのか、社長が囁くように言った。


「高宮たちは先に返します。どうですか? 久しぶりにサシで」


「構いませんけど……」


 今の社長と飲んでも、絶対に楽しい雰囲気になることはない。

 それは分かっている。だが私には、社長の誘いを断ることが出来なかった。

 酒の付き合いは大事だし、何より社長の身に何があったのか、本人から聞き出せるチャンスかもしれない。そんな、下世話な好奇心が働いた結果でもあった。


 解体作業を終えた高宮さんと森咲さんが車で会社を出るのを見届けてから、事務棟に戻って課長への報告書を作成する。

 ファイルをメールで送信し終えた頃には、時計は夜の七時を指していた。

 パソコンの電源を落とし、荷物を整えて部屋を出る。

 変に期待する気持ちを落ち着かせながら、私は社長が待っている居酒屋へと向かった。









 仕事帰りのサラリーマンや大学生サークルの集まりで、そのチェーン店の居酒屋は大いに盛り上がっていた。

 個室に通された私の耳にも、隣の部屋の喧騒が壁越しに嫌というくらいに響いてくる。


 それとは対照的に、私と村神社長のいる空間だけが、水を打ったように静かだった。

 それも当然だ。合流してから三十分ほど経過しているが、社長はずっとビールをちびちびと飲んでいるだけで、一言も喋ろうとしない。

 時折、思い出したように私の顔を見つめては、また視線を杯に落として、何かを堪えるような表情で黄金の液体を飲み干していく。


「(何なんだよこの状況……)」


 これでは一体、どうやって口火を切ってよいか分からない。

 鉛のように重い沈黙を払うきっかけになればと、私もビールを一気に(あお)る。

 そうしているうちに、時間は刻々と過ぎていった。

 三杯ほど飲み干したところで、口元が寂しくなってきた。


「煙草、吸わせていただきますね」


 気まずさから視線を避けて断りを入れると、私は胸ポケットから煙草を取り出し、ライターで火を点けた。

 ゆっくりと時間をかけて、紫煙を肺に取り込む。

 全身が奇妙な浮遊感に包まれた気分になり、くらり、と脳が揺れた感覚に陥る。


「藤田さん、私も一本いいですか?」


 それまで言葉らしい言葉を口にしていなかった社長が、不意にそんな事を呟いたので、私は少し嬉しくなると同時、ある種の奇妙さを覚えた。


「いいですけど……社長、また吸い始めたんですか? 奥さんに止められていたんじゃ?」


「……まぁ、こういう時ぐらい、いいじゃないですか」


「煙草の匂いって、吸わない人からしてみると、すごく気になるらしいですからね。家に帰ったらバレちゃいますよ?」


 敢えて、軽い口調を意識して茶化してみるが、


「バレません。もう二度と」


 社長は、どこか悲し気な目で言ってから、私が差し出した煙草を受け取った。

 口元にそれを運んだところで、私は社長の秘書よろしく、ライターの火を起こした。


「どうも」


 軽く会釈してから、社長は煙草をくゆらした。

 低い天井に向かって煙を吐き出す。

 その目に、僅かではあるがキラリと光るものが浮かんでいた。

 それを目にした途端、私の中で何かが切れた。我慢がきかなくなったのだ。


「社長、あの、何があったんですか?」


 灰皿に灰を落としながら、私は社長の目を見た。


「今日の社長、おかしいですよ。こんな言い方は失礼かもしれませんが、その痩せ方はあまりにも異常です。あの……何か、お悩み事があるんですか?」


「……」


「私で良ければ聞きますよ。こう見えても口は堅いんです。ホントですよ?」


「……藤田さん」


 社長は目頭を軽く抑えると、鼻を軽く啜った。


「私が今日、貴方を飲みに誘ったのは、そのことについてなんです。話を聞いて欲しくて。ただ……今思い返しても、本当に訳が分からなくて。もしかして、おかしいのは私の方なんじゃないか。そう考えると、どうにも話しづらくて」


「でも、こうして誘ってくれたという事は、お話を聞いて欲しかったからですよね?」


 まるで心理カウンセラーのような口調だと、自分でも思う。


「私、社長には本当にお世話になっていますし、良ければ相談に乗りますよ。大丈夫です。誰にも言いませんから」


 剥き身の本心だった。

 社長は頷き一つ。煙草をまたくゆらせると、意を決したように少し前のめりになった。


「慰めてもらおうとは考えていません。ただ、私の話を聞いて、藤田さん、あなたのご意見を是非聞かせていただきたい。高宮たちは、私にしてみればある意味で身内ですから、こんなことは絶対に話せない。貴方だけなんです。貴方にしか話せないんです」


 切羽詰まった物言いだった。

 心なしか、社長の顔から憔悴の色が消え、血色が良くなっているように見えた。

 酒の効能によるものだ。

 そう言い切ることもできただろう。

 だが私には、どうもそれだけには思えなかった。

 何かに取り憑かれている……とは、ずいぶんと大袈裟な表現だが、しかし妙な活気が今の社長にはあった。


「分かりました。それで、一体何があったんですか?」


 社長は一呼吸置いてから、煙草を灰皿の上で潰し、両手をテーブルの上で組んでから、記憶をなぞるような目つきで、それを口にした。


「妻が、いなくなったんです」

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