16:俺と愛しいお嬢様
「……ついにこの日が来たか」
と、カレンダーを前にして呟く。
今の俺の声は真剣味を帯びており、ここに第三者が居ればいったい何事かと怪訝に窺うほどだろう。そこまで重要な日なのかとつられて深刻な表情を浮かべる者もいるかもしれない。
俺自身、自分が重苦しい空気を醸し出しているのは理解している。張り詰めた空気を纏っていると言っても過言ではない。
そんな俺が見つめるカレンダー、今日の日付が書かれた一枠は目立たせるためにこれでもかとマークが書き記され、縁取りも花や星で飾られている。――飾りすぎるあまり、上下左右の日付にスペースが無くなり一切予定が書き込めなくなったのはご愛敬――
だがそれほどまでに重要なのだ。
今日という、生きとし生けるものすべてが祝福する日。
そう……、
お嬢様の誕生日である。
世界に名だたる諾ノ森家の一人娘、その誕生日となれば大事である。国中からシェフを呼び、楽団を招き、さながら映画のワンシーンのような煌びやかなパーティーを開いたっておかしくない。
だがお嬢様は身近な友好関係を大事にしており、毎年開かれる『誕生日会』は年頃の少女らしい規模の催しだった。
親しくしている友人を呼び、お気に入りの料理を振る舞い、ケーキをみんなで分ける。時にはテレビゲームやボードゲームをしたり、晴れた日には屋敷の外で遊びまわることもあった。
お嬢様は高貴なプリンセスでありつつも、素朴な無邪気さも備えているのだ。
そんなお嬢様の、こちらの世界での初めての誕生日。
さすがに例年通りとはいかないが、それでも俺にはお嬢様が最高の誕生日を過ごせるよう全力でお仕えする義務がある。
……が、今の俺の胸中はそれどころではない。
いや、もちろんお嬢様には最高の一日を過ごして頂きたいと思っているが、それはそれとして、別のものが俺の考えを占めている。
「今日という日をむかえて、お嬢様はこちらの世界の成人となる。一人前の淑女、立派なレディ。よくぞ耐えきった俺の欲望……!」
「そまり、そまり」
「あぁ、世界が輝いて見える。なんて晴れやかなんだ。やばい、歌を歌いながら窓を開けて鳥に挨拶したい気分だ」
「そまり、朝ご飯にしましょ」
荒ぶる期待を押さえる俺に、お嬢様が横から名前を呼びつつ服を引っ張ってくる。
そのおかげでようやく俺も我に返り、お嬢様をぎゅっと抱きしめた。すっぽりと腕の中におさまってしまう小柄さがたまらない。俺の体に顔を埋めつつ「朝ご飯」と訴える食いしん坊ぶりもまた愛おしく、そんなお嬢様を今日……と考えると抱きしめる腕についつい力が入る。
だがついにお嬢様の空腹に限界が来たのか、俺の腕の中からスルリと抜け出してしまった。「もう!」と怒りつつ、それでも俺の隣にちょこんと立つ。
ムニっと口元が緩んでいるのは、俺からのお祝いの言葉を待っているのだ。なんて愛らしい。
「お嬢様、お誕生日おめでとうございます」
「ありがとう、そまり」
「……と、と、ところで。お嬢様は今日お誕生日を迎えることにより、この世界で一人前の淑女となったわけです。そ、それで、その点においては、い、いかほどにお考えでしょうか」
普段通りスマートに、おかしなところなど欠片もなくお嬢様に尋ねる。
声が上擦っている? そんなまさか。
あくまで冷静に普段通りに尋ねる俺の問いかけに、お嬢様はコテンと首をかしげて「考え?」と尋ね返してきた。俺を見上げてくる上目遣いの愛らしさといったらない。
「そ、そ、そうです。お考えを……。たとえば、その、具体的に言えば素敵な一夜のご予定がお有りかどうか……。いえ、べつに、特にこれといって何も考えておられないのでしたら、もちろんそれで構いません。今日という日はお嬢様の誕生日であり、お祝いをしてそれで終わりでも、お、俺はなんら一切構いませんので!」
「そうねぇ、とりあえず私は……」
「と、とりあえずお嬢様は……!?」
「朝ご飯が食べたいのよ!!」
もう限界よ! とお嬢様が己のお腹をおさえて訴える。
その言葉で、ようやく俺は朝食を待たせていたことを思い出した。慌てて謝罪の言葉を告げ、すぐに用意をするためにキッチンへと向かう。
だが俺が部屋を出ようとした瞬間、お嬢様が呼び止めてきた。どうしたのかと振り返れば、カレンダーの今日の日付を細い指先でちょんと突き……。
「前にお母様に聞いたことがあるの。私、夜明けと同時に生まれたんですって」
「夜明けに、ですか……。そ、それはつまり!」
「今夜の事は考えていないわ。……だって、もう十六歳だもの」
妖艶に笑い、お嬢様が俺の横をすり抜けてキッチンへと向かう。
ふわりと揺れる黒髪、クスクスと耳に残るいたずらっぽい笑みのなんて魅力的なことか。天使のようでいて小悪魔、それでいて食いしん坊。
そんなお嬢様は既に十六歳だという。
自らそれをアピールするということは、つまり……。
「夜まで待たなくてもいい……!」
思わず拳を強く握ってしまう。だがそれに気付き、慌てて「大人の余裕を見せなくては」と手を開いてパタパタと己を扇いだ。
冷静に、クールに、お嬢様をエスコートするのが年上の在り方だ。そう自分に言い聞かせ、逸る心を宥める。
ひとまず朝食だ。お嬢様に最高の朝食を提供せねば。
俺の中で天使と悪魔とニャルラトホテプが囃し立て……はせず、暖かな眼差しで拍手を贈ってくれている。ありがとう、俺の心の中の天使と悪魔とニャルラトホテプ!
「……おっと、またしても興奮してしまった。落ち着け俺、お嬢様のため今日という記念日を最高に演出しなくては」
気を抜けば一瞬にして昂ぶりかねない己を、深呼吸を繰り返してなんとか落ち着かせる。
そうしてお嬢様の後を追うのだが、その足取りが普段より軽やかになってしまうのは仕方ないだろう。スキップしないだけマシである。
手早く朝食を用意し、お嬢様と共にテーブルにつく。
今日の朝食は温かなスープとサンドイッチだ。サンドイッチを食べ進めるお嬢様のなんと愛らしいことか。落ちかけたトマトを慌てて口でキャッチする姿も愛おしい。
そんなお嬢様を愛でつつ朝食を終え、簡単な片付けを済ませて食後の紅茶を二人でのんびりと堪能する。並んでソファーに座ればお嬢様がすり寄るように俺にもたれかかってくるのだから、幸せ以外の言葉が見つからない。
普段ならばこの幸せタイムの後はギルドに行く準備を始める。
だが今日は冒険者業は休みだ。といっても冒険者業には定休も無ければ有給もない、ただギルドに行かなければいいだけの話。そのぶん収入はなくなるわけだが、これぞフリーの気楽さともいえるだろう。
対してお嬢様はカフェの店員とお野菜係という、唯一無二の存在。前日にきちんと西部さんとマチカさんに休みを取ると話をしている。――ちなみに休みの理由も今日が誕生日であることも西部さん達には伝えていない。シャイなお嬢様が恥ずかしがってしまったのだ。その恥じる姿もたまらなかったのは言うまでもないだろう――
「こうやって合わせてお休みを取るっていうのは、なんだか新鮮な感じね」
「確かにそうですね。諾ノ森家に居たときは、お嬢様の休みは学校の予定通りでしたし、俺に至っては休みも何もなくお嬢様にお仕えしていましたから」
「働く大人って感じだわ。……そうね、もう大人だもの」
紅茶を一口飲み、どうやら甘さが足りなかったのか角砂糖を一つ追加し、お嬢様が妖艶に微笑む。
なんて大人びた笑みだろうか。お茶請けに用意したチョコチップクッキーを食べる仕草もまた大人びており、頬についたクッキーの欠片もまた蠱惑的だ。
その魅力に当てられ小さな手を握れば、ほんのりと頬を赤くさせて目を伏せた。だが手を振り払うこともなければ、拒否の姿勢すら見せない。
それどころか指を絡めてくるではないか。
力を込めれば折れてしまいそうな指の細さに俺の中で一気に期待が高まり、「お嬢様……!」と彼女を呼ぶと共に抱き寄せようと細い肩に手を置いた。
その瞬間……、
「そまり、厄介な依頼が入った。格安で行ってきてほしいからうまいこと言いくるめられてくれ」
「詩音ちゃん、クッキー焼いたからお裾分けに持ってきたよ」
「そまりさん、次の原稿で『性根がいかれた人でなしが体面を取り繕うために浮かべる最高に見目の良い笑顔』を描きたいんでモデルになってくれません?」
「こんにちは、なんだかよく分からないけどお邪魔しようって気分になったんで寄ってみました」
と、わらわらと見知った顔が部屋に入ってきた。どれが誰の発言かなど言うまでもない。
俺を言いくるめたいと俺に直接言ってくるのがベイガルさん、その隣にいるのは焼き立てクッキーの入ったバスケットを手にする西部さん。バスケットから光が漏れているのはきっとコラットさんが中にいるのだろう。遠まわしと見せかけ直球で人でなし呼ばわりしてくるのが犬童さんで、彼女の後ろには上津君達の姿もある。
そして最後の発言は、もはや我が家に来る理由すらなく、本能で俺を邪魔しているとしか思えないマイクス君だ。
見慣れた面々の登場に、思わず盛大に舌打ちしてしまう。
施錠しているはずではと眉間に皺を寄せるも、お嬢様が小さく息を呑んだ。どうやら外の花に水をやり、戻ってきたときに鍵をしめ忘れたようだ。
不用心と言うなかれ。俺がそばにいる安心感と、そして田舎村特融ののどかさがそうさせたのだろう。お嬢様に非は一切ない。
むしろ鍵が開いていたからといって遠慮なく入ってくる方に問題があるのだ。
それも四人中三人が失礼な物言いというのはどういうことか。
だが訴えるようにギロリと睨みつけるも、ベイガルさんをはじめとする失礼な面々がどうにかなるわけがない。唯一善良な理由で訪問してきた西部さんが「ひぇっ」と高い悲鳴をあげただけだ。――西部さんには伝わったのはいいが、彼女も彼女で「ジンジャークッキーは駄目でしたか……!」と訳の分からないショックを受けている。放っておこう――
「皆さん、許可なく人様の家を訪問するなんて失礼だと思いませんか? それに今日の俺は休業ですから、厄介な依頼とやらはそこにいる情報屋にでも回してください」
冷ややかに俺が対応すれば、ベイガルさんが肩を竦めた。もっともまったく反省の色を見せないあたり、この状況下でもどう言いくるめようかと考えているのだろう。
だが他の日ならばまだしも今日だけは絶対に邪魔はさせない。そんな固い決意と共に、彼が何か言い出す前に「お帰りください」と帰宅を促す。
早く帰らせなければ。そうしないと……。
「せっかくいらしたんですもの、お客様をすぐに帰らせるなんて失礼だわ」
と、優しいお嬢様が言い出してしまうから……。
ぐぬぬ、と思わず喉から言いようのない唸り声が漏れる。ベイガルさん達が乱入してきた時点で、お嬢様を別室に移動させておけばよかった。
なにせお嬢様は優しさの権化。『聖母』と辞書で引けばお嬢様の名前が載っていてもおかしくないほど。
招かれざる客とはいえ、来客を無下になどできるわけがないのだ。門前払い――許可なく門を通ってきたけど――なんて言葉はお嬢様の辞書には存在しない。
「で、ですがお嬢様……」
「良いじゃないそまり。元々は素敵な一夜のはずだったんでしょう。それなら、日中は皆でパーティーをして、夜に二人で過ごしましょう」
ねぇ、とお嬢様が俺に向かって微笑む。
まさに聖母と言える優し気な笑み。それでいて既に心は『皆でパーティー』に切り替わっているのか、瞳が輝いている。
きっと俺が了承すれば、いつものように可愛らしい声で「さぁパーティーよ!」と飛び跳ねるのだろう。ケーキを作ってくれと強請ってくるかもしれない。それも特大のケーキを。
仮にこれが他の年の、それこそ今まで過ごしてきたお嬢様がまだ成人しない誕生日だったなら、俺だって二つ返事で了承しただろう。
「お嬢様がそう仰るなら」と答えて、はしゃぐ彼女を可愛らしいと愛で、豪華な料理と誕生日ケーキを作ってやったはずだ。
だけど今年は違う。
今年は……。
「ねぇそまり、せっかくのパーティーだもの、大きなケーキを作りましょう。ケーキには蝋燭を立ててね。そうだわ、巨大オムライスにハッピーバースデーの文字を」
「……嫌です」
「そまり?」
「……い、嫌です!」
お嬢様をぎゅっと抱きしめ、周囲にも「嫌です!」と訴える。
本当ならお嬢様の希望通りにすべきなのに、それがわかっても、とにかくこう……嫌なのだ。
それを的確に訴える術が分からず、離れていかないようにお嬢様を抱きしめる。腕の中から「そまり?」と不思議そうな声が聞こえ、見ればお嬢様が目を丸くさせて俺を見上げている。
「そまり、どうしたの? 皆さんをおもてなししなきゃ」
「で、ですが、今日は特別な日ですよ。そりゃ、夜でも良いですけど、でも今日はずっとお嬢様と二人きりのつもりでいたんです。そう決めたじゃないですか」
「えぇ、決めたけど、でもねそまり」
「ですから嫌なんです。絶対に嫌です。だから皆さん今日は帰ってください!」
お嬢様を抱きしめたまま、的を射ない言葉で訴える。
あぁ、きっと今の俺は、大事なものを取られまいと抱きしめて駄々をこねる幼子のようだろう。言われずとも無様と分かる。
だが意地の張り方なんて知らないのだから仕方ない。思い出されるのは苦々しい記憶だけで、あれだって意地を張ってもうまくいかず、それ以降、俺は俺のための主張なんて何一つしてこなかったのだ。
とりわけ、今は絶対でもあるお嬢様の意見を『俺のためだけに』押しのけようとしているのだから、うまく言い繕うなんてできるわけがない。
それでも不格好ながらに必死で訴えれば、お嬢様がクスと小さな笑みを浮かべた。
「そまりってば、わがままね」
と、そう告げてくる声のなんと甘いことか。
お嬢様の細い手が俺の頬へと伸びて擽るように撫でてくる。満更でもなさそうな表情だ。
そんな俺達二人のやりとりで事態を察したのか、ベイガルさんがニヤリと笑みを浮かべた。「ははぁ、なるほど」という言葉の皮肉気なことと言ったらない。
おまけに「言ってくれれば気を使ってやったのに」とまで言ってくるのだ。腕の中にお嬢様がいなければ、今すぐに蹴っ飛ばしてやったのに。
「そういう事なら邪魔しちゃ悪いな。西部、クッキーはそこいらに置いてギルドに戻ろう。犬童も、そのわけの分からん頼みはマイクスに頼んでギルドでやってくれ。こいつもこいつで適任だろ」
「ベイガルってば酷いなぁ。僕は『性根がいかれたサイコパスが体面を取り繕うために浮かべる最高に見目の良い笑顔』なんて出来ないよ。ねぇ、犬童さん」
「わぁ、理想通りの笑顔。その笑顔キープしといて」
「それじゃ、俺達はこれで失礼させてもらう。そまり、お嬢さん、邪魔して悪かったな」
嫌な笑みを浮かべ、ベイガルさんが西部さん達に帰宅を促す。彼以外は俺が意地を張る理由までは気付いていないようだが、それでも促されるまま「お邪魔しました」と部屋を出て行った。
突如割り込んできたかと思えば、今度は騒々しくぞろぞろと連れ立って帰っていく。
彼等の後ろ姿を睨みながら見送り、玄関の扉が閉まる音を聞いてようやくと深く息を吐いた。もちろんお嬢様を抱きしめたまま。
俺の腕の中から、再びクスクスと楽し気な笑い声が聞こえてくる。
「そまりってば、お客様に失礼よ?」
「招いてもないのに来るような人はお客様ではありません。それに、たまには俺だって……自分のために我儘くらい言います」
「まぁ、そまりってば。私の意見を聞かずに我儘を言うの?」
「えぇ、お嬢様の意見を押しのけて、俺は俺のために我儘を言うんです」
あえてわざとらしい口調で尋ねてくるお嬢様の言葉に俺も応じて返せば、彼女の笑みが更に強まる。
自分のため、なんて、以前の俺では考えられなかった言葉だ。お嬢様もそう思っているのだろう。
かつて告げた自分の言葉が脳裏に蘇る。
『大嫌いな自分の為になんて何もしたくない』
そう吐露した時の苦しさは今でも鮮明に思い出せる。
でも最近は少しだけ考えが変わってきた。
「この世界で生きる俺の事は、少しだけ好きになれそうです。たまに我儘ぐらいなら言ってやってもいいですね。お嬢様は、そんな俺の事はお嫌いですか?」
ぎゅっと強く抱きしめながら問えば、腕の中でお嬢様が笑う。
答えなど聞くまでもない。いまだに俺の腕の中にいることが既に答えのようなものだ。
それでもあえて求めれば、意図を察したお嬢様がゆっくりと目を細めた。
「馬鹿ね。我儘なそまりも愛してるにきまってるじゃない」
そう告げて目を瞑るお嬢様に、俺は「それはよかった」と答え、嬉しそうに弧を描く彼女の唇にキスをした。
豪華な料理も、蝋燭を立てた大きなケーキも、ハッピーバースデーの文字を書いたオムライスも、お嬢様が望むならなんだって叶えてみせる。
全てはお嬢様のために。そのためなら、俺はなんでも出来る。
でも今は、この世界で生きる俺のために、今すぐに寝室に行きたいと我儘を言うことにした。
……end……
『集団転移に巻き込まれても、執事のチートはお嬢様のもの!』これにて完結となります!
最初から最後までお嬢様一筋なそまりと、最初から最後までそまり一筋なお嬢様の物語、いかがでしたでしょうか。
本編は完結ですが機会があれば短編を投稿しようと思っているので、お話があがった際にはお付き合い頂けると嬉しいです。
感想・レビュー・ブクマ、ありがとうございます!一つ一つお返事出来ず申し訳ありません。
また、矛盾点や誤字等のご指摘もありがとうございました。
完結までお付き合いいただき、本当にありがとうございました!