甘い闇を照らすもの
「――縛!」
朔夜の声が、静寂を呼び込んだ。
衣擦れや踏みしめられた砂利の音、乱暴に扱われた牛の嘶きに、人々の怒号。あたり一帯にあふれていた喧噪が瞬時に消え去る。
肩を圧迫していた力が弱まった事を不思議に思って視線を向ければ、驚愕に彩られた男の顔が見えた。目を大きく見開いて、まるで魚のように口をパクパクさせている。
一体何事だろうと私は眉をひそめる。次の瞬間、男が遠くに飛んで行った。
……なんか、今、バキッて音がした。
遠くの方に落ちる男を呆然と見送る。そんな私の視線は笑顔の言継に遮られた。
「景子、大丈夫?」
問いかける声は穏やかそのものなのに、言継の眼は笑っていない。
左手が何だかとてもイイ位置にあるのは気のせいだろうか。たぶんおそらく、先ほどの男の顔があったあたり。
あ、うん。これ、拳で一方的な会話をしたやつだ。兄様、意外と武闘派だね、なんてちょっぴり遠くを見つめていると、そのまま抱きしめられた。
首元にかかる安堵の吐息がくすぐったくて、思わず身をよじる。腕の力が強まった。
よほど心配をかけたらしい。なんだか申し訳ない。
「大丈夫、です」
私は無事ですよ、と言う意味を込めて言継の方をとんとんと叩く。けれど、背中に回された腕がゆるまる様子はない。
良いのだろうか。いや、ダメだよね。今って結構な非常事態だよね。
というか、言継も押さえつけられていたと思うんだけど、どうやって抜け出したんだろう?
そんな私の疑問には、朔夜が答えてくれた。
「私が術で足止めを出来るのは少しの間です。お急ぎください」
なるほど。朔夜が動きを封じて、言継が物理で排除したわけだ。
なんて物騒。助かったけど。
「景子、こっち」
言継に先導される形で、私は横転した牛車の側まで下がる。
険しい顔をした朔夜が、じっと一点を見つめていた。
「どうして?」
朔夜の視線の先、晃仁の隣に佇む少女が言葉を発した。鈴のような声だった。
「どうして、あなた達は、そちらにいるの?」
小さな右手を挙げて、首をかしげる。
朔夜が動きを止めているはずなのに、どうして彼女は動けるのだろう。
隣にいる晃仁は苦悶の表情を浮かべているのに、どうして彼女は何ともないのだろう。
ふと浮かんだ疑問は、瞬時に驚愕へと取って代わる。
「なぜ華陽のいう事が聞けないの?」
少女の纏う鮮やかな錦が風に揺れた。
あまい、あまい、においがした。
花のような。
蜜のような。
人を惑わせる。
思考を奪う。
魔性の香り。
「……っく」
華陽から広がるそれを抑えるように、言継の指が空をなぞる。智子が描いていた紋様と同じものだ。
パチンと指がなって、においが少しだけ弱まった。
けれど少しだけだ。完全に絶つには、力がたりない。
「限界、です」
朔夜が膝をついた。術が解ける。
地に伏していた男達が、よろめきながらも立ち上がった。
「景子! お前は、自分が何をしたかわかっているのか!?」
戒めから解放された晃仁が吼える。
わかっているのかと問われても、私は何もしていない。けれどそんな事が言えるような雰囲気ではなかった。
「許されるなどとは、思うなよ」
歪められた晃仁の顔。その瞳の奥に、虚があった。
「……やだっ……!」
背筋を悪寒が走りぬける。
足から力が抜けて、立っていられなくなった。とっさに言継が支えてくれなければ、そのまま後ろに倒れこんでいただろう。
怖かった。
壊れたように笑う異母兄が。
怖かった。
じわりじわりと近寄ってくる男たちが。
怖かった。
無邪気に笑いながら腕を掲げる少女が。
怖かった。
むせ返るような、甘い匂いが。
まるで、一人ぼっちで何もない暗闇に閉じ込められたかのような感覚を覚えて。
怖くて、怖くて、どうしようもなくて。
ぎゅっと目をつぶって、私を守るようにまわされた言継の腕にしがみつく。
「みんな、みーんな、華陽のお人形さんなのに」
歌うように、華陽が言葉を紡いだ。
「せっかく整えた遊び場を、壊す事は許さないわ」
瞬間。溢れた香りは、言継の部屋に漂っていたソレと同じものだった。
ああ、言継はずっとこの匂いと戦っていたんだな。なんて考えが脳裏をよぎって、怖がっている場合ではないと心が決まった。
「……バン、ウン、タラク、キリク、アク」
耳を澄ませば、苦しそうな声で朔夜が真言を唱えているのが聞こえる。
手を伸ばせば、言継が握り返してくれる。
……私は、ひとりじゃない。
そう、思えたから。少しだけ勇気を出して、目を開く。
見えたのは、黒い靄だった。
「……瘴気」
言継のお見舞いに訪れた屋敷で見た。
言継の部屋に充満していた。
言継の身を蝕んでいた。
それは、間違いなく悪いもので。
「オン、アジャラダセンダ、サハタヤ、ウン……ハッ!」
「消え去れ!」
朔夜が印を結んでも、言継が浄化をしても払いきれない闇が、体にまとわりついている。
私や言継、朔夜の体はもちろん、私達を取り囲んでいる男達や晃仁の身の周りにもそれは見えた。
「どうすればいいの」
華陽が動くたび、闇は深くなる。
私を庇いながら瘴気を払う二人の息が上がり始めた。たぶん、そう長くはもたない。
……考えろ。
私は必死に思考を巡らせる。
あきらめるな、と。
きっと方法はある、と。
眠る言継。彼を苦しめていた瘴気と甘い香り。
それを払ったのは。彼を目覚めさせたのは。
――香袋……!
思い至ったのは、闇を照らす仄かな光。
言継の上で溶けた、雪のような淡い燐光。
「どうか、もう一度」
懐から取り出した香袋を握り締めて祈る。
藁にもすがる思いだった。




