浄化の力
黒い靄を浄化する智子の後にくっついて。
結界を張る朔夜に手を引かれて。
そうしてたどり着いた言継の部屋は、夜に包まれていた。
見渡すかぎり一面の、闇。
真夏の昼下がり。太陽はまだまだ頭上に居座っていて、じりじりと焼けつくような視線で地上を見下ろしている。
庇や御簾である程度和らげてはいるけれど、それでも室内を明るく照らすには十分な光量があるはずで。
なのに、言継の部屋は信じられないほどに暗い――いや、黒いと言うべきかもしれない。
部屋に置かれた調度品も、数少ない飾りも、墨でもかけられたかのような有様で、以前訪れた時の面影が欠片も見つけられなかった。
室内に漂う空気も重く、どこか冷気を帯びている。
まるで神話に出てくる、天照大御神が岩戸に隠れてしまった時のようだ。
「なに、これ」
思わず一歩後ずさる。条件反射だった。
智子が怯んだ私の頭を撫でて、室内に踏み込んでいく。
「これが、あの子の身を蝕んでいるモノ。瘴気、と私たちは呼ぶわ」
つい、と伸ばした指先を無造作に振った。
こごおった闇が溶ける。
「邪気、穢れ、黄泉の風、妖の歌……呼び方はなんでもいいの。あの子がコレを纏うようになったのは、東宮が例の姫を内裏に呼んだという日だったわ」
最初は、じっと見つめなければ気付かない程度のうっすらとした靄だったという。
自然発生してもおかしくない程度の変化で、たまたま良くないモノと行き会ったのだろうと、智子もそれほど気にかけてはいなかった。
「わたくしの実家、津守の家はね、そういった良くない気を祓い、浄化する神職の家なの」
陰陽師の安倍に神官の津守と言われていて、それなりに有名なのだ、と智子が言う。
彼女の祖母は若い頃、黎明の巫女と呼ばれたすごい人で、智子や言継も当然その血を引いている。
瘴気に対する耐性はあってしかるべきもので、多少の事ならば意識するまでもなく浄化が出来た。
にもかかわらず、言継の身を包むそれは日を追うごとに濃くなっていって。異変に気がついた時、言継は既に体調を崩していたのだという。
「ほんっとうに……驚いたわ」
光を取り戻し始めた室内に佇む智子の姿は凛としていて、とても神聖だった。
いっそ神々しくさえ思える彼女だが、浮かぶ表情は息子を思う母そのものである。
「浄化しても浄化しても瘴気は一向に薄れてくれなくて、何らかの悪い術にかかっているのは間違いないのに……それなのにあの子は無理を押して参内しようとするの。何を言っても聞かなくて、どうにもならなくて……」
――あんまりにも頑固だから、うっかり眠らせてしまったわ。
えへ、と表情を崩した智子に、私は脱力した。
……待って。今、なんて言った!?
さっきまでの重々しい雰囲気はどこへやら。
ひょうひょうと言継の意識を刈り取った事を自白する智子についていけない。
私も、朔夜も。
「……言継は……無事なのですか……?」
かろうじてではあるが、そう聞くことに成功した私を誰か褒めてほしい。
朔夜など、未だに顎を外しているのだ。
「もちろんよ。そのための眠りだもの」
指先で複雑な紋様を描きながら、智子が「うふふ」と笑う。
津守の血は弱くない。天火明命を祖とする彼の一族は闇に対する耐性が強く、こと浄化に関しては右に出る者はいないのだという。
だから、術者から離してしっかりと休養させればこの程度の瘴気に負けるような事はないそうだ。
言継の場合ちょっぴり無理して、術者の干渉を間近に受けてしまったからこうなってるだけで、もっと早くに対処できていれば眠らせる必要すらなかったらしい。
「母親の言う事を聞かずに悪化させて瘴気に飲まれるなんて困った子だと思わない?」
ぷりぷりと怒りながら智子が室内の瘴気を浄化していくのを、私と朔夜は無言で見守っていた。というより、言葉が見つからなかった。
つまるところ、倒れるような事になるまで事態を悪化させたのは言継の自業自得だが、とどめを刺したのは智子と言う事であっているのだろうか。
「今のわたくしには、これが限界ね」
そうやってしばらく待っていると、やがて智子が手を止めた。
見回せば、室内はがらりと様子を変えている。色が、戻っていた。
全ての闇を払う事は出来なかったらしく、隅の方にはまだ黒が残っているが、智子曰く自然に浄化されるから放っておいていいそうだ。
これ以上は結婚して力が弱まった智子にはどうにもできない、という部分もあるらしいが。
「顔、見てみる?」
苛立たしいほどに健やかな寝顔よ、と几帳をめくる智子の向こう側。好奇心を抑えきれずに覗き込めば、安らかな寝顔が目にとまる。
なるほど。確かに苛立たしい。心配して損した気分になってくる。
「……兄様」
ふらふらと御帳に入っていく私を、智子は止めなかった。むしろ「頬でもつねってやって頂戴」と謎の応援までしてくれる。
せっかくなのでお言葉に甘えようと顔を近づけると、ほんのり甘い香りがした。
……兄様の香じゃない。
いつも言継が衣に焚き染めているさわやかな香とは違う、甘ったるささえ感じる匂いが鼻についた。
智子の香だろうか、と思ったけれど、それとも違う。
なんだか無性に腹が立って、つい智子の言うとおり言継の頬をつねってしまった私は悪くない。知らない女の香りを衣に移している言継が悪いのだ。
「兄様の馬鹿」
もういっそ心行くまで言継の頬を苛めてやろう。そう心に決めて、私は両手を彼に伸ばす。
智子に止める気配はない。あれは完全に面白がっている眼だ。
「わたくし、景子ちゃんには本当に感謝しているの」
ぐにぐにと一方的なじゃれ合いを楽しんでいると、智子がくすくすと笑った。
首をかしげれば「きっとこれも神様の思し召しね」とかえってくる。
向けられた眼差しが暖かくて、くすぐったかった。
「言継はね。幼い頃、そこまで力が強くなかったの」
簡単な浄化すら出来なくて、少しの穢れで熱を出す。
瘴気を見る力も弱くて……黎明の巫女の血を引いているのに情けないと、親戚連中に散々な事を言われていたらしい。
それで、やさぐれていた時期もあったそうだ。
「わたくしはね、言継が景子ちゃんの側にいたいのならそれでいいと思っていたわ。あの子が家に帰りたがらないのは当然だもの。心安らぐ場所を見つけてくれたのなら、それがどんな所でも受け入れようって……いいえ、むしろ喜ばしい事だと思っていたの」
けれど、景子と接するようになってから言継に起こった変化は、智子の予想を良い意味で裏切った。
景子と過ごす時間をつくるために、真面目に童殿上をするようになった。
周囲の言葉に振り回されることが無くなった。
眼に生気が宿り、そうして表情が戻った。
言継があわてた様子で力に目覚めたばかりの景子を連れて帰った時、智子はこっそりと泣いたらしい。こんな形で息子に頼られる日が来るとは思わなかったそうだ。
「そうやって、自分を受け入れることが出来たからだと思うわ。しばらくして言継の力が強くなったの」
神和になれるほどではないけれど、それでも津守の者として恥ずかしくない程には力を得たらしい。
それでうるさい親戚一同を黙らせることに成功したとかなんとか。
ついでに、あの時に津守の血が目覚めていなければ、今こうして穏やかに眠る言継はなかったかもしれない、などと物騒な事まで言われた。何それ怖い。
ありがとう、と笑う智子の目に透明な滴が浮かんで見えたのは気のせいじゃないかもしれない。
だから。
だから、どうか、気付かないで、と祈る。
よかったと笑う私の顔が、ほんの少しだけ強張っている事に。
言継が力に目覚めたのは、景子と過ごすようになってからだと、智子が言った。
もちろん、景子はそんなこと知らない。言継に浄化の力があるなんて設定は、なかった。
それはつまり、あの時、自分が言継の運命をも変えてしまったという事ではないだろうか。
気付いてしまった、気付きたくなかった現実を突き付けられて、一瞬意識が遠のきかかる。それを気合いで引き戻して、笑顔の裏に隠した。
もう、なんて言えばいいのかわからない。
ねぇ、言継。私は貴方に、どうやって詫びればいい?
長々とした説明回ですみません。
「普通の人には見えないよ」どこぞのお狐様がおっしゃいました。
「兄様は家に帰っていない」どこぞのお姫様が申し訳なく思っていました。
……まぁ、そんな感じです。




