01:俺の愛しいお嬢様
「そまり!」
学園の校門を出るや、俺の姿を見つけてお嬢様が駆けてくる。
ふわりと揺れる艶のある黒髪、愛らしい顔つき。日の光があたる屋外では少し茶色かかって輝く大きな瞳。誰もが振り返り感嘆の吐息を漏らすほどの愛らしさ。
だが向けられる羨望の眼差しには気付くことなく、ただ俺だけを見つめてくれる無垢さ。
そんなお嬢様はパタパタと俺の前まで駆け寄ってくると、眩しいほどの笑顔で俺を見上げてきた。
「お待たせ、そまり」
「いえ、俺も今来たところです」
あらかじめ決めていた言葉を返せば、お嬢様が「きゃっ」と小さな悲鳴をあげて頬を押さえた。そのうえ顔を背けてしまう。
この反応に、俺は疑問を抱くどころか思わず首を傾げてしまった。いったい、今のやりとりのどこに悲鳴をあげる要素があったのだろうか。
そもそも、今のやりとりはお嬢様が希望したものだ。普段は校門横で待機している俺に、わざわざ少し離れた場所で待つよう命じてきた。「今来たところ」という返しも、その際にお嬢様が指定してきた言葉である。
「だというのにその反応、俺は何か間違えましたか?」
「いえ、違うの。なんだか待ち合わせって感じでしょ? ……ねぇそまり、私達これからデートをするカップルみたいじゃない?」
チラと横目で俺を見上げ、お嬢様が恥ずかしそうに告げてくる。
「そまり、貴方もそう思うでしょ?」
「そうですね。今すぐに婚姻届を書いて市役所に提出したいくらいに同感です」
「もう、そまりってば急ぎ過ぎよ。まだ受理してもらえないわ」
「ならば海外に行きましょう。15歳のお嬢様でも結婚可能な国はあります!」
さぁ今すぐに! と俺が説けば、お嬢様が恥ずかしそうに己の頬を押さえる。その姿も「行動的なんだから」という訴えも、さり気なく「フロリダなら両親の許可もいらないのよ」と告げてくる知的さもまた愛おしい。
思わず抱き締めようと手を伸ばし……すんでのところで耐えた。
「そまり?」
「駄目だ……今抱き締めたら抱擁では抑えきれません。お嬢様にあんなことやこんなこと、そんなことどんなこと、諸々してしまいます……!」
「もう、そまりってば……」
お嬢様がさっと身を引き、俺の腕の届かない距離まで逃げてくれた。
だがその際に「公共の場じゃなければ諸々大歓迎よ」と甘い声で呟くのだから堪らない。逃げつつも誘う、なんとも巧みな駆け引き。喜んで翻弄されてしまう。
「お嬢様、しかし俺はお嬢様が成人するまで手は出さないと旦那様と約束しているんです。その約束を破るわけにはいかない……! 少なくとも、国内では手を出せません……!」
「そまり、なんて誠実なの! そんなそまりの事が……好き……」
「お嬢様!」
「そまり!」
~~♪~~
俺達の熱い会話に割って入る、無慈悲な音楽。携帯電話の着信音である。
なんてタイミングの悪い……と舌打ちしつつ通話ボタンを押せば、
「どこで何してるのかおおよそ想像がつくから、さっさと戻ってこい」
という、呆れをこれでもかと込めた旦那様の声が聞こえてきた。
世界に名だたる諾ノ森グループ、その長の一人娘、それが俺がお嬢様とお呼びする諾ノ森詩音様である。
愛らしく麗しく、声は鈴の音のように繊細で、若くして気品も漂わせている。それでいて血筋や裕福さを鼻にかけることなく、屋敷で働く者達にも親身に接する慈愛の持ち主。名家の令嬢ばかりが通う名門校の中でも手本とされる淑女であり、年齢問わず慕われている。
そのうえ母方から継いだ外国の血筋かもしくは神に愛されているのか、日本人離れした顔つきにスタイル。内外共に麗しい。
つまりお嬢様は全てが完璧、パーフェクトレディというわけだ。いまだ国宝に指定されていないのが不思議で堪らない。
ちなみに俺は雪州そまり、お嬢様にお仕えしている執事。
お嬢様より六つ年上の21歳。身長は割と高め。体格そこそこ。好きなものはお嬢様、趣味はお嬢様のためになること。一にお嬢様、二にお嬢様、三四もお嬢様で五にもお嬢様。以上。
そんなお嬢様と黒塗りのリムジンに乗り込む。いかにも富豪といった外観の車だが、お嬢様が通う名門校の前では違和感なく溶け込んでいる。
もちろん俺は運転席、お嬢様は……助手席だ。俺の隣が良いと仰って、お嬢様はいつも助手席に座る。
その姿に、無駄だと分かっても後部座席で寛ぐように促すが、キュッとシートベルトの軽快な音で拒否されてしまった。
「寛ぐなら、そまりの隣が一番よ」
そう仰るお嬢様のなんと愛らしいことか……。
リムジンのリムジンたる広大な後部座席がデッドスペースと化しているが、お嬢様の可愛さの前では仕方ない。リムジンも本望だろう。後部座席には愛が詰まっているのだ。
そうしてお嬢様を乗せて走らせることしばらく……「あら」とお嬢様が窓の外に視線をやった。
「見てそまり、隣のバス、私と同じくらいの子がたくさん乗ってるわ。それも何台も続いてる」
「課外授業の帰りですかね? お嬢様の通う学校と違い、一般の学校では電車かバスで移動するんですよ」
「みんなで移動するの? 『現地集合現地解散、ホテル・別荘宿泊可、自家用ジェットの生徒は事前申請要』じゃなくて?」
「それはお嬢様の学校くらいです」
あの学校は別格、そう告げるとお嬢様が「そうなのねぇ」と間延びした声で窓の外へと手を振り出した。
どうやら同年代の、それも一般的な学校の生徒が珍しいらしい。そのうえ「男女一緒だわ!」と驚愕の声を上げ、それでいて興味深そうに男女の距離が近いと食い入るように見ている。
幼稚部から現在まで女学校で育ったお嬢様からしてみたら、共学校の光景は驚きでしかないのだろう。とりわけお嬢様は諾ノ森グループの令嬢、箱入り娘の中でも、更に強固な箱で最強の箱入り娘として育っている。
まぁ、箱入りって言ってもその箱の中に質の悪いのが入っているわけだけど。
言わずもがな俺である。
「そう考えると旦那様も迂闊ですね。でもいまだに俺を野放しにしているあたり、最初からその気だったんでしょうけど」
「お父様の話?」
「いえ、お気になさらず。それより誰か手を振り返してくれてますか?」
「えぇ、特に男の子達が集まって手を振ってくれてるの。中には窓を開けてくれてる子もいるわ」
「車線変更しましょう」
危ない、うっかりしていた。お嬢様の愛らしさに男子学生が引き寄せられないわけがない。
お嬢様は愛らしく儚く麗しく、そのうえ今は無垢な笑顔で手を振っておられるのだ。男子学生ならば夏場のコンビニに集る虫の如く食いつくに決まっている。
今すぐに引き離さなければ……、そう考えて車線変更のタイミングを窺っていると、お嬢様が「そまり!」と声をあげた。
「お嬢様、どうしました?」
「バスが、バスが変なの……!」
震える声をあげるお嬢様に、いったい何だと並走するバスを窺い……そして言葉を失った。
バスが歪んでいる。あり得ないほど大きく湾曲を描き、それでいて車体は破損することなくスピードを保っている。
周囲の車はそれに気付くことなく走り続け、歩道を歩く者達も足を止めることすらしない。
明らかな異変だ。
だがその異変を解くよりお嬢様の安全を確保すべきだ。そう判断し、バスから離れるべくハンドルを切ろうとし……。
「なっ……!」
ぐにゃりと歪むハンドルに息を呑んだ。
ハンドルが、まるで隣を走るバスのように歪んでいる。だが車体は真っすぐに、それどころか俺がアクセルから足を放しても速度を落とすことなく一定のスピードを保ったまま進んでいる。
まるで最早俺の運転など無関係だと言いたげに。試しに窓を開けようと操作しても反応しない。
更に目の前が眩く光り出し、お嬢様が恐怖に負けて俺を呼んだ。
「そまり、そまり!」
「お嬢様!」
気が動転しているのだろうお嬢様が震えながら俺に身を寄せようとしてくる。だがその体はシートベルトが邪魔をしており、体が上手く動かないと言いたげにもがいている。
対して俺はシートベルトを手早く外し、自由になった体でシフトレバーを乗り越えるとお嬢様の元へと移った。その間もハンドルは原型を失うほどに湾曲し、それどころかシフトレバーまで曲がり始めている。
眩さは前方どころか車体中を包み、もはや隣のバスだのと言っていられる状況ではない。現状幸い車内の光景は把握出来ているものの、それだってこの眩さならいつ目をやられてもおかしくない。
その前にお嬢様の安全を確保するべきである。
「くそ、駄目だ。ドアが開かない!」
お嬢様の体に纏わりついているシートベルトを外し、強く抱きしめる。
何が起こったのか分からない、異変があれば真っ先に前後の車と衝突しそうなところだがその衝撃すらない。周囲の音もいつのまにか聞こえなくなり、見えるのは車内とお嬢様だけだ。
この状況でエアクッション頼みにするほど俺は楽観的ではない。最悪、飛び出たエアクッションが歪んでいる可能性だってあるのだ。
「お嬢様、俺から離れないでくださいね」
「そまり、怖い……!」
「大丈夫です。俺が必ず守りますから!」
自分の体とシートの背もたれでお嬢様を挟み、震える彼女の体を包み込むように抱く。
これなら何かあればお嬢様の体に直接衝撃がくることは無いだろう。衝突した際にガラスが割れても、破損した車体がぶつかっても、殆どは俺にかかるはずだ。
そう考えている矢先に眩い光りが車内に入り込み、浸透するように俺の意識も薄れていく。
ただ意識が途切れる直前、最後に一度お嬢様の体を強く抱きしめた。