彼と癒し
目撃者曰く。
少女は、森の奥にいたそうだ。
風に舞う桜と木漏れ日に包まれて、動物たちと戯れていた美しい娘。
彼女が手を差し伸べれば小鳥が羽を休め、声をかければ兎が駆け寄っていく。
くすくすとこぼれる笑い声は涼やかで、時折混じる動物たちの甘えるような声とあいまって不思議な空間を作り出していた。
「天女にしか見えなかった、と左大臣が力説していたよ」
手に汗を握って声高に主張する左大臣の姿を思い出したのか、言継の目が虚ろになった。
これは癒しが必要だろうか。
ちょうどいいので千種の首根っこをつかんで「兄様、もふもふをどうぞ」と差し出してみる。
怒られた。
その場を和ませようとしただけなのにこの仕打ちってひどいと思う。
突き刺さる言継のじっとりとした視線が痛い。千種なんて部屋の隅まで逃げたあげく、尻尾をぶわっと膨らませて威嚇までしてくる。
……うん。つらい。ちょっとしたおちゃめのつもりだったんだよ許して。
しょんぼりと肩を落とす私の手を、言継が引いた。
そのまま抱き寄せられて、鼓動が跳ねる。
「どうせ抱きしめるなら景子が良い」
耳元に吹き込まれた声は、幼い頃と同じ柔らかさを纏っているけれど、あの頃とは違って低い。なんというか……腰に来る。
くつくつと喉を鳴らしながらすり寄ってくる様子はまるで猫のようで、妙な色気が滲み出ていた。
どうすればいいのかわからなくて固まってしまった私の背をあやすように撫でて言継が息をつく。
「ほらやっぱり。こっちの方がずっと癒される」
真っ赤になっているだろう顔を覗き込まれて、空を泳いでいた視線が捕えられた。
唇を舐める言継の仕草が壮絶に艶っぽい。細められた瞳の奥に、熱が宿る。
コツリと額を合わされて――瞬間、目の前にいたはずの言継が狐になった。
「はい、そこまで。そういう事はボクがいないところでやってよね」
ふんと胸をそらすのは、白狐。
こちらを睥睨する彼が座っているのは、言継の頭の上だ。飛びかかって踏みつぶしたらしい。
だいぶ危うい展開だったから一応感謝しておこうと思う。
「そこは見ない振りをしながら立ち去ってくれてもよかったのに」
頭を押さえながら言継がうめいた。
ものすごく不服そうだ。
「感謝されこそすれ、恨まれるいわれはないよ。ボクは、キミが締め出される未来を防いだんだから」
「締め出されるって、そんな大げさな……」
「ふーん。じゃあそのまま放置して、そこにいる子に見られても大丈夫だったワケだ」
ほらそこ、と示された御簾の奥には人影があった。
背丈の感じからしておそらく紫だろう。彼女には口止めが効かない。
あっという間に報告があげられて、乳母あたりが飛んでくる事態になっていたはずだ。
「……いや、ありがとう。助かった」
言継が非を認めるのと、声がかけられるのは同時だった。
「ご歓談中に申し訳ありません。言継様に急ぎの文が届いております」
そうして差し出された文を見て、言継が顔色を変えた。
「ごめんね、景子。どうやら晃仁様がよくわからない事を言ってるらしい。少し席を外すよ」
夜にもう一度来るから、と言い置いて言継が足早に退室していく。
その場に残された私は何となく手持無沙汰になって、千種に手を伸ばしてみた。華麗に避けられた。
その日の夜、言継の訪れはなかった。
いったい異母兄は何をしでかしたのだろう。
あまり言継を振り回すのはやめてほしいものだ。
それでも……たとえ言継がどんなに無茶振りされていても、頭の痛くなるような事態に陥っていても私にできる事はない。
ただじっと訪れを待って、疲れた彼の話を聞くことくらいしか出来ないのだ。
それが、なんだか歯がゆく思えて。なんでもいいからできる事はないかと考えて、ふと思いつく。
「ねぇ、紫。私に女童ってできると思う?」
「絶対におやめください」
内親王にできる事がないのならば、そうじゃなくなればいい。
ちょっとした思い付きだったのだが、それを説明する暇も与えられず、紫に笑顔で止められた。
その日から何故か、私は部屋に軟禁状態になった。
一応これ恋愛ジャンルなんだよね。そろそろお砂糖が必要かもしれない、と思って書き始めたのですが。
……兄様の様子がちょっとおかしいかもしれない。




