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目薬

作者: 雨京 了

 今年も花粉がひどかった。特に目に来るから困る。僕は営業で外回りが多いから、目が真っ赤になってしまうので嫌気がさす。子供が泣きはらした後のようだし、なんだか血走っていて必死すぎるという印象のようにもみえる。目が痒くてこすってしまうと、余計に赤くなってくるから困ってしまう。

だから毎年目薬を買うのだけれども、スーツのポケットにしまったのか、鞄の中なのか、デスクの引き出しにポイッと入れてしまうからなのか。よく行方不明になってしまうのが困りものだ。大体はスーツをクリーニングに出すときか、掃除をしたときにぽろぽろと出てきては捨てる。なので、特にこだわっているメーカーもないので、クール系であればなんだっていい。目の痒みがマシになればそれでいい。

 そして、今の時期は黄砂だ。まだ目薬が手放せない。さらに、これから外回りに行こうかっていうタイミングで、また目薬をなくした。いっそのこと目薬にもストラップをつけて、携帯と一緒に持っていてやろうかとすら思う。

「また目薬なくしたんですか?」

向かいのデスクから、事務員さんの声が飛んでくる。また、は余計だ。その通りなのだけれども、なんとなくグサッと刺さる。

「まあね。買っても買っても、みんな僕に使われるのが嫌になって逃げるんだよ。」

「それを人は管理が甘いって言うんですよ」

冗談を飛ばしたつもりだったが、あまり面白くもなんともなかったようで、冷たくあしらわれる。語尾に「この調子で重要書類もなくしかねないな、この人」というのが見えなくもない。そんなヘマはしたことないぞ、僕がなくすのはなぜか目薬だけだ、なんて的外れな被害妄想を巡らせながら、客先行ってきます、と逃げるようにデスクを後にした。


 社内にいた時からの目の違和感が、外に出ると余計にきつい。コンタクトレンズのせいか、さらに痒みが増す。ああ、また車が汚れるなあ。こないだ洗車したばかりなのに。違和感の処理をどうしようかと考えながらも、黄砂ので受ける被害のことも頭をよぎる。黄砂っていうのはなぜあんなにも面倒臭いものなのか。

会社から徒歩5分、駅前のドラッグストアへ。目薬のコーナーへ向かう。もう何度も来ているので、売場がどこにあるのか覚えてしまった。何なら、主要駅近辺のドラッグストアならもうほぼ把握してしまった。何の自慢にもならない。

特価品と大きくポップがつけられたカゴに無造作に入れられていたものを一つ買った。大手メーカーのものらしいが、銘柄は見たことのないものだ。だがしかし、そんなことはどうでもいい。とりあえず目の痒みから一時的にでも逃れれば、それでいいのだ。

ぽとり、と2滴ずつ目に落とす。角膜をつんざくような清涼感こそすらないが、スッキリとはする。

目から鼻にかけてスッと香りが通った瞬間。

「あれ…」

脳裏によぎる、何となく懐かしい感覚。

なんだっけか、これ。知っているのは間違いないのに、思い出せない。そうすぐに思い出せるわけはなく、かと言って思い出すための時間なぞ今はない。でも、気になるので今日は目薬をなくさないように、スーツの内ポケットに入れておこう。そして今日のアポイントメントをさっさと終わらせてしまうのだ。


 夕方になって、日が暮れ始めると、日中と比較して目の痒みもマシになってきた。この時間になってくると目薬の出番もなくなってくるのだが、帰社後の雑務で目が疲れた時にも大活躍だ。

花粉や黄砂のせいにしてはいるが、何だかんだ年中手放せない。なのに何故かこの時期だけ目薬が消えてしまう。

そんなに思い入れがないのが原因なのだろうか。外に持ち出すのがいけないのか。真相は持ち主本人の僕もわからないのだから、そんなことを考えていても仕方がないと思う。

打合せ後の疲れた目に、また目薬をさす。ふんわりと、またあの匂いが鼻と喉の間に広がる。何度かこいつを使ってみたけれど、この匂いが何なのか未だに思い出せないでいる。

コンビニでペットボトルの炭酸飲料を買って会社へ帰る。日中はコーヒーが主体なのだが、夕方になってくると炭酸が飲みたくなるのだ。一種のルーティンになっているのだと思う。

席に戻って、ネクタイを緩め、パソコンと資料を鞄から出したが、先客として社内回覧のファイルが山積みになっていたので、再起動の間にパラパラとめくっていく。特に欲しい情報があるわけでもなく、共有したいわけでもない。無意味ではないにしろ、僕にはそんなに関係のないことだ。

ペットボトルからプシュと音を立てて炭酸ガスが漏れたのを確認して、喉を潤す。回覧ファイルには、何故か旅行会社からの案内パンフレット。ゴールデンウィークも間近だというのに、今回覧されてももう予約なんてできないだろう。

パンフレットの表紙には、海だとか海外の写真がレイアウトされていて、いかにも楽しげな雰囲気をありきたりなコピー文で飾られている。原色の踊るデザインに目が痛くなってきた。

もう一度ペットボトルに口をつけ、また目薬をさす。

「あ…」

ふわり。今日何度目かの匂いに、脳ミソが反応を見せた。

そうか。思い出した。


 太陽のひかり。

 けたたましい蝉と、はしゃぐ子供たちの声。

 塩素の匂い。

 プール。

 泳いだ後のラムネ。


脳裏によぎった懐かしい風景たち。

祖父母が亡くなってから、もう何年も田舎へ帰っていない。墓参りは、たぶん実家の父が行っているはずだ。なぜ、今それを思い出したのか。

目薬の薬品臭さは、塩素交じりのプールの匂いにそっくりだった。

田舎のプールにありがちな、大量投与された塩素のプールの匂い。子供心に身体に悪そうだなと感じてはいたが、それ以上にわくわくしたものだ。

まだ、鼻と喉に匂いが残っている。仕事に明け暮れすぎて、いつの間にか忘れていた記憶が次々に蘇ってくる。


 鼻がツンとして、鼻の奥と目が熱くなる。ズルズルと湿り始めた鼻をすすり、目をこする。

「まだ、目かゆいんですか?目の回り真っ赤ですよ。それに、鼻。ティッシュあります?」

昼間と同じトーンの事務員の声がデスク越しに飛んでくる。傍目から見れば、僕は花粉症。黄砂だって反応するアレルギー体質だから、目が赤くても、鼻をすすっていても当然なのだ。

慕情に涙したわけではないのだ。

 カレンダーを見ると、あと1週間でゴールデンウィークだ。今抱えている案件も、頑張れば休日出勤しなくて済むだろう。旅行には行けないが、久しぶりに田舎の方へ行ってみよう。あの頃見た景色と同じものが見れるかはわからない。だけど、今思い出した気持ちやいろいろな感情は、きっと僕にとって大事なものになる。

「ほんと、目がかゆくてたまんないですよ。あ、ティッシュください」

向かいから伸びてきたティッシュ箱から3枚ティッシュを抜き、鼻をかんだ。ついでに、目からこぼれている何かも拭き取ってしまう。


鼻と喉に張り付いた匂いが薄くなって、もう一度炭酸を喉に通す。

 この目薬は、なくさないようにしよう。目薬用のストラップなんかあるんだろうか。紐でも括り付けて、ネックストラップに付けられるようにしようか。

右手にはマウス。左手で目薬をもてあそびながら、来週の計画に心を踊らせる。

旅行会社のパンフレットの派手なデザインも、たまには役に立つ。



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