知らない未来
「少しの間、兄様についていてもいいですか?」
問いかけた私に、智子は二つ返事で許可をくれた。
「少しと言わず、いくらでもどうぞ。なんなら唇奪っても構わないわよ」
なんて、ひらひらと手を振りながら、渋る朔夜の首根っこをひっつかんで退室する智子の顔は完全に愉快犯のそれだ。
ご機嫌に鼻歌まで歌ってる。これで良いのか、母親。
……唇は、奪えないかな。うん。まだ私には早い。
取り残された部屋で、私は言継と向き合う。
眠る彼に、常のような表情はない。
優しい光を湛えていた瞳は瞼の裏に隠され、緩やかな弧を描いていた唇は静かに呼吸を繰り返す。
ただただ穏やかなばかりの、それでいて美しい寝顔。
まるで陶器人形のようなそれに、思わず手が伸びた。
呼吸を確かめるように触れる、唇。暖かくて、柔らかい。
湿気を含んだ吐息が指先にかかって……瞬間、体がカッと燃え上がるような錯覚を覚えた。
……私、今なにした!? 何を考えた!?
慌てて伸ばしていた手を胸元に引き寄せる。
走り出した心臓が大きな音を立てた。
おそらく顔は真っ赤になっているに違いない。
悲鳴を漏らさなかったのはもはや奇跡だ。
寝ている人の唇触ってジタバタしてるって、まるで変態ではないか。
自分で自分の行動が信じられない。
未だ定まらない視線が震える指先と言継の顔を往復しては部屋の隅に吸い込まれていく。
たぶん、ほとんど無意識だった。だから深い意味はないと、決して唇を奪いたかったわけではないと、そう思う。……思いたい。
熱の引かない両の頬に手を当てて、深呼吸を繰り返して。そうしてチラリと眠る言継に視線を向ける。
……ああ、好きだなぁ。
不意に、何の前触れもなく、思いがこみ上げた。
大好きで、大好きで……ううん、そんな言葉じゃ足りない程に愛おしい人。
そんな、大切な人に、私は大変な事をしてしまった。
私が未来を怖がったら、そんな未来は変えてしまえばいいと、未来を変えて、壊してしまうのが怖いと言ったら、世界は簡単には壊れないと、それくらいで壊れるほどに脆いものならば、いっそ壊して作りなおせばいいと、教えてくれた。
真っ暗で、出口の見えない迷路に迷い込んだ私を導いてくれた、優しい人。
けれどどうして予想できただろう。
私に出口を示したせいで、彼まで迷子になってしまうなんて。
ゲームでの言継には、特殊な能力なんて一切なかった。
ごくごく普通の人で、浄化の力だの黎明の巫女の血筋だのなんだのと言う難しい設定はなく、ルートもエンディングもひたすらに穏やかなものだったと覚えている。
家族とのいざこざはあったけれど、それだって乙女ゲームにはよくあるような設定で、突拍子もないようなイベントはなかったのだ。
少なくとも、瘴気に飲まれて実の母親に強制的に眠らせられるなどと言うイベントを私は知らない。
力の事にしたってそうだ。
物語の最後、ゲームの景子が闇に落ちる場面がある。けれど、景子が撒き散らす呪詛をはらう必要があるそれは、朔夜のルートでしか起こらない特殊イベントだ。
瘴気を浄化する力なんて持っていたら、そんな都合のいい力があるのなら、言継のルートでだって起こしてもおかしくはないイベントで。けれど私の記憶にはそんなものはない。
つまり、そういう事なのだろう。
「私の、せいで……」
人は、他人の能力に影響を受ける事があると言う。
強い異能を持った人の側にいると、異能に目覚めたり、弱かった能力が強くなったりするのだそうだ。もちろんそれはとても希少な例で、誰の身にでも降りかかるような事ではない。
でも、そうだとしか思えなかった。
私の、側にいたから。ゲームではありえないほどの距離で、日々を重ねたから。
全ては私のが望んだことで、私の我儘から始まった事だ。
「兄様の未来を、変えてしまった」
涙は、堪えた。
ここで泣くのは、ずるいと思ったのだ。
私が犯してしまった罪は、涙ひとつで許されるようなものではない。
人一人の運命を変えてしまっておきながら、泣いて許されようなんてそんな事は、出来なかった。
「ごめんなさい」
けれど、せめて、眠っている彼に謝る事は許してほしい。
聞かれていないと確信しているからこそ、口にできる。あなたが目を覚ましたその時は、きっと笑顔で迎えるから。
だから、今だけは謝罪と、そして祈りを贈らせてほしい。
私が歪めてしまった運命の先に、どうか光がありますように、と。
ふわりと、暖かなものが胸に宿った。
確かな熱を孕んだそれを不思議に思って、着物の胸元を緩めてみる。
「……何?」
言継からもらった香袋が、青白い光を宿していた。
ほんのりと、まるで月の光に浮かび上がる雪を思わせる淡い燐光を纏っている。
ゆらり、ゆらり。生まれた煌めきはゆっくりと浮かび上がり、移動する。
そうして言継の胸の上で霧散した。散りゆく桜のようだった。
「……ふえ?」
私を混乱させるには十分すぎる威力を持ったその出来事は、言継の目覚めをもって終わりを告げる。
「おはよう、お姫様」
いつかの朝と同じ、穏やかな声だった。
何をそんなに泣きそうな顔をしているの、と問う声は柔らかく、耳に心地よい。
成長して、幼い頃よりも幾分か骨が目立ってきた手が頬に触れて、そっと撫でていく。
苦しいくらいに、幸せだと思った。
あのね。これね。今月中にね。終わる気がしないんだ……(視線そらし)
い、いちおうくらいまっくすは、みえてるんじゃないかな。たぶん。




