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ラッキードラゴン

プロローグ


 

 この出来事を人々は忘れない、しかし忘れるのをじっと待っている人たちもいる。


  ベン・シャーン「ここが家だ」より。


 僕の時計は止まっているみたい。

 秒針は、かちかちと物音たてて進んでいくのに僕は色褪せた白黒で色彩のない世界でひとりぼっちみたいで。

 たった、一人で溺れてく


 夜明け前の薄暗い世界で僕は大きく息を吸った。

 海鳥のように両手を広げて。

 きっと、この世界に僕らがいなければもっと、もっと。清らかな静寂さにつつまれる。

 なのに僕らは雑音を奏で、まっさらな白布のような美しさに泥を塗る。

 視界に入る、美しい海。

 微かに香る潮の匂い。

 海面には澄んだ瑠璃色の世界が反射していた。それはまるで鏡のようで。

 この世界の全てを優しく包み込むような、優しい世界。

 きっと、ここは桃源郷だ。

 苦しみ、憎しみ、悲しみ、悲哀の化身がここで安らかな眠りにつくように、全ての窮愁や懊悩煩悶から解放された美しい境地。

 海へ垂らしていた一本釣りの糸を渾身の力で引き上げる。

 ずっしりとした重み。これは大物であると確信した。僕は、

「誰か、一緒に引張てくれ!」

 そう、呼びかけた。

 手の空いていた、熊のように大きい男が駆け寄る。

「今行きます、久保山さん」

 僕の背後に垂れていた余りの糸をぎっしりと。大きな。天狗の団扇のような手で掴み上げ、背後へ倒れんばかりと引っ張る。

 糸は引っ張られては甲板に積もり、僕は最後の力を搾り上げる。

 糸が海中から、完全に出ると僕は力が余り後ろへ尻餅をつくような形で倒れこんだ。

 そして、煌めかせながら鮪が空を飛ぶ。

「飛んだ。鮪が!」

 そんな訳もなく、鮪は重力という化け物に押し潰され甲板へ、べちゃりと物音たてながら落下した。

 すると、熊のような男が暴れる鮪に近づきながら、西部を指差し言い放った。

「夜明けですよ、日が昇り始めましたね」

 僕は、薄暗い東部を見つめながら、

「何を言ってるのだ」

 そう、言いながら振り向いた。

 本当に、そこには日が昇っていた。

 何かの夢だと、僕は瞼を閉じ薄暗い世界に身を委ねる。

 これは、夢だ。

 そう、言い聞かせて重く。鎖で結ばれたかのような瞼を持ち上げる。

 現実だ。誠のことだと。

 僕は改めて真実を理解する。

 なんせ、朝日が西部に昇っているのだから。

 あり得ない世界が目の前で喜劇のように繰り広げられている。

 あり得ない世界が。僕たち、第五福竜丸の前で。

 違う、これは。朝日じゃない。

 そう、考えつくまで時間はかからなかった。

 冷静になり、現状を鵜呑みすればいいだけなのだから。

 西部に朝日は昇らない。わかりきっていて当然の理だ。

 ならばなんだ、と。

 すると、全身が重い鈍器で打撃されたような不自然な痛みが轟音と共に駆け抜けた。

 海面を荒らし、空を割き、僕らを嘲笑するかのように。前へ前と血肉を漁る飢えた猛獣のように。

 

 うっすらと聞いてはいた。

 何処かで原爆の何十倍の威力を誇った強靭なパンドラの箱が開かれると。

 此処ではないと勝手に思い込んでいた。

 当たり前だ、本土から何千里も離れた美しい島々、マーシャル諸島で。僕たちが被害に遭うなんて誰が思うか。考えているか。

 それに、ここは危険水域外だ。

 僕の視界は不自然な夕焼け色に染まる。

 空は赤く。海も赤い。

 誰もがこれが朝日じゃないと確信するだろう。

 不自然な光、無気味な轟音、無邪気な悪意。染まる世界。

 無気味で、悪意に染まった無邪気で不思議な空からぽつり、ぽつりと灰の雨が降り始めた。

 ざらざらしていて、硬くて。悲痛な雨が甲板を白く染め上げる。

 僕は、右手をかざし、皆へ。

「落ち着け!今から日本へ帰還する。決してSOS信号は出すな。いいな!」

 と、指示を出した。

 僕らは見てはいけないものを見てしまったのだ。

 水爆実験という、パンドラの箱を。

「人数確認をする。名前を読み上げるから返事をしろ!」

 一人、一人と逞しい声で返事をする。けれど、その声は恐怖で押し潰されそうな自分を偽った道化師の声。

 僕そうだ。怖くて、恐ろしくて、いつ米軍に殺されるのかもわからない。

 甲板では無残にも鮪が息絶える最後の悪足掻きを見せる。これは僕らのようで。必死に生き延びようとしてて。妙に涙がこみ上げくるが無理矢理押し殺した。

 僕は、

「舵を取れ!今すぐに帰還だ」

 そう、銘じるが制御室の扉からひょっこりと男性が顔を覗かせ、

「それは無理です!延縄の収容に手を取りかけていません!」

 そう、言い返してきた。僕らは必死で。無意識かつ、一心不乱に延縄の収容に取り掛かった。

 その間も灰の雨はぽつり、ぽつりと僕らを蔑むかのように辛辣で修羅の世界に雨が降り続けた。

 





 一章


 一

 

 きっと、この世界は残酷だ。

 どれだけ痛みが伴おうとも、僕らは傷つけ合う。

 それが真の秩序のように。

 見えない狂気が僕らを縛る。


 

 延縄の収容に一時間弱かかった。

 僕らが血の滲むような汗が額から溢れ出している時でさえ、灰の雨は積もっていった。

 あまりにも優しくて温かい太陽が東部からゆらゆらと水平線を微かに照らし始める。

 この世界には二つの太陽がある。

 一つは、

 西部には冷たくて残虐な太陽。

 一つは、

 東部には優しくて温かい太陽。

 僕らは、延縄の収容が終了したことを確認し、我が故郷。日本へ舵を取り旋回を始めた。


 1954年、3月1日の夜明けと共に僕らの心には朝日が昇ることのない永遠の夜が始まった。

 僕にはたった一人の妻がいて、親愛なる娘がいる。

 こんなところでくたばってはならぬ。そう、心に楔を埋め込んだ。

 第五福竜丸の乗組員にも家族がいて、帰らなければならない家がある。

 真実を述べなければならない。僕らは強靭な力の前で何もすることができず、大蛇に飲み込まれる蛙のようで、鷹に睨まれた雀の様で。なにもする事ができなかった。

 開けてはならないパンドラの箱がそこにあり、それを利用しようとしてる人達がいる。

 遥か遠くに真っ黒で哀しみ包まれたきのこ雲がぽつりと宇宙へ穴開く。

 人々の命が骸となり、魂がひとつの怨念として集合したかのように。僕らへの悲痛の叫び。

 逃げなければならないと。

 真実を伝えなきゃいけないと。

 夕焼け色の可笑しな世界で腐敗した潮の香りが漂う。

 これは、生命が滅んでいった香り。

 これは、僕たちによって殺された香り。

 落ち着く清らかな匂いなのか、

 混沌を導く死滅の臭いなのか。

 それは、完全後者で。つんと鼻につく死滅の臭い。

 

 僕らはちっぽけな遠洋鮪漁師でしかない。

 2月中旬、本土からかけ離れた、絶遠の島々、ミッドウェーで、鮪の延縄漁をおこなっていた。本来の目的は言わずもがなミッドウェーであった。

 けれど、荒れ狂う激しい波には延縄が耐えられず、毎回ぷちりと切れしまうのが関の山であった。

 それならばとミッドウェーから西に離れたマーシャル諸島を目指せば良いのだ。そう、解釈し自由気ままに。美しい世界を満喫しながら出向いた。

 マーシャル諸島はまさに楽園で。

 まっさらで淡い水彩画のような海。

 白く、僕たちの手は届くことのない入道雲。

 鳥の楽園、魚の楽園、僕らの楽園。

 なのに今宵、上空では真っ黒で、残酷な地獄の門がぱっくりと口開いている。

 僕たちはきっと抗うことも出来ず、ただ飲み込まれる。

 孤独なんだ。

 人間という生き物は。はなから孤独で、僕には誰かがいる。そう、脆い幻想が恋しくて手放せない。

 そんな、脆くて淡い幻想を抱きながら。ひとりぼっちで溺れてく。

 すると、肩をぽんぽんと叩かれる。

「愛吉さん、表情が怖いですよ。皆、苦しいのだから。そんな顔しないでください」

 舳でたった一人、絶望の淵に立たされていた僕ににんまりと笑顔見せる。

「そうだな。皆、怖いよな」

 僕たちはきっと、一人じゃない。

 それが、脆い幻想でも僕はそう思いたい。そう、信じたい。

 乗組員、二十三人。僕らは親愛なる家族の元へ急ぐ。

 これから先は羅針盤のない旅のような未知の領域。

 朝、僕は起き。夜、僕は寝る。

 そんな、ありふれた日常的じゃない。

 いつ死ぬかも分からない、仏様の垂らした一筋の糸のよう。

 僕らが絶望を知っていても、絶望は僕らを知らない。

「朝だ、こんな時こそ笑い合おう。さて、豪華な朝飯にするか!」

「ええ、そうしましょう。愛吉さん」

 甲板で息絶えた大きな鮪の尾鰭を掴み上げ、覆い被さった廃を払う。

 なぜ、灰の雨が降っていたのか。

 僕には分からない。

 海水を溜め込んだバケツに鮪を浸し、料理室へそのまま連れて行く。

 歯切れの悪い包丁を掴み、僕は鮪の解体を始めた。

 当然、刺身にするのだが貴重かつ美味な部位はこの場で摘み食いだ。

 大きな皿に刺し身を綺麗に並べ、僕は甲板の大きな机へ持っていく。

 きっと、この瞬間。僕は輝いているだろうと自分に酔いしれる。

「机に近くにいる奴ら。机の脚を掴みひっくり返してくれ」

机上には沢山の灰が積もっている。

死に絶える、終焉なる灰が。梅雨時の水溜りのように。

 僕が鮪の刺し身を見せつけると、そこには感動と喜びの声。

 なのに世界は色褪せた白黒のまま、色彩はあるんだ。けれど、僕の世界はずっと白黒だ。

 どれだけ希望を抱こうとしても、この世界は冷ややかな両手で頬を撫でる。

 真っ白で雪国のような腕で。それはまるで可憐な聖母マリアのような優しさがあり残酷な美しさがある。

 瑟瑟と哀艶なる風が吹き抜ける。

 お刺身の周りに人が群がり、素手でほうばり始めた。

 

 僕は右手の平に皿をのせ左手で掴みとっては食らいつく。

 水爆なんて無かったんだ。僕はそう、思ってしまう。そう、思い込んでしまう。

 楽しい日々がいつもあり、知らない未知の世界が唐突に幕を上げたから。

 僕は現実を受け入れられなかったんだ。




 ニ


 空は何処までも青い。

 淡い水彩画のような優しい海。

 もう、何処にもいやしない。

 僕らが水爆の被害にあった証拠が。


 第五福竜丸が余りにも遅く感じる。

 本当は遅くなんてない。僕たちの思考が第五福竜丸を遅いと考えさせているのだ。

 一分でも早く。一秒でも早く。僕らは焼津漁港にたどり着きたい。

 マーシャル諸島の記憶が走馬灯のように鮮明に蘇ってくる。

 きっと、死んでしまったんだ。

 僕の記憶は。

 楽しい楽園は。


 太陽は僕らの頭上にある。

 きらきらと僕らを照らし、空虚な影を描き続けた。

 熊のような男が昼下がり、飯を作って机の上に乱雑に置いた。

 しかし、皆。よれよれとふらつきながら立ち上がる。

 これは、暖かい太陽のせいじゃない。

 脳味噌の中でずっと、円を描き続けられるような感覚。

 即ち、吐き気だ。

 僕らはよろつきながらも皿に手を伸ばす。

 食が細い、食べ物が喉を通らない。

 左頬を叩き、無理矢理飲み込んだ。

 すると、制御室から男性が現れふらつきながら近づいてくる。

 無念にも、ばたりと倒れこんだ。

 僕は彼に寄り添い、目の前でしゃがみこむ。

「大丈夫か、おい!誰か、こいつの寝服を持ってきてやれ」

 すると、熊のような男が取りに行ってくれた。

 虚弱な体力で、彼は必死に走る。

「ほれ」

 僕は、そう手を伸ばす。

「捕まれ、一人じゃ歩けないだろ」

 彼の腕を掴み、首にかけた。

「申し訳ありません」

 と、涙ぐんで言うが、

「泣くな、皆。泣きたい気持ちを殺しているのだから」

 そう、励ました。

「久保山さん、持ってきましたよ。寝袋」

 彼は僕の元へ走ってきた。

 とても無理をしている。息が荒れ狂っているのだから。

「ああ、ありがとう。そして、申し訳ないな。無茶をさせてしまって」

「大丈夫ですよ、久保山さんこそ。頑張りすぎないように」

 と、彼は寝袋を引いた。

 チャックを開け、虫の息の倒れかけの男性を仰向けにさせ、寝かしつける。

「お前はぐっすり休めよ。皆で帰るのだから。日本へ」

 そう、必死に励ますのだが彼は、一つこくりと頷くだけだった。


 時間は刻一刻と前に進み続ける。

 時は僕らを知っているのであろうか。

 僕らは時間に置いてかれた哀れな人々。

 水爆という名のパンドラの箱が開かれて、何時間経ったであろうか。

 ただ言えることは時間は、僕たちを知らない。と、言うこと。

 すっかりと日は沈み始め、水平線の彼方でゆらゆらと残光を残す。

 これはまるで、水爆が爆破した時のようだ。

 夕焼け色に染まり、僕らを照らし続ける。

 東部は、薄い紺色で星が無数に輝やいている。

 死んでいった儚い無数の命のよう。

 生命が骸になった今日の日のこと。

 まだ、まだ。破滅の猶予は沢山有り余っているのだろう。

 きっと、次に死に絶えるのは僕らの番だ。

 いつもなら、美しいと酔いしれる夕日でさえも今日は悍ましい物なのだと思った。

 今朝の悪夢が鮮明に蘇ってくる。

 人々の魂が天へ帰っていく姿を。

 ムンクの叫びのような、捻じ曲げられた時空のように。

 

 残光がぷつりと姿をくらませた。

 たった一つの希望のような光りが残酷にも僕らを絶望の谷底へ蹴落とす。

 助けを呼んでも誰も来てくれない絶望の谷底へ。僕らは真っ逆さまに堕落する。

 そこから、覗く夜空はさぞ美しいだろう。苦しいだろう。悲しいだろう。

 不気味な谷なのか、それとも。

 

 熊のような男がまた食事を持ってきた。

 彼は、辛くても顔に出さない。

 皆、辛いから。僕だけは皆を励ましたい。そう、言わんばかりに。

 皆、地から這い上がってきた死者のように立ち上がる。

 それは、まるで。この世に終わりを告げるかのようだ。

 彼は机に置き、一人、勝手に食べ始めた。

 辛そうな表情。なのに僕らへ、にっこりといつも通りの笑顔を見せる。

「食べなきゃ、食べられますよ」

 そう、呑気に言い放つ。

 僕は蘇りし死者のような人々を掻き分け、食らいついた。

「いい食べっぷりですね、久保山さん」

「食べなきゃ、食べられるからな」

「なら、僕も負けませんよ、久保山さん」

「受け溜まったぞ、僕も負けんからな」

 二人で盛り上がっている中、背後から手が皿へ伸びる。

「二人で盛り上がっていたら。俺らの飯がなくなっちまうぜ」

 そう、言いながら食らいついた。

「だそうだ、負けてはおらねぬな」

 僕も負けぬよう、苦しい吐き気から耐え忍ぶ。食道を通ると共に嘔吐感が胸の中をかき回す。心臓がずっと、叫びたがっている。悲鳴をあげている。鼓動がいつもより、何倍も早いのだ。

 故郷に帰りたい、この恐怖。

 帰れないかもしれない、この不安。

 いつ、死ぬかもわからない狂気。

 そんな、冷たい残酷な現実が僕らを優しく包む。

 息苦しいんだ。死ぬかもしれない、そんな世界は。

 恐怖が並走してる世界は。


 故郷で波打つ稲穂を見たい。

 虫の音、蛍の灯火。

 静寂に包まれた暗闇で、僕は丸い月を拝みたい。

 娘の声が懐かしい。妻の笑顔が空虚な記憶でこだまする。

 手にするかのように掴もうとした思い出、全ての全てが砂のようで手のひらから零れ落ちる。

 積もり、積もって。僕はうら悲しい惨憺な面影に見つめるんだ。

 光を通さない、真っ黒な世界で。


 本当にこの世界が暗澹なる暗闇に包まれているわけではない。

 僕の心にふと、湧き出すこの絶望こそが世界を暗く染め上げている。

 絶望が光と対立し合っているんだ。分かっている、分かっている。僕の心が諸刃の剣で余りにも脆く、不安定な雲を掴むような不安によって、落城しそう弱き心。

 だから、 僕は僕を奮いたたせる。

 僕へ僕と尋ねる。

 僕、僕は僕。

 僕は、頑張れていますか。

 僕は、泣きたいのですか。

 死にたいのですか、生きたいのですか。

 

 問いに答えは返ってこない。

 自問自答の繰り返し、なにも得ることのできぬ哀れな行い。

 きっと、これは、逃げているだけだ。

 怖い、ちっぽけな絶望を媒体として、恐怖と狂気が僕の心を蝕んでいくんだ。

 

 僕は、がたりと立ち上がる。

 夜空には無数の星々が美しく輝いていた。

 僕は、歩く。目的を無くして。

 制御室の壁をするりと撫でる。

 視界の奥には、熊のような男が体調の優れない者たちを寝かしつけていた。

 彼も、僕らと同様で体調がは優れないはずだ。

 彼の肩をぽんぽんと叩く。

「無茶はするな、皆で帰るのだから」

「久保山さんこそ。皆、そろそろ眠りにつきますね。二人で今日は福竜丸の制御するはめになりますね」

 そう、笑い飛ばした。

「明日からは、当番制にするか」

「そうしましょう」

 彼はどんな時も辛そうな表情を見せない。

「今日は、二人で夜を越すのか、眠気に負けて寝るんじゃないよ?」

「ええ、そうですね。久保山さん。」

 暗い世界でも、潮の香りは妙に心地が良い。

 僕の絶望は一つ、無力な自分にふと、夢想させる。

 

 ここが僕の墓場であると。




 三


 上甲板から、僕は足を宙ぶらりんに海へ放り投げていた。

 夜は深まり、夜空は宝石が撒き散らされたように美しかった。

 けれど、その美しさが途方もない不安に押しつぶされるかのように残酷に見える。

 光のない暗い部屋に一人、置いていかれるような、鬼胎漂う、不安心。

 漆黒に染まった海面がまるで、心を映し出す鏡よう。

 眩い無数の星々が、ゆらゆらと波打つ漆黒の鏡に飲み込まれては、現れる。

 僕の顔も反射するのだが、酷く歪んでいて、狂気に飲み込まれた哀れな僕でしかなかった。

 背後から、こつり、こつりと足音が近づいてくる。

 僕は振り向いた。そこには熊のような彼がいた。

 一つ、ため息をつく。

「久保山さん、皆さんは、もう寝ましたよ。貴方も少しばかり仮眠を取った方が、いいと思いますよ」

「大丈夫さ、君が先に寝なさい」

 すると、彼は首を傾げて、

「僕の名前って覚えてますか?」

 そう、尋ねた。僕は、少しばかりと考え、適当に答える

「熊吉」

「安直ですね」

 と、笑われた。少年のような無邪気な笑顔で。

「それは、それでいいのかも知れませんね」

「なら、熊吉で決定だな」

 すると、彼は。

「なら---」

 と、黙り込み。

「愛吉さんと呼んでもいいですか?」

 そう、聞いてきた。

 僕は、一つ頷き、

「そう、呼んでくれ」

 そう、答えながら夜空を仰いだ。

 色鮮やかな純白の夜空には酒とお供したい。けれど、今宵は違う。

 水爆という、パンドラの箱が無造作に開かれ、今日が終わろうとしている。終わってしまう。

 今日が終われば、明日になる。

 明日が終われば、明後日になる。

 僕が終われば、骸になって、

 君が終わると、骸になる。

 人知れず境地で、悔い廃れる。

 風化を繰り返す、石碑のようだ。

 暗雲の、きのこ雲すら、とっくの通りに消滅している。

 僕らに嘆きが聞こえんと、ばかりとされた。虚無感。

 そんなの思い上がりだ。分かりきっていて、当然のことなんだ。

 魂を持たぬ物に、感情などある訳がなく、無尽蔵に作られては使用される、人類の負の遺産だということも。

 水爆実験と命名された、パンドラの箱は、空白の虚しい死者だけを量産して、この世界に爪痕を残す。

 広島、長崎に投下された。原爆より、何百倍も、何千倍もの偉力を誇る禁断の箱が『何処で使われようとしているのか』と。

 背中が凍てついた指で、するりと撫でられたような悪寒が走る。

 誰かを殺す為に誰かが兵器を開発している。

 誰かを殺す為に誰かが死んでいる。

 誰かが苦しんでて、悲しんでて、憎しみ合ってて、殺しあっているんだ。

 

 命は罪なんだ。


 僕らは、生きる為に何かを食さねばならない。

 肥えた肉を好んで喰らい、いつも、殺し続ける。

 肥えた僕が食べられる時は、美味しければいいのだけど。きっと、僕は食べられずに朽ち果てる身だ。

 黒く染まった僕らの罪を、罪で塗り潰すんだ。

 僕らが殺されるのも、家畜が殺されるのも延長線なのかも知れない。

 一つの爆発で、何万もの人が死ぬんだ。

 可笑しいことだ。道徳を重んじ、親愛なる汝の者に慈愛と博愛を説く者たちが殺す、道具を作っているのだから。

 引き金を軽く弾けば、銃口から銃弾は出ると言うのに。

 刀を一振りすれば、人はすぐ死んでしまうのに。

 僕らは強靭な力を欲したがる。

 脆く、弱い。この肉体は。

 壊れやすいのに、壊すための道具を得ようとする。

 それは、平和のため、民族のため、お国のため。

 耳心地の良い、非道な剣が僕らを殺そうとするんだ。

 僕たちは気付くことなく。

 偽りの慈愛に喉を絞められ、一人もがいて。死んでゆく。

 命が芽出した、その日から。罪を罰で誤魔化したのだ。

 罰そのものが罪だと知らずに。

 僕らは罪に恋い焦がれている。


 がたりと、僕は立ち上がった。

「どうしたんですか?愛吉さん」

「歩きたくなっただけだ」

「そうですか」と、熊吉は適当に返してくる。

 僕は、歩く。

 僕は、なぜ歩くのか。

 生命が死に絶える、地獄で。

 地獄は、何処にあるのか。

 天国は、何処にあるのか。

 全てが、僕には分からない。


 歩く理由なんて、ないのかも知れない。

 太陽に恋をする、一輪の向日葵を見て、それを美しいと思うのは、

 理由なんているのだろうか。

 この世界には、理由のないものの方が満ち溢れている。

 大人になるって、偽りの優しさに目を瞑れるようになることなのだと。僕はいつ、知ったか。

 理由のない理不尽に目を瞑れり、仕方ないことだったと。

 僕の描いていた、大人は何処にもいない。

 理想は、儚く死んでいったのか。

 夜空に眩く星々を掴もうとするが如く。触れられることの出来ない、幻想をこの手で、愛でてみたいのだ。

 違う、

 理想は、儚く死んでいったのではない。

 きっと、殺してしまったのだ。

 気づかぬうちに、大人になると共に。

 

 一歩、二歩三歩。僕は、足を前へ前へと動かして行く。

 聞こえてくるのは、第五福竜丸が海面を切り、故郷へ帰ろうとしている音だけだ。

 僕はぐるりと、第五福竜丸を一周する。

 一周すると、僕の座っていた場所に熊吉が座っていた。

 熊吉はこちらを振り向き、哀愁に満ちた声で問いかけた。

「どうして、こうなってしまったのでしょうか」

「僕が聞きたいさ。どうしてこうなってしまったのか」

「そうですよね、もう、あの楽しいひと時は帰ってこないのですよね」

「帰ってくるさ、いつの日にか」

 熊吉はぽろぽろと溢れ出る涙を必死に拭っていた。

「夜空を見てたら、妙に悲しくなってしまって」

「仕方もないさ。もうすぐ今日が終わる、そして、明日になる。朝日が昇って、美しい海が乱反射してーーー」

 僕は、言葉を詰まらせてしまう。

 熊吉がにっこりと忍笑いを見せ、

「分かっていますよ、皆、辛いですよね」

 そう、言うのだが。僕は、

「無茶をするな、泣きたい時に泣かぬ方が辛いというものだ」

 と、言い返した。

「無茶をするなって、無謀なこと言わないでくださいよ。愛吉さん。貴方だって無茶をしてるではありませんか」

「そうだったな」

 と、笑い飛ばす。

 何処までも、暗い。この世界で。

 僕らは必死に生きている。生きようとしている。

 いつ、死ぬかわからない絶望の淵で。

 嘘、偽りの太陽が嗤笑するが如く、西部から昇り、僕らを照らした。

 今日が終わろうとしている。

 時は残酷にも、明日になろうとしている。

 今、どこかで嘆きが聞こえる。

 今、どこかで哀叫が聞こえる。

 涙がまるで、悲しみの冷たい雨のようで。雨が悲愴へと変貌し、心をえぐられるかのように突き刺さる。

ここは、まるで。子供が描いた儚い夢のようで。

 脆く、あっという間に崩れ去る。

 僕らが描いた、希望も、未来も、世界さえもたった一つの爆弾で、無慈悲にも崩れ去った。

 音もなく、姿も見せず、零れ落ちる砂のように。

 

 手から零れ落ちる、一握りの砂は、僕らのようだった。


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