9・混乱
その日の夕方、東十無がマンションの駐車場に到着直後、昇から携帯電話に連絡が入った。
「兄貴、ごめん! アリアの行方がわからなくなった! マンションにいない。ヒロもいない。空港でアリアらしい人物は搭乗していなかったが、変装していたらわからない」
昇は早口になっていた。慌てているようだった。このままいなくなるのではと不安なのだろう。
落ち着かせるために、十無は穏やかな口調でゆっくり伝えた。
「昇、落ち着け。大丈夫、きっと見つかる」
「探しているけれど、何も手がかりがない」
「わかった、俺も探す」
携帯電話を切った十無が、何気なくアリアの部屋を見上げると窓に明かりがついていた。
「いるのか!」
十無は急いで、エレベーターに乗り込んだ。到着するまでの数秒間がかなり長く感じられた。エレベーターの扉が開くとアリアの部屋まで一気に走ってドアを叩いた。
「アリアいるのか? 俺だ、ここを開けろ」
ドアが少しだけ開き、アリアが顔をのぞかせた。
「十無?」
十無はすかさず足先をドアの間に挟んでこじ開け、玄関に入った。
「なに?」
アリアはサングラス越しに、怪訝そうに十無を見た。
「行方をくらますつもりか」
「……」
「昇がおまえを心配して探している」
「十無は?」
アリアはじっと十無を見つめた。
「お、俺も心配していた」
アリアに予想外のことを訊かれて面食らった十無は、視線をそらして答えた。
「どうして顔を背けるの? 前に女の姿で会ってからずっと。私が騙したから? でも、十無をからかったわけでも騙すつもりもなかった」
「そんなことはこだわっていない」
十無はアリアの様子がいつもと違うような気がした。
苛々した態度。攻撃的な言葉。
「本当に? でも十無は私を避けている」
「おまえ、いやに絡むな。酒を飲んだのか?」
「はぐらかさないで、きちんと答えて」
アリアの頬が幾分高潮している。やはりお酒は多少飲んでいるようだった。
「避けているね」
「……違う」
そう言いながらも十無の目は宙を泳ぎ、動揺していた。
アリアは黙って十無を見つめている。
刑事である自分に、どうしろというのだ。何ができる。
十無の胸が熱くなった。目の前で拗ねるような態度のアリアが可愛いいと思った。
十無は不意にアリアの腕をつかんで引き寄せ、抱きしめてしまった。
「俺の前から姿を消すな」
アリアの耳元で消え入るような小さな声で囁いた。
「十無?」
「ごめん、俺は何を」
衝動的な自分の行動を慌てて否定し、アリアを引き離した。
「刑事は嫌いだけれど、十無は好きだ」
そう言って、アリアが十無の襟首を引っ張って、その頬にキスをした。
「お前、誰にでもこういうことをするな」
十無は自分の顔が赤くなるのがわかった。悟られないように、つい口調がきつくなった。
「嫌だった?」
「そうじゃなくて、そんなことをされたら勘違いを……」
十無は口ごもった。
アリアの携帯電話が鳴って、十無はほっとした。
「柚子? 禎さんが? ……わかった、心配しないで。これから連れ戻しに行く」
アリアの声が緊張していた。携帯電話をズボンのポケットにしまいながら、アリアは重いため息を吐いた。
「柚子が退院の手続きをしている間に、家族の者だと言う男が来て禎さんを連れ去ったらしい」
「誘拐? 一体誰がそんなことを」
「私のせいだ」
アリアはすっかり酔いが醒めて冷静になっていた。
「どういうことだ」
「……私一人で来いという内容の手紙が病室においてあったらしい。……あのひとからの。行かなければ」
「お前の母親、美原ななからか?」
「……」
「俺も一緒に行く」
「だめだ、これは私の問題だから」
「心配だ」
「危険なことはないと思う。それに、どちらにしても会おうと思っていたから」
十無の前に手のひらを差し出して、くしゃくしゃになったメモを見せた。それは、アリアが一度ゴミ箱へ捨ててしまった美原ななの住所が書かれたメモだった。
アリアは一度ヒロのいるアジトへ行ったものの気になって、これを取りにマンションへ戻ってきたところだった。
書かれていた住所は美原ななの自宅住所ではなく、山の中腹にある牧場のものだった。
七時をまわり、日も暮れてきていたが、まだ夕焼けが遠くに見えて辺りは明るかった。
のどかな風景が広がっているが、旭川の中心部から車で三十分程度の場所だった。
山道沿いにあるログハウスを何件か通り過ぎ、山の斜面を利用した牧場が見えてきた。道路沿いに目的の建物があり、窓から明かりが漏れていた。小ぢんまりしたログハウスだった。
その側にななが運転してきたと思われる黒塗りの乗用車が止まっていた。
車でなければいけない場所だからと、十無が強引にこの場所まで送ったのだった。
「俺は車で待っている、それでいいか」
「うん」
アリアはログハウスのドアの前に立った。
ポケットには、電源をオフにしたままの携帯電話がある。アリアはヒロに、直ぐ帰ると言って出てきたのだった。
ヒロは心配しているに違いない。アリアは連絡しようとして携帯電話を握ったが、やはりななと話しをした後に電話することにした。
電話したほうが、ヒロを心配させてしまうかもしれないと、アリアは思ったのだ。
アリアは緊張しながらドアを開けた。
目の前に十畳ほどのリビングが広がった。ソファに美原ななが深々と腰を下ろしていた。
「待ちくたびれたわ。そうちゃん、会いたかった」
そう言ってななは駆け寄り、アリアを抱きしめたが、アリアは硬い表情でななの腕を振り払った。
「禎さんは何処にいるのですか」
「あの娘はここにはいないわ、私の家でゆっくりしているわよ」
「直ぐに家に返してください」
「そんなに心配しなくても大丈夫よ、丁重に送り届けるから」
「お願いします、関係ない人を巻き込まないで」
「他人行儀な口の聞きかたね、やっとまともに会えたというのに。それに本当に男の子のようになっちゃって……」
「そんなの、前からでしょう? 用件は手短にしてください」
「我が子にただ会いたいと思ってはだめかしら」
「貴女がそれだけの為に会ったとは思えません」
「ヒロから何を聞いたか知らないけれど、酷い言われ方ね。母さんはただあなたに帰ってきてほしいだけなの」
ななの瞳に涙がにじんでいるのがわかり、アリアは少し罪悪感を覚えた。
「どうして今更」
「そうちゃんのことをずっと捜していたのよ。復縁した後、美原があなたを引き取ることをやっと許してくれたの」
「でも、私がいると……美原は嫌な思いをするでしょう?」
「美原だなんて、どうしてそんな呼び方を」
「私の父親は矢萩孝一なのでしょう?」
「弘文から、聞いたの?」
ななの顔つきがきつくなった。
「ヒロは美原から聞いたと」
「違うわ、私が初め美原に嘘を……」
「嘘?」
「アリア!」
突然ヒロが勢いよく部屋に入り込んできた。
「ヒロ? どうしてここが……」
「お前の帰りが遅いから、もしやと思い、美原の自宅へ行って聞き出した。禎さんも家に帰した。しかし、誘拐まがいのことまでするとは!」
「弘文、邪魔をしないで」
「アリア、泣き落としなんかに騙されるな。こいつはお前に見合いをさせようとしている」
「見合い?」
アリアはヒロが言った言葉をさっぱり理解できないでいた。
「美原工業は今、厳しい経営状況にある。ななはおまえを会社合併の道具に使おうとしている」
「弘文、そんなでたらめを」
「アリア、俺が嘘を言うと思うか? さあ帰ろう」
「そうちゃん、母さんはただ一緒に暮らしたいだけなの。来てくれるわね」
ななは目を潤ませて、今にも涙を落としそうだった。
「勝手に決めないで、私は今の生活を壊したくないから帰らない。でもヒロも私に何も話してくれないから嫌いだ!」
そう言い捨ててアリアは外へ飛び出した。
ドアの側に十無が立っていた。
「聞いていたの」
「心配だったから」
「ここから……離れたい」
十無はアリアを助手席に乗せ、言われるままに車を出した。
無言でじっと外を見つめるアリアが悲しそうに見えたが、東十無はどう話しかけていいのかわからず、黙って運転していた。
FMラジオからは流行歌が流れ、ただ真っ直ぐな道を街とは反対の方角に走らせていた。
「母さんが凄く会いたがっていることに少し期待していた。親の愛情を期待しているなんて子供かな」
「そんなことはない」
十無はそう言うのが精一杯だった。
「……以前柚子に、私は寂しがりやだと言われた。自分でもそう思う」
「俺が、……いる」
「え?」
「いや、……空港が近いな、飛行機でも見に行くか」
「うん」
アリアは十無の言葉を聞き流した。これ以上十無が自分にかかわると迷惑をかけてしまう、そう思ったのだった。
なだらかな畑のなかで、旭川空港の照明だけが眩しく輝いていた。十無は滑走路側の空港を見渡せる道端に車を停車させた。
「結構綺麗なものだ」
「うん」
最終便の飛行機がゆっくりと着陸し、二人は黙ってそれを眺めていた。
「……小さい頃に母が離婚してから、私はずっと一人だった」
アリアはポツリポツリと話し始めた。
「母の『仕事』のせいで引越しを繰り返して友達も出来ず、母は私を放任していた」
十無は軽く相槌を打ち、静かに聴いた。
「そんな酷い状態の時、ヒロが現れて私を連れ去って救い出してくれた」
アリアは微かに笑った。
「その時は本当に嬉しくて、ヒロが神様に見えた。でも……」
アリアはどう言おうか一瞬迷ってから「でも、安らぐことはなかった」と呟いた。
「今の生活からも抜け出せばいいじゃないか」
「それはできない。ヒロには逆らえない、大事な人だから」
「でも、ヒロから離れたら全て解決するんじゃないか」
「ヒロがいなかったら私はここにいない」
十無はアリアの気持ちが理解しきれずに、困惑した表情をした。
「ごめん、変なことばかり話して。答えなんてないのは判っている、自分で考えるしかないんだ」
アリアは自分で結論を出した。
「帰ろうかな、ヒロと顔をあわせるのはちょっと気まずいけれど」
そう言ってアリアは肩をすくめ、苦笑した。
十無が何か言いたそうにアリアの方をじっと見つめた。
間が持たず、アリアは困って十無に笑顔を向けた。
「なに?」
十無に突然肩を強く引き寄せられ、アリアはそのまま抱き締められた。
「アリア、俺を、頼れ」
「十無?」
ぎこちない言葉と緊張が、アリアにも伝わってきた。
十無の、精一杯の気持ちなんだとアリアは思った。
辺りは空港の照明も消え、遠くに街燈が転々と見えるだけとなっていた。