02:これもまたドレスコード
普段、俺はどんな時でも諾ノ森家の執事らしい格好をしている。それはこちらの世界だろうと向こうの世界だろうと、どこだろうと変わらない。
だが今日の俺の服装は灰色のポロシャツに黒一色のズボン。
当たり障りのない組み合わせで、この雑多の中にも似たような服装の男は数え切れないほどいるだろう。
それが逆に貴重に感じたのか「レアですね」という二人の表現はなんとも若者らしい。
「実を言うと、今日も普段通りの服装で来ようと思っていたんです。俺は諾ノ森家の、そしてお嬢様の執事ですからね。たとえ『夏コミ』であろうとそれは揺るぎません」
「でもそれならどうしてその服にしたんですか?」
「同僚達の中にもここに来てる者達がいるんです。出かけに彼等に問われてこの服装で行くと答えたら、着替えるように命じられたんです」
彼等の勢いは凄かった。だがもちろん俺も反論はした。
俺が仕えるのは諾ノ森家、その一人娘である詩音お嬢様。いくら同僚達の命令と言えども、執事の象徴の一つである服装を変える気はない。
……そう訴えたのだが。
「『お前を心配してるんじゃない、俺達の大事なイベントを心配してるんだ! どこで熱中症になろうと野垂れ死のうと勝手だが、今日はやめろ! 俺達の大事な祭りで! 勝手に! 死ぬな!』……と鬼気迫る勢いで身包み剥がされました」
「……き、きっと皆さん本音ではそまりさんの事を心配してくれてたんですよ」
「そうですかねぇ。まぁ、この服も用意してもらったし、実際に今助かっているわけですし、そう言う事にしておきましょう」
無理やり服を剥ぎ取られた記憶もあるが、あのまま普段通りの執事服で来ていたら今頃どうなっていたか……。少なくとも、今こうやって上津君達と話している余裕は無かっただろう。
それを考えれば感謝すべきだ。そう考える事にして、再び首筋を伝う汗を拭った。
「会場まではあと一時間ですね」
「一時間……。頑張りましょう、そまりさん。柴埼、生きて帰ろうな!」
「大袈裟な、とは言えない暑さですね。そうだ、二人にこれを渡しておきます」
鞄から二つ機械を取り出して彼等の前に置く。
一見すると普通の携帯電話に見えそうだが、よく見ると分厚く、手にすると仰々しい装置だと分かる。上津君と柴埼君が手に取り「これは?」と揃えたように尋ねてきた。
「諾ノ森家の警備で使ってるトランシーバーです。これだけ混雑してると普通の携帯じゃ電波が悪くなりそうですが、このトランシーバーなら難なく繋がるでしょう」
「トランシーバー? すげぇ、こんな本格的なの初めて見た」
「これを渡すのは君達の為じゃありません。……俺の為です」
良いですか、と前置きをすれば、俺の真剣な声色に当てられたのか二人が揃えて背筋を正した。
「以前にお話ししたように、俺は自分のためには何も出来ません。最近は多少行動できるようになりましたが、それでもまだ人並み以下です」
「……そうですね」
「俺の同僚は俺のこの不便さを『残機無限にあるのにBボタンが壊れた』とよく言っていました」
「あぁ、なんとなくわかりますね……。いえ、なんでもありません続けてください」
「それで、です。お嬢様から水分補給を小まめに取るように言われていますが、正直なところ、俺は水分補給のタイミングが分かりません」
堂々と告げれば、上津君と柴咲君がじっと俺を見てきた。
俺は相変わらず自分のための行動が出来ずにいる。
最近は多少改善されてはいるものの、生活の殆どはお嬢様のため。お嬢様の指示のもと。
普段はそれで良いと思っていたし、改善するにしてもゆっくりで良いと考えていた。
「……ですが、さすがにこの灼熱地獄では話は別。良いですか、ここで水分補給を怠れば本気で死が見えています。つまり!」
「つ、つまり……!」
「俺の水分補給は君達に掛かってます! 離れて行動していても自分達が水を飲むときには俺に一声かけてください! じゃないと確実に俺は水分補給を怠って死に至ります!!」
「わ、分かりました! そまりさん、水を!水を飲みましょう!」
俺の訴えを聞き、上津君が慌てて俺に水分補給を促してくる。
柴埼君は鞄から塩飴を取り出し、俺の鞄に詰め込んできた。どうやら水分補給に加えて塩分補給の管理もしてくれるらしい。これは助かる。
二人に促されて水を飲み塩飴を一つ口に放り込み、ふぅと一息吐いた。
「そろそろ眩暈が起こりそうだったので良いタイミングでした」
「眩暈が起こりそうならちゃんと言ってください!」
「言うべきか言わざるべきかも俺には分からないんです。よく同僚に『殺しても死ななさそうだけど、放っておいたら部屋の隅で静かに死んでそう』と言われましたね」
「……柴埼、お互い連絡を取り合ってそまりさんを守ろうな」
上津君と柴埼君が顔を見合わせて頷き合う。
それに対して俺は、まだ年若い二人に頼るのも癪だと考え……、空を見上げ、まるで一帯を焼き尽くさんばかりに輝く太陽に目を細めた。
「頼みます」
己の命運を託す。
これはさすがに癪だの何だのと言っている場合ではない。
その後も雑談しつつ過ごし、開始時刻になるとあちこちで拍手があがり緩やかに列が動き出した。
会場に入れば少しはマシに……と抱いていた俺達の希望は見事に砕かれてしまう。
灼熱の太陽光に焼かれ続ける待機時間を経て建物内に入れば、今度は会場内を埋め尽くさんばかりの人込み。いや、もはや人込みでどころではない。みっちりと詰まっている。
ぶつかるほどの距離もなく、ぬるりと腕を触れさせてその滑りで擦れ違っていくようなもの。ぎゅうぎゅうと音が聞こえてきそうだ。
「昔、お嬢様ととある公園に遊びに行った際に鯉に餌をあげたんです。何十匹の鯉が小さな餌を奪い合ってギュウギュウに詰まってうねって……。あぁ、懐かしい。慄くお嬢様の愛らしさまで鮮明に思い出しました」
「奇遇ですね、俺も似た光景を思い出しました……。というか、こんな人込みの中で買物なんかできるのか……?」
「出来るというより、するしかないって感じですね。それじゃ、お互い健闘を祈って」
別れ際に一礼……はさすがに出来ず、一声掛けて上津君と柴埼君と分かれた。というか気付けば距離が開かれていき、あっという間に二人の姿が見えなくなった。
別れた、というよりは、別の海流に乗っていった、というべきか。
「さて、凄く億劫だけどさっさと買物を済ませるか……」
手にしていた地図を開く。
これは事前に犬童さんから渡されたいたもので、そこに記された通りに買い物をする予定だ。――できればの話、と目の前のあまりの光景を眺めつつ思う――
買物が終えれば、お嬢様達がいるスペースとやらで合流。
「働くお嬢様の姿を見る、それだけが今日の俺の楽しみ……」
そう呻きつつ、地図と各所の看板を見比べながら歩く。
半歩程度の歩みでうぞうぞと人が移動する様は、さながらレミングの群れのようだろう。
否が応でも人とくっついてしまい、熱い人肌と滑る汗の感覚が気持ち悪い。
「あぁ、早くお嬢様に会いたい……」
この地獄に舞い降りた俺の天使。
その姿を想像してなんとか折れかける気持ちを奮い立たせれば、トランシーバーにさっそく水分補給の連絡が入った。
次話は18:00更新予定です。