【閑話】そして大人になる 前編
言継が景子と対面したのは、彼女が生まれてすぐの頃だった。
母に連れられて向かったのは女官達に与えられるような一室で、当時は何故そんなところに帝の姫がいるのかと不思議に思ったのを覚えている。
小さな部屋に暮らす、小さな従妹姫。
頬をつつけばあどけなく笑い、手のひらをつつけばぎゅっと握りしめてくる。
その愛くるしさに、弟妹のいない言継は夢中になった。
暇を見つけては母にくっついて内裏に赴き、景子と遊んだ。
幼い彼女が寝返りを打つようになり、やがて這うようになっていく姿を見守るのは楽しかったし、初めて「にいさま」と呼んでくれた時は感動に打ち震えた。
景子が歩くことを覚えてからは庭で共に草花を愛でる事が言継にとっての安らぎとなった。
小さな手で一生懸命に摘んだ花を「あい、あげるー」と差し出してくるのだ。愛おしすぎて悶えた。思わずさらいそうになった事は内緒である。
だから、そんな可愛くて可愛くて仕方がない景子が悪い夢に苦しみ、まともに眠る事も出来ないと聞いた時は生きた心地がしなかった。
少しでも彼女が眠れるようになればいいと香袋をつくり、見舞いに行った。
血の気が引いた顔で、それでも懸命に笑おうとした彼女を目にしたとき、湧き上がった感情を何と表現すればいいのか言継にはわからない。
「ごめんなさい」
小さな声で繰り返すその姿に。
まろい頬を流れ落ちる涙に。
たどたどしく伸ばされた小さな手に。
この幼い姫を守りたいと。彼女が安らげる場所でありたいと、そう思った。
そうして震える体を抱きしめて、あやすように背を叩いて。
やがて聞こえてきたかすかな寝息に安堵を覚えた。
まともに眠る事すら出来ないと聞いていたのに、覗き込んだその顔はひどく穏やかで。
瞬間、歓喜を覚えた。
景子の顔に残る隈は見ていて痛々しい。本来ならば目の前で頽れた彼女を心配すべきだろう。けれど言継は、己の腕の中で安らぐ景子の姿に、確かな喜びを感じた。
自分がいなければ睡眠をとる事も出来ない子供。
自分の側でだけ安らかな寝顔をさらすことのできる子供。
なんと庇護欲をそそられる存在だろうか。
もとより好意は持っていた。それが特別に変わるまで、そう長くはかからなかった。
思いは季節を重ねるごとに強くなる。
暇を見つけては……いや、時間を作り出しては景子の元に通った。
使える口実は何でも使ったし、取れる手段は何でも取った。
せっせと外堀を埋め立て、景子との仲を深める。
母には冷たい目で見られたが、彼女を手に入れるためだと甘んじて受けた。
半ば詐欺のような形で婚約を了承させた事は、今でも反省していない。
あれから8年。言継は17になったが景子を好きだと思う気持ちは変わらない。
むしろ愛おしさは募るばかりであった。
風薫る。新緑が目にまぶしい季節だ。
だんだんと暖かくなってきたせいか、寒がりな景子が褥ですり寄ってくる事も減った。
それを少々不満に思いつつも決して表に出すことはなく、言継は日々を過ごす。
来年、彼女が13になれば婚姻が可能となる。それまでの辛抱だ。
だから、もうすぐ共に夜を過ごせなくなる事も飲み込まねばならない。
「……元服、かぁ」
元服。貴族男子であるならば必ず通らねばならない道だ。
大人の仲間入りをし、様々な事が許されるようになる。
本来ならばもっと早くに済ませていなければならないそれを、ギリギリの年齢である17になるまで待っていた……いや、17になってもなお逃げ回っていたのは、完全に言継の我儘だ。
大人になってしまえば、子供だからと許されていた景子との同衾が、許されなくなる。
それが、いやだった。
身分上はまだ子供だが、言継もいい年だ。好きな女の子の隣で眠る事にある種の苦痛を覚えないわけではないが、それでも彼女と過ごす優しい時間には我慢するだけの価値がある。
「……景子、なんて言うかなぁ」
願わくば、自分と同じ気持ちであったらいい。そんな事を考えつつ、言継は足を進める。
目的地は、通いなれた景子の部屋だ。元服が決まったことを知らせ、彼女に頼み事をする為に。
知ってはいたけど長くなったので切りました。続きは半分できているのでお待たせすることなくあげたいです。
閑話。兄様ちょっとその思考は危ないよ。と思いながら書いたことは内緒です。