失われた思い
「景子」
名前を、呼ばれる。
柔らかな音で、穏やかな響きで、繰り返し。
「やっぱり景子の側は癒されるなぁ」
心地よい低さの声には甘さが含まれていて、なんだかいけない色香が垣間見える。
御簾ごしにもれ聞こえる虫の音が、こぼれる夕焼けの赤い色彩が、一層雰囲気を高めていた。
紫の目を盗んで重ねられた手が、ほのかな熱を伝えてくる。
擦るように親指の腹で手の甲を撫でられて、反射で肩が震えた。
そんな私を面白がるように言継がクツリと喉を鳴らす。
上下する喉仏に、男を感じた。
「はぁ。早く結婚したい」
吐息と共に、将来を示唆する言葉を与えられて。
高鳴るはずの胸は、けれどいつもと変わらない鼓動を刻んだ。
「兄様、それは来年までお預けですよ」
「知ってるし、待つつもりではあるけれど、それでも願う事は自由だろう」
流し目を向けられても、頬が上気する気配はない。
最近、なんだかおかしいのだ。
あの瘴気を浄化してからだと思う。私は、ときめきを感じなくなっていた。
なんと言うか、言継への気持ちが薄れている気がする
好き、なのだ。言継の事が好き。その思いに、間違いはない。
触れ合ったり、愛を囁かれたりすると、嬉しいし、幸せだとも思う。
ただ、その感情に以前ほど熱量が宿らない。
恋をしている時特有の、あのドキドキ感というか、心が弾む感覚が丸ごとどこかへ消えてしまったのだ。
まるで、深い穴の中に埋もれてしまったかのように、凍てつく氷に閉ざされてしまったかのように、心が動かない。
私は、言継が好き。でも、本当に?
ふとよぎった不安に、じわりと涙がこみ上げた。
だんだんと自分で自分がわからなくなっていく。
言い知れぬ恐怖がすぐそこにあった。それを振り払うかのように、口元に笑みを貼り付ける。
きっと疲れているのだ。そう自分に言い聞かせて言継の手を握りかえした。
「景子、具合が悪い?」
なのにどうして。どうしてこの人は気付いてしまうのだろう。
よく男の人は察する能力が低いなんて聞くけれど、言継には当てはまらないと思う。
だって彼はこんなにも敏い。時には残酷だとすら思えるほどに。
「……少し、疲れたのかもしれません。あれからずっと、落ち着かなかったので」
きっと言継には嘘は通じない。
だから、ほんの少しだけ真実を織り交ぜて、はぐらかした。
晃仁が招き入れた異能の少女が騒ぎを起こして、それが人間ではなく野狐の仕業だという事が判明して数日たつが、内裏の混乱は未だに収まっていない。
彼女の放つ瘴気を浴びた者達は軒並み物忌と言う名の謹慎を言い渡されているし、晃仁に至っては廃太子がささやかれていた。
騒ぎを収めるために朔夜や言継が奔走してはいるが、情報が足りなさすぎてどうにもならないそうだ。役人が私の元にまでくるあたりでその混迷っぷりがうかがい知れる。
それだけ大きな事件だったのだ。疲れてしまうのも仕方がない。
口を割ろうとしない私の様子に言継は苦笑をこぼして「詳しくは聞かないでおくよ」と言って頭を撫でてくれた。
はぐらかされてくれるらしい。
そんな優しいところも好きだなぁと思った。恋心かどうかは、わからなかった。
その日の夜は、早めに床についた。
ものすごく久しぶりに、言継と共に。
「おっはよう!」
日の出と共に、彼は現れた。
朝も早くから働き出す女房達だってまだ眠っている時間だ。下手したら雑色達だってまだ夢の中にいる。
そんな時間に皇族である私や言継たたき起こせるなんて存在は何人もいない。
というか不寝番はどうしたの。ああ、眠らせてきたのか。
「……千種、景子の支度をするから少し後ろを向いててくれないかな」
おそらく色々なものを飲み込んだのだろう。ものすごく不服そうな声で言継が襲撃犯に向かって呼び掛けた。
私はと言えば、布団代わりにかけていた着物でぐるぐる巻きにされている。
いくら人ではないと言え、少年の姿をした存在に私の夜着姿を晒すのは言継が許せなかったらしい。
あれ……あれ……説明どこ行った。あれ?
なんだか不穏ですが大きなヤマはたぶんおそらくこれが最後ですだってもう11月終わるからね!
大丈夫、ハッピーエンドするよ!
たぶん後三話で終わるかな、と思っていたあたりから三話分お話が進みました。なんとなくそんな気はしておりましたが案の定終わってないのでたぶん後三話続きます(フラグ)




