06:夜の訪問者
木から逆さ吊りになるベイガルさんの眼光は凄まじく、見るからに怒っているのが分かる。
吊り下げられていなかったら次の瞬間には殴りかかってきそうなほどだ。……いや、そもそも吊り下げられているからこそ怒っているんだけど。
「まずいですねぇ、お嬢様。ベイガルさんかなり怒ってますよ」
「そうね。でも、もしかしたら周りが暗いから怒っているように見えるのかもしれないわ。聞いてみましょう」
「そうですね。こんばんはベイガルさん、暗いから怒っているように見えるんですが、怒ってますか?」
もしかしたら、の可能性に賭けてベイガルさんを見上げて尋ねてみる。
返ってきたのは鋭さを増した眼光と、
「怒ってる」
という唸るような声だった。
「あちゃー」と俺とお嬢様が顔を見合わせる。
やっぱりというか案の定というか、ベイガルさんは怒っていた。
どうしたものか……と俺とお嬢様が考えを巡らせる。
「もしかしたら、このまま一晩過ごしたら怒りが収まっているかもしれないわ」
「なるほど、一晩置いたカレーみたいなもんですね。聞いてみましょう。ベイガルさん、このまま一晩過ごしたら怒りは収まりますか?」
再びベイガルさんを見上げて尋ねてみる。
返ってきたのはより凄みを増した眼光と、
「すげぇ怒る」
というものだった。
再び俺とお嬢様が顔を見合わせる。――「あちゃー」の時にお嬢様がキュッと目を瞑るのだが、その愛らしさたるや――
だがこのままで居られるわけにもいかず、しかないと肩を竦めた。
「仕方ありません、下ろしましょう。凄く怒られるより、今のデフォルト状態で怒られる方が良いですもんね。俺が怒られている間、お嬢様は食後のお茶を楽しんでいてください」
「ふざけるな、お嬢さんも同罪に決まってんだろ」
「それはつまり俺のお嬢様を怒るというですか? お嬢様を? 俺の、お嬢様を? 冗談ではなく? 怒ると? 俺の、お嬢様、を?」
「その笑顔を止めろ、夜に見ると尚の事怖い。怒るのはそまりだけだ」
「それなら甘んじて受け入れましょう」
俺だけ怒られるのならば問題は無い。ベイガルさんが理解の早い人で良かった。
そう安堵しつつロープが括られている木へと向かい、
「ということで、挨拶はベイガルさんを下ろしてひとしきり怒られてからで良いですか?」
と、木陰に立っていた少年に声を掛けた。
出てくるタイミングをうかがっていたのか、ベイガルさんを心配してそれどころではなかったのか、もしくは会話に呆れて口を挟めずに居たのか。立ち尽くしていた少年が俺の言葉に瞳を丸くさせている。
少し茶色掛かった黒髪、濃い黒色の瞳、どこかあどけなさを感じさせる。年の頃ならばお嬢様より一つ二つ上と言ったところか。
「あれ、気付いてたんですか」
「むしろ隠れてたんですか? あんなところに突っ立って、気付かない人がいるわけないじゃないですか。ねぇお嬢様?」
「…………き、気付いてたのよ! 私だって気付いてたのよ!」
「なるほど、心が純粋で汚れなく、輝く星に引けを取らぬ美しさの人には見えない能力……」
そんな能力があるなんて……! と俺が慄いていると、お嬢様が「本当よ!ちゃんと気付いてたもん!」と必死に俺の腕を引っ張ってきた。
良いんですよ、気付いて居なくたって。お嬢様の瞳に映って良いのは小さくて可愛いふわふわの動物と俺だけですから。むしろ知らん男なんぞ映らなくて好都合。
……という具合に俺の思考がお嬢様で染まった瞬間、ドザァッと豪快な音をたててベイガルさんが落っこちてきた。
しまった、お嬢様のことを考えるのに夢中で一声かけずに縄を解いてしまった。
見るも無残なほどに顔面着地している……。これは火に油を注いだに違いない。というか、火を油田に放ったレベルかもしれない。
「さぁお嬢様、早く家に入りましょう。夜に知らない男とみだりに話をしては危ないですからね」
「……しれっと逃げようとしてんじゃねぇよ」
「おや無事でしたか。だってベイガルさん凄く怒ってそうですし」
「怒るに決まってるだろ。……でも」
ゆっくりとベイガルさんが立ち上がる。
不意打ちで落下したとはいえ受け身は取っていたのか、あちこち擦り傷だからけだがどこか痛めている様子はない。さすがはギルド長だ。
そうしてベイガルさんは立ち上がると、「大丈夫?」と案じてくる少年をチラと横目で一瞥した。俺達に彼を見ろ、と言いたいのだろう。
「怒りたいのは山々だが、今はまずこいつの話を聞け。それで仕事を受けるなら、今日のことは水に流してやる」
ベイガルさんがそう告げれば、背後に立っていた少年が苦笑いしつつもよろしくと頭を下げてきた。
少年の名前はマイクス・キルリック。
大陸中を旅し、その途中途中で得た情報を売りながら生活しているらしい。情報屋、とでも言うべきか。かなり重宝される仕事だという。
インターネットやメールの無いこの世界において、彼のような存在は欠かせないのだろう。
「といっても、僕はそんなに稼いでるわけでもないし、気ままに大陸中を歩き回っているだけです。そのついでに情報を回して日銭を稼いでる程度ですよ」
「お若いのに自分で旅費を稼いで旅をするなんて立派ですよ」
「いえ、そんな……」
謙遜するマイクス君はまさに好青年だ。
立派だと褒めれば照れ臭いのか頬を掻く仕草、俺がお茶の準備をすると慌ててお構いなくと遠慮してくる。純朴で礼儀正しい少年。
……この、聞いてもいないのに当然のように「この間の黒いやつ」と漠然としたリクエストをしてくるオッサンモドキとは大違いだ。墨汁でも飲ましてやろうか。
ちなみに、このリクエストはコーヒーの事である。
元々この世界にはコーヒーは無く、たまたま俺がコーヒー豆に似たものを見つけ、ものは試しにと改良を繰り返した結果近しいものが出来上がったのだ。こっちの世界版コーヒーとでも言うべきか。
全てはお嬢様がコーヒー牛乳を飲むためなのは言うまでもない。
「俺としてはジャコウネコが居れば完成なんですが……。まぁそれはともかく、お嬢様はコーヒー牛乳にしますか? それとも寝る前だからホットミルクに……」
ホットミルクにするか尋ねようとした俺の言葉が止まる。
お嬢様が既にカップに口をつけてコクコクと飲んでいるのだ。細く白い喉が小さく動く。なんて愛らしい……のだけど、さすがにそろそろ気にするべきか。
お嬢様のカップの中では水色の淡く輝く液体が揺らいでいる。コーヒーでも無ければ紅茶でもない色合い。
いや、でも今はまず……とマイクス君に視線をやれば、注いだばかりのコーヒーに砂糖を入れていた彼がはたと気付いて表情を改めた。
話を求められていると察したのだろう、謙虚なうえに察しが良いらしい。
……この、礼も言わず当然のようにコーヒーを飲み「ウィンナーコーヒー? ウィンナー入れるのか?」とお嬢様に尋ねてるオッサンモドキより何倍も話が早い。
あぁ、ちゃんと教えてあげるお嬢様のなんとお優しい……ソーセージは邪流!? お嬢様!?
「それでそまりさん、僕が来た理由なんですが……」
「そ、そうですね、話を……あぁ違う、シャウエッセンは関係ない、シャウエッセンは……!」
「そまりさん?」
「おっと失礼しました。それで、マイクス君が来た理由ですね」
わざわざこんな時間に来たのだ、それなりに急を要する話なのだろう。
いったいどんな話で、どんな仕事をさせようというのか……。
僅かに警戒しつつ俺がマイクス君を見れば、ミルクを多めに入れたコーヒーを一口飲んだ後にゆっくりと話し出した。
この際、「シャウ? シャウ?」とシャウシャウ煩いベイガルさんは無視である。お嬢様は……俺にコーヒーを淹れてくださっている! なんて優しい天使! 夕飯のウィンナーが浮いているのなんて気にしない!




