咲き誇る
優しい香りが、記憶の扉をこじ開ける。
私が「私」である事を思い出してすぐだった。
現実を受け止めきれなくて、今を信じたくなくて、心を閉ざして、何もかもを拒絶した、幼い私。
異なる二つの意識に挟まれて、自分はおかしいのではないかと不安になって、でも誰にも言えなくて、考える事を放棄した。
目を瞑れば、そこにあるのは闇だけだ。
臆病な私には、それと向き合う力などあるはずがなく。
ただただ、聞こえるはずのない悲鳴と、匂うはずのない血臭に震えるばかりだった。
病んでいく心と、弱っていく体。
眠る事すら恐れていた私を救い出していた人が纏っていた、秋の香り。
陽だまりのように微笑んで、優しく頭を撫でてくれた。
抱きしめられた腕の暖かさは、今もまだこの胸にある。
あの時も薫っていた。柔らかくて、穏やかな――金木犀。
両手で包み込むように握りしめたソレが、私に勇気をくれる。
あの日私は、言継に心ごと救い上げてもらった。
その後もたくさんたくさん助けてもらった。
言継だけじゃない。朔夜や、紫。他にもきっといろんな人に守られて、今の私が存在する。
だからきっと、今度は私の番。
……どうか、闇を払って。
瘴気に飲まれた言継を目覚めさせた時のように。
今この場に満ちる穢れの、浄化を。
光が、あふれた。
はらり、はらりと白が舞う。
右に、左に。風に乗って、空に踊る。
私の両手からこぼれたそれは、あっという間に視界いっぱいに広がっていった。
「瘴気が、消えている?」
最初に気がついたのは、朔夜だ。
彼の声を追うように視線を向けると、白い光に触れた黒い靄が溶けていくのが見えた。
瘴気に巻かれていた男の人達が一人、また一人と倒れていく。
白い光に包まれた大の男が折り重なるように倒れる様子は、なかなかに視界の暴力なのだが、緊急事態なのでこの際おいておく。うん。顔は健やかだから、無事は無事なのだろう。良いことだ。たぶん。
香袋からあふれる光は止まらない。
次から次へと生まれ出ては、地面へと降り積もっていく。まるで雪のようだ。
「……これは、花? でも、なんの?」
足元へと降り立ったそれを拾い上げて、言継が首をかしげた。
手には、藍白の花。六枚の花弁が美しい、見た事のない花だった。
「……なんで」
震える声に私は顔を上げる。
驚愕の顔をした華陽と目があった。
「どうして、あんたが。ただの人間が、それを持っているの!?」
どうやら彼女は光る花の正体を知っているらしい。
体に纏わりつくソレを振り払うように身をよじり「どうして」とそればかりを繰り返している。
どうしてと聞かれても、私にもわからない。むしろ知っている事があるのならば教えてほしいくらいだ。
錯乱する華陽と、混乱する私。
誰にもどうする事も出来ないと思われたその場に、割り込む声があった。
「どうしてって、ボクが彼女に種をあげたからだよ」
くすくすと笑いながら、楽しそうに言葉を紡ぐ、どこか聞きなれた声。
気まぐれに現れては茶をねだり、人の部屋でくつろぐ狐の姿が脳裏に浮かぶ。
「……千種?」
名前を呼べば、空気が震えた。
「そうだよ。おヒメさま」
現れたのは、水干姿の少年だった。
私よりも背の低い彼は、透けるような白い肌に笑みを刷いて、満月のような金色の瞳に楽しげな色を浮かべて、弾むような足取りで歩み寄ってくる。
高い位置で一つに括られた長い白髪が背の中ほどで揺れていた。
「ふふ、おヒメさまには驚かされてばっかりだ。まさかその花を咲かせるなんて思わなかったよ」
トン、と千種が私の手をつつく。途端、溢れる光が止まった。
後に残されたのは、少しだけ膨らみが小さくなった橙色の香袋。
ほんのりと金木犀の香りを伝えてくるそれを握り締めて、私は千種に問う。
「……千種はこの花を知っているの?」
「知ってるよ。だって、その花を管理しているのはボクの一族だからね」
そう言って屈託なく笑う千種の頭にはピコピコと動く白い狐耳。
彼の背後で上機嫌に揺れる尾は四本だ。
「……天狐……まさか、天花!?」
驚きのあまり朔夜の声がひっくり返った。
そんな彼に意味深な笑みを残して、千種は身をひるがえす。
軽く空を駆けて、向かったのは華陽の元だ。
「そうだねー。詳しい説明は後日でいいかい? とりあえず今日の所はコレを回収しないといけないんだ」
言葉と同時に、彼の手が華陽の頭を滑る。
次の瞬間、彼女の姿が消えた。
「なんというか、迷惑かけてごめんね?」
ちっとも悪いとは思っていないだろう声音で、千種が謝罪を口にする。
その手には、首根っこをつかまれてぐったりとうなだれた黒い狐がいた。
……つまり華陽は狐だったと。
何この展開。頭が追い付かない。
ぽかんと口を開けた私たち三人を置き去りにして、千種は手を振った。
「長がものすごく怒っててね、ちょっと急ぐんだ。瘴気はもう浄化されてるみたいだし、良いよね。後はよろしく」
なんと見事な投げっぷりだろうか。
とてもよろしくされたくない事を私達に押し付けて、千種は姿を消した。
不思議な事に、千種が立ち去ると同時に溢れかえっていた天花も一輪残らず消え去った。
後に残されたのは、横倒しになった牛車と何故か寛ぎ出している牛が一頭。それから、泡を吹いて倒れてる牛飼い童に、良い夢でも見ていそうな表情で眠る男達が数人と東宮が一人である。
許されるのならばいっそ気を失ってしまいたかった。
ゲーム編などと適当な事を言って申し訳ありませんでしたぁああああああ!
すべては「ライバルヒロインどうしよっかなー」とゴロゴロしてた私の頭にキュウン! と飛び込んできたちっこい狐のせいです。
いやだって平安で宮中って言ったら狐でしょ。玉藻の前でしょ。これ鉄板でしょ。テンプレでしょ(だいぶ前からたぶん私はテンプレの使い方を間違えていると思う)
……うちのちび狐は金毛でもなければ九尾でもありませんし、朔夜君に見せ場を作る予定だったところを気がつけば千種がサクッと終らせたりとかなんか、もう、あれですけど、はい。
諸々の説明は次回にまとめて!




