06:迷子の少女
う"ぇぇ……とおおよそ年頃の少女とは思えない声で泣きながら歩く少女を見て、お嬢様が慌てて駆け寄る。
なんて優しいのだろうか。それでようやく少女は気付いたのか、顔を上げて俺達に視線を向けてきた。涙どころか擦り傷に泥汚れで顔はぐちゃぐちゃ、目も当てられない。
そんな少女の顔を、白いハンカチで優しく拭ってあげるお嬢様はまさに天使だ。俺の中にいる天使とは別の、ちゃんとした天使。
「あ、あなた、たち……森のっ……」
お嬢様から借りたハンカチを握りしめ、泣きながら少女が俺とお嬢様に交互に視線をやる。
そんな彼女をひとまず落ち着かせ、周囲に外敵がいないことを確認して腰を下ろした。
ようやく一息つけたと言いたげに少女が深く息を吐く。だが目元はいまだ赤く呼吸は小刻みに震えており、満身創痍な見た目と合わさって随分と痛々しい。どれだけ苦難を強いられていたかが一目で分かる。
悲痛なその姿に、たまらなくなったのかお嬢様がそっと彼女の手を握った。
「森の中で……会いました、よね……?」
「えぇ、私は詩音。諾ノ森詩音と申します。貴女は?」
「わ、私、西部杏里……です」
震える声ながら西部さんが名乗れば、お嬢様が彼女の手を握りながら「杏里ちゃん」と呼んだ。
可愛く、暖かなお嬢様の声。そんな声に名前を呼ばれたからか、西部さんの表情がほんの少し和らぎを見せた。「詩音ちゃん」と返す彼女の声は、いまだ掠れているが微かに落ち着きを感じさせる。
突如非日常に放り込まれ、こんなダンジョンという奇怪な場所で彷徨い続けていた彼女にとって、同じ日本人、それも同年代のお嬢様に名前を呼ばれるのは安堵に繋がるのだろう。
次いで西部さんは伺うように俺に視線を向けてきた。
「えっと……森の中で会った……森の中の下半身のお兄さん」
「通報待った無しな呼び方はやめてください。雪州そまり、そまりで良いです」
「あ、そうだ、そまりさん! すみませんっ……!」
西部さんが慌てて頭を下げ、名前を忘れてしまったことを詫びてくる。
俺としては名前を忘れられたことより『森の中の下半身のお兄さん』呼びの方が問題な気もするが、この際なので流しておこう。今は話を進めるべきだ。
それに、事実『森の中の下半身のお兄さん』だったし。いや、正確に言うのなら『森の中で己の下半身の欲望を語ったお兄さん』であり、そして今は『ダンジョンの中で己の下半身の欲望に負けかけていたお兄さん』である。
どのみち通報は免れそうにない。
「そんな俺の下半身はさておき。西部さんが見つかって良かったです。ひとまずこれで第一の目的はクリアですね」
「目的? 詩音ちゃんとそまりさんは、どうしてここに?」
「ギルドの依頼です」
「ギルド……。でも、私ギルドへはもう仕事を出してません。お金が無くなって、引き受けて貰えなくて……」
西部さんが俯きつつ呟くように話す。
曰く、彼女も最初はギルドに依頼をしていたという。行動を共にしていた学友達と身の回りの物を売り、なんとか金を集め……。だが次第に売るものが尽き、最後にはギルドへの仲介料も払えなくなり、依頼を取り下げざるを得なくなったという。
ギルドはボランティアではない、人を雇うには金が必要で、その依頼もいつまでも出しておけるものではない。
日々新しい依頼が入るのだから入れ替えは必要。誰も受けるものが居なくなれば紹介も後回しにされ、残しておくにも定期的に仲介料を払わねばならない。
見れば、西部さんが着ているシャツとスカートこそ小津戸高校の制服だが、以前に見たときの上着やリボンは無い。
靴も売り払ったのだろう、学生らしいローファーから随分と見劣りするものに変わっている。会話こそ出来るが文字も貨幣の価値も分からぬこの世界で、きっと必死に工面したのだろう。
……そして、もしかしたら何度かカモにされたかもしれない。だがさすがにそれは黙っておく。
「でもそのお金も尽きて……。でも詩音ちゃん達はギルドの依頼で来てくれたんですよね?」
「西部さんが依頼を出していたギルドとは別のギルドですね」
「別の……? 他にもギルドがあるんですか?」
「えぇ、あちこちにあるみたいです。西部さんの依頼はここいらのギルドをたらい回しにされ、そして……」
「そして?」
「23才の外見詐欺なオッサンモドキが管理する、二日に一度老婆が野菜を買いにくるギルドに拾われたんです」
「……八百屋?」
「ギルドです。近々豪華なシフォンケーキが振る舞われる予定ですが、ギルドです」
どうやら西部さんが行ったギルドでは、老婆が野菜を買いにきたり、シフォンケーキが振る舞われたりはしないらしい。俺の話にきょとんと目を丸くさせている。
お嬢様がそんな彼女の手をぎゅっぎゅと何度も握り、嬉しそうに例のシフォンケーキの凄さを語り出した。
いかに美味しそうか、いかに稀少か。そうして最後に「楽しみね」と同意を求めるのは、一緒に食べようという意味だ。
彼女の探し人を見つけて、ここから出て……そして一緒にシフォンケーキを食べる。
それが伝わったのか、西部さんの表情がゆるみ、「うえぇ……」とまた泣き出した。
そうしてしばらく泣き続ける西部さんを宥め、再びダンジョン内を歩き出す。
彼女の話を詳しく聞きたいところだが、寝床の確保が先だろう。ダンジョンの中では日差しも差し込まず昼も夜も無いが、お嬢様を歩き続けさせるわけにはいかない。
ダンジョンにおいても、シンデレラタイムは絶対である。
「というわけで、俺はお嬢様に快適な就寝を提供せねばならないんです。西部さんの話は寝床を見つけた後で聞かせてください」
「はい」
「お嬢様も、もしお疲れでしたら俺が抱っこなりおんぶなりしますから」
「私まだ元気よ!」
お嬢様が意気込んで答える。
どうやら西部さんを見つけたことでやる気が漲っているらしい。最高に可愛い。尊い。
そんなお嬢様が「そうだ!」と足を止め、リュックサックから水筒を取り出した。どうやら喉が渇いたようだ……と思いきや、注いだコップを西部さんに手渡した。なんて優しい!
――お嬢様の優しさに感動しつつ、コップの中をチラと覗き込む。よかった、ちゃんと紅茶だ……水色でもないし光ってもいない――
「そまりが淹れた特製の紅茶なの、きっと元気が出るわ!」
「あ、ありがとう……! ずっとお水ばっかだったから、紅茶なんて久しぶり……」
西部さんが堪能するようにゆっくりと紅茶を飲み干す。
そうして最後の一言を飲み干すと、ほぅと吐息を漏らすと共に目尻を拭った。紅茶以上のものが彼女を満たしたようだ。さすがお嬢様、なんて尊い心遣い。
次いでお嬢様は再び紅茶を注ぎ、自ら飲みだした。
そんなお嬢様を横目に、俺は上着から懐中時計を取り出そうとし……指先が内ポケットの中で空を掻いた。
そうだ、懐中時計は無いんだ。そういえば今は何時だろうか。水分補給の時間は……。
「西部さん、時計持ってますか?」
「時計? ごめんなさい、腕時計は売っちゃって……。詩音ちゃんは時計持ってる?」
「私も持ってないの。そまり、紅茶半分あげる」
はい、とお嬢様がコップを差し出してきた。
見ればコップの半分程で紅茶が揺らいでいる。
「そまり、喉が渇いてなくても紅茶飲みましょう」
「……そうですね」
「今ならもれなく私と間接キスよ」
「いただきます!」
お嬢様の手からコップを受け取り、ぐいっと一気に煽る。
喉を紅茶が伝っていく。一気に飲み干してコップを返せば、お嬢様が満足そうに頷いて水筒をリュックサックに戻した。
「杏里ちゃん、飲みたくなったらいつでも私に言ってね! 私が紅茶リーダーよ!」
「うん、頼りにしてるね」
見せつけるようにリュックサックを揺らしてアピールしてくるお嬢様に、西部さんが苦笑を漏らして頷く。
俺もまた、お嬢様の「そまりも、飲みたくなったら言ってね」という言葉に微笑んで返した。なんて頼りがいのある紅茶リーダーだろうか。……とりあえず紅茶を振る舞ってくれるようで安心した、なんてそんなことはない。――いつあの水色に光る液体が出てくるか……――
そうして再びダンジョンの中を歩く。
お嬢様はしっかりと西部さんの手を繋ぎ「私が守るの!」と言いたげだ。なんて勇ましい。西部さんも、怯えの色は残っているものの時にはお嬢様と話して笑い合っている。
このまま順調に進めば、案外に早く西部さんの探し人を見つけてギルドへ戻れるかもしれない……と、そう考えていた矢先、突如獣の咆哮が響きわたった。




