オフホワイト
待ち合わせの六時を五分ほど遅れて、俺は駅の改札を抜けた。結衣は駅前の噴水の近くで待っている。彼女は俺を見つけると、駅前の喧騒を縫うように小走りで抜けてきて、それがなんだか子犬みたいだなと思いながら、俺は手を振って迎える。
「お疲れ様。晩御飯は?もう食べたの?」
「いや、まだ食べてない。結衣は?」
「あたしもまだ。食べていこうよ。」
「そうだな。」
俺たちは近くの喫茶店に入った。二人で外食するときは、大体この店に入る。高すぎず、安すぎず、大学生の俺たちには身の丈に合った店だった。
いつもと同じように、他愛のない話しをしながらご飯を食べる。うん。いつもと同じくらいおいしい。
食事を済ませ、店員が食器を下げると俺から切り出した。
「この後どうしよっか。」
「うーん。なんか最近話題になってる映画があるじゃん。それ見に行きたいなと思ってるんだけど、どう?」
結衣が口にした映画は、今人気の若手俳優たちが出演していて、自分たちと同じ大学生や高校生などの若い層に人気の、言って見れば旬な映画だった。特に他にしたいことがあるわけでもない。断る理由はなかった。
「いいね。行こうか。」
喫茶店の会計を済ませて、俺たちは近くの映画館に入った。付き合う前に行った初めてのデートもそこだった。
映画は噂通り、それなりに面白かった。若いイケメン俳優と、話題の可愛い女優が、多くの人が共感できるだろう恋愛劇を繰り広げ、最後はハッピーエンド、という内容だった。ありがちかもしれないけど、まあそれで良いんじゃないかな。
「この後は?・・・いつも通り?」
映画館を出て、駅までの夜道を歩いているところで結衣が口を開いた。
「うん。いいよ。」
俺たちは、さっきまでとは打って変わって、落ち着きを取り戻した駅から電車に乗った。
俺が一人暮らしをしているアパートの最寄りの駅で降りて、途中のコンビニで少しの酒とつまみを買う。
二人でテレビを見ながら酒を飲んで、少し話しをする。それからセックスをした。デートをした日の夜は、大体そうやって過ごしていた。結衣はセックスの時、その童顔で小柄な見た目に似合わない、ああぁぁぁぁぁぁぁというような大きな声を出す。
それが本当に快感から出るものなのか、俺に気を遣ってわざとそんなAV女優のような声を出してくれているのかは、正直分からない。でも、そのどちらにせよ自分がこの子を確実に支配しているんだという確かな優越感を感じられて、それが嬉しい。
それから交代でシャワーを浴びて、朝まで眠る。
起きたらまたどちらからともなくセックスが始まって、それが終わるとまたシャワーを浴び、結衣を駅まで送っていく。
完全に上出来、とはいかないかもしれないけれど、それなりに悪くない恋愛だと思う。
結衣は大学のサークルで出会った同級生だった。
結衣が自分に好意を抱いていることは、周りや彼女と話していて伝わってきたし、顔も悪くなかったので二回ほどデートに行って告白した。
結衣には全くというほど不満がない。
顔や服のセンスだって悪くないし、俺が踏み込んで欲しくないところを察してくれるところや、料理が上手いところなんてかなり良い。
今日の映画みたいな、周りが良いと言っている物に影響されたりする世俗的なところは少しどうかなと思ったらするけれど、それだって十分許容範囲だ。
じゃあいつからだろう。
「せんぱい。」
そう自分のことを呼ぶ、あの子のことが頭から離れなくなったのは。
二つも年下のあの子のことを思い出したのは、つい最近だ。
高校の時、部活が一緒だったあの子。
一年生のくせに、三年生の自分に 平然とタメ口で話してくるあの子。
中学を卒業したばかりとは思えないくらい、いやに大人の色香というか、そんな雰囲気を漂わせている子だった。
ふと気づくと俺の隣にいて、「ねぇ、せんぱい。」なんて言って話しかけてきた。
ある日、たまたま練習の後、あの子と帰るタイミング重なって、二人で帰った。
俺はその時、大した話もできていなかったと思うけど、あの子は「面白い!」とか「へーえ。」なんて相槌を打ちながら、本当に面白そうに話を聞いてくれた。
歩いている間、あの子の手や体は俺と触れ合うほどに近くて、その感触はあの子の雰囲気と相まって、俺を興奮させた。
たったそれだけで、と思うかもしれない。でもそれだけで、あの時の俺はあの子のことが好きになってしまっていた。
昔の俺はオナニーをするときにいつもあの子のことを考えながらオナニーをした。
当時の俺はまだ童貞で、アダルトビデオを見ながら、妄想の中で何度もあの子とセックスをした。
もちろん事が終わった後に罪悪感で押しつぶされそうになった。
それでも、あの子が自分に話しかけてくる時の声や、あの子が自分に押し付けてくる体の感触を思うたびに、我慢ができなくなって、事が終わった後の罪悪感を予感しながら、自分を慰めた。
夏が終わるくらいに、あの子が部内の男と付き合い始めたという噂を聞いた。
あの子が、自分以外の男と手を繋いで、キスをして、もしかしたらそれ以上のことをしているのではないかと想像すると、内臓がよじれて、千切れるんじゃないかというくらい、悔しくて、腹立たしかったけれど、諦めるしかなかった。
その当時の俺には大学受験が控えていた。大学受験があの子のことと比べて重要だったわけではなかったけれど、周りの空気に合わせて受験に没頭していくうちに、悔しさが少しは紛れる気がして、俺はますますのめり込んだ。
そうするより他に気持ちを抑えるすべが分からなかった。
もう忘れた。そう思おうとしていた。大学に入って結衣と出会って、そこそこ満足だったんだ。
でも、やっぱりあの子は俺の中から消えてくれなかった。
今年の春にきた連絡には、「あたし、せんぱいと同じ学校に行くね。」とだけ書いてあった。
どうやって連絡先を知ったのかは分からなかったけれど、そんなことはどうでも良かった。
結衣と何をしていてもあの子のことを考えるようになったのはそれからだった。
ご飯を食べていても、映画を観ていても、キスをしている時も、セックスをしている時も、いつもあの子のことを考えて、結衣とあの子を重ね合わせてしまう。
結衣が悪いわけじゃない。結衣に今まで言ってきた「好き」という言葉に偽りはない。結衣と過ごしてきた日々は、確かに満たされていたんだ。
前に立つと緊張して、言葉も出ない。寝ても覚めても考える。ただ、一緒にいられるだけで幸せと感じられる。
これが「すき」ってことなんだと思う。稚拙かもしれないけど、本当の本当の本当に「すき」なんだ。
そんな気持ちを感じられる。それにはあの子じゃなきゃダメなんだ。
ずっとそう思わないようにしてきた。普通で良い。そこそこで良い。そう自分に言い聞かせようとしてきた。でもダメだった。
押し込めたつもりのその気持ちは、じわじわと俺のこころを侵食する。
もう、この気持ちは止められない。だから早く結衣に、別れようって言わなくちゃ。
そしたらきっとあいつは泣くだろうな。
俺も泣きたいくらいだ。こんなにもあの子のことが忘れられなかったなんて。それがこんなにも嬉しかったなんて。
あの子の存在が俺を支配している。その事実がずっと、たまらなく俺を幸福にさせる。
そして俺は携帯を取り出した。