02:森の中
誰かの声が聞こえる。
以前に聞いたことのある声だ。それが何か話している。
だがその声は次第に薄れ、変わりに聞こえてくるのは……。
「そまり、そまり! 起きて!」
必死に俺を呼ぶ、お嬢様の声。
それと共にペチペチと頬を叩かれる。だが痛みなどは一切なく、子猫がじゃれているような感覚に近い。お嬢様の手が触れているのだと考えれば甘いくすぐったさだ。もう少し堪能していたい。
だがお嬢様は俺が起きないことに痺れを切らしたのか、名前を呼び続けたまま肩を揺すり、鼻をムギュと摘まんできた。
なんて可愛い起こし方だろうか。その可愛さに絆されるように俺の意識もゆっくりと戻り……。
「お嬢様、ご無事ですか!」
と、起き上がると共に彼女の肩を掴んだ。
意識が戻ると共に一瞬にして先程までのことを思い出したのだ。
だが突然起き上がった俺にお嬢様は驚いてしまったようで、元より大きな瞳をぱちくりと瞬かせている。そうして数度瞬きをした後、己の無事を知らせるためにコクリと頷いた。
その表情には負傷を隠すような色は無く、見たところ怪我は無さそうだ。だが地面に座り込んでいるため足元が汚れてしまっている。スカートにも靴下にも土がついて……。
……土?
「お嬢様、ここは?」
慌てて周囲を見回し、その異質さに怪訝な声を上げてしまう。
だがそれも仕方ないだろう。なにせ見回した周囲は……森なのだ。
木々が生い茂る森の中、ほんの少し程度に開けた場所に俺とお嬢様がいる。これが休日の、それこそお嬢様と二人きりのピクニックであれば木々も心地好さを感じさせただろう。
だが今は木々の心地好さに浸っている場合ではない。なにせ俺の記憶は車内で途切れており、そこから移動した覚えは無いのだ。そもそも、帰路はおろか近隣にここまでの森は無かった。
「お嬢様、ここがどこか分かりますか?」
「それが私にも……。車の中で気を失って、気が付いたらここでそまりに抱きしめられていたの」
その後、俺を呼び起こして今に至るのだという。
だが見渡す限りリムジンは無く、車のシートすらない。となるとあの瞬間、俺達だけがここに来たということだろうか。
果たしてそれが落下なのか魔法のように一瞬にして移動してきたのかは定かではないが、そもそもが信じられない状況なのだから移動方法については深くは考えるまい。
なんにせよ、咄嗟にお嬢様を抱きしめておいてよかったと安堵する。……が、それと同時に疑問と不安が一つ。
「……お嬢様、本当にどこも痛めていませんか?」
「えぇ、そまりが庇ってくれたおかげで大丈夫よ」
「本当に、ほんっとうっに! どこも痛くなく、大事にしていたものを失ってしまったような喪失感もなく、違和感とかも無いですね!?」
「……そまり?」
どうしたの? とお嬢様が首を傾げつつ俺の顔を覗き込んでくる。
無垢な瞳。瞬きのたびに長い睫毛が揺れる。そんな瞳に見つめられ、俺は居た堪れなくなり顔を背けた。
あの瞬間、車内でお嬢様をお守りするために抱き締めた。何があっても、どんな衝撃がこようとも、けして離すまいと強く抱きしめた。そして直後眩い光に包まれ、意識を失ったのだ。
だが、本当に失ったのは意識だけだったのか? ……たとえば、
「あの瞬間、意識と共に理性まで失っていたとしたら、確実に、間違いなく、俺はお嬢様に手を出している……!」
「そまり……」
「お嬢様、本当にお体に問題はありませんね!? 痛みも違和感も、喪失感も、何もありませんね!?」
念を押すように確認すれば、お嬢様が再びコクコクと頷いてきた。
どうやら本当に体に問題は無く、つまり俺はお嬢様に手を出すことなく大人しくここで気を失っていたのだろう。
良かった……と再び安堵してしまう。
大袈裟と言うなかれ。
なにせ俺は俺の欲望が世界で一番信用が出来ない。
いつだって理性と欲望の鬩ぎ合いで、旦那様の了承が得られればその瞬間にお嬢様を担いでホテルに走っているだろう。
もちろん安いホテルではなく、リゾート地の最高クラスのホテルの最上階である。部屋に薔薇を敷き詰めるのも忘れない。――お嬢様の了承は得なくて良いのかって? 今まさに「そまりが相手なら喪失感なんて抱かないわ」と頬を赤らめているので今更な話である――
「二重の意味でお嬢様が無事で良かったです。さて次はこの場所なんですが……学校と諾ノ森家の間にこんな森はありませんよね、となると市外。いや、下手すると県外……」
「見てそまり、見たことのないお花が咲いてるわ」
「それに車はどこにいったのか……。あの歪みが発端だとすると、並走していたバスでも何か起こってるはずだよな……」
「そまり、何か聞こえる」
考えを巡らせる俺に対して、お嬢様はきょろきょろと周囲を見回している。
そのうえ何か音がすると立ち上がって向かおうとするのだから、俺は考えをいったん中止し慌ててその腕を掴んだ。
「お嬢様、ここがどこか分からない以上、迂闊に動きまわるのは危険です。凶暴な獣がいる可能性もあります」
「獣……怖いわ」
「俺から離れないでくださいね」
「分かった、そまりにくっついてる」
離れようとしていたお嬢様が再び俺の元へと戻ってくる。
それどころか、まるで離れないと意思表示のように抱きついてきた。むにゅとお嬢様の柔らかな体が俺に当たる。ふわりと甘い香りが漂う。背の高い俺と小柄なお嬢様では元々の体格差があり、しがみつけばお嬢様は俺の腕にすっぽりと収まってしまう。
「お嬢様、俺から離れてはいけませんがあまりに近すぎます。これはこれで俺が凶暴な獣になってしまいますよ」
「もう、そまりってば……。男はみんな狼なのね」
お嬢様がそっと俺から離れる。――その際の顔は満更でもなさそうで、「怖いわ」と呟く声は分かりやすいほどに甘い――
そんなお嬢様を傍らに、俺は改めて周囲の様子を窺った。
確かにお嬢様の言う通り、見たことのない花が咲いている。いついかなる時もお嬢様に最適な花を捧げられるようにと、国内はおろか国外の花まで網羅し、網羅し過ぎるあまり二種類ほど品種改良に成功した俺でも分からない花だ。
「そまり、それにさっきから何か聞こえるの」
「これは動物……いや、人の話し声ですね。それもこっちに近付いてくる。お嬢様、危ないので俺から離れないでください。それでいて俺の欲望が獣化しない距離を保ってください」
「絶妙な間合いが必要なのね」
「人目が無いとなるとどうしても、俺の中の天使と悪魔とニャルラトホテプが揃ってGOサインを出すんです」
そう話しつつもお嬢様を庇うため後へと促せば、察した彼女がゆっくりと俺の背後へと回った。
それとほぼ同時に、ガサガサと草が揺れる音が聞こえてきた。その音が次第に大きくなり、草の動きも視覚で捉えられる距離まで近付いてくる。
話し声は……日本語だ。声質は若い男。それが少なくとも三人。喋り方に訛りは無く流暢、それも若者らしい言葉遣いも聞こえる。日本人、もしくは長く日本に滞在している者と見て間違いないだろう。
多少声を潜めてはいるものの、草の揺れは気にせず足音を隠そうとしていないあたり、こちらに気付いていないのか危機感が薄いのか。
「そまり……」
「お嬢様、何があっても俺の後ろに居てください。……しかし、手持ちがこれのみってのは心許ないな」
腰元から取り出したのは、護衛用の警棒……ではなく、ペンライト。けして武器とは言えない代物だ。
お嬢様をお守りするため銃器を常備したいと常々訴えていたが、日本の法律を盾に却下され続けて今に至る。こんな事態になるのなら、サブマシンガンの一つや二つこっそり日本に持ち込んで隠し持っていればよかった。
そう己の迂闊さを悔やみつつ、ペンライトを構える。
幸いなのはこのペンライトが異様に太く頑丈で、大人一人ぐらいなら殴り殺せそうなことか。あと七色に光る。
とにかく、そんなペンライトを握りつつ、揺れる草場を睨み付けることしばらく。
「おい、誰かいるぞ!」
「学校のやつか?」
「いや違う、大人と……それに女の子だ! うちの学校の制服じゃない」
ざわつきながら出てくる男子学生の姿に、ひとまず出会い頭に危害を加えてくる気は無さそうだと安堵した。
……が、お嬢様を見つけた彼等の内の一人が「お、可愛い」と下心を感じさせる声色で呟いたのを聞いた瞬間、俺は戻しかけていたペンライトを再び握り直した。
お嬢様を見て下心を抱く、それだけで大罪である。