5・アクシデント
東十無は、自分の体がびくりと動いてとび起きた。
「俺は、どうしたんだった? アリアを追いかけていて……。こんなところでじっとしている場合ではない!」
十無は、まだぼんやりしている頭を強く横に振ってから、運転席にいる音江槇を揺り起こした。
「おい、起きろ、槇!」
「え? あらっ私寝ちゃった?」
Dのスプレーで眠りこんでしまった音江槇がようやく目を覚ました。あれから一時間ほど経過していた。
「逃げられたな」
「そうね、でもとりあえずグランドホテルに行ってみましょう」
音江槇は、アリアたちが次に起こす行動を把握していたのか、逃げられても、妙に落ち着いている。
「ホテル? 何か手がかりがあるのか」
「ちょっとね」
「どこからの情報だ」
「ひみつ〜」
「ちぇっ」
十無はその情報に半信半疑のまま、音江槇と共に、グランドホテルへ向かった。
ホテルの正面へ車を着けてドアマンに不審な女性を見かけなかったか訊ねていると、エレベーターから女性が一人降りてきた。
二人を見つけるとその女性は一瞬、逃げるそぶりをした。
十無と槇がそれに気づくと同時に、その女は慌ててエレベーターへ引き返した。
「Dか? 待て!」
咄嗟に十無は追いかけようとするが槇に引っ張られる。
「だめよ、まともに追いかけてどうするの。今捕まえられたら困るの!」
「そんなこと言っても、逃げられたら元も子もないだろ!」
そう言ったが早いか、十無はエレベーターのとまった階を素早く確認して、勢いよく階段を駆け上った。槇も仕方なくそれについて行く。
四階に着いたものの、客室のドアはどれも整然と閉まっていて、Dが逃げ込んだ形跡はなかった。
「見失ったか」
息を弾ませながら十無は周囲を見回した。
「もう、待ってよ〜」
少し遅れて息を切らしながら、槇がたどり着いた。
二人は暫く廊下をうろうろしてその場で様子を伺ったが、手がかりも見つけられず、仕方なく引き返したのだった。
同じころ、東昇は一人マンションに残って隣を窺っていた。
「柚子ともう一人いるようだ。安アパートと違って会話は聞こえないか」
壁に聞き耳を立ててみるが、早々に諦めてソファに寝転がっていた。そうしているうちに昇はうとうと眠り込んでしまった。
暫くして、何やら良い匂いがして昇は眼が覚めた。
「あっ、しまった!」
寝ぼけながら、慌てて飛び起きると、目の前には柚子がいた。それも笑顔で。
「お目覚め? もうお昼よ、お腹空いたでしょ。アリア達昼食べて帰るって言うの、それで余ったからお裾分け。食べてねっ」
香ばしく焼けたピザトーストをテーブルに置いた。
「な、何でお前、隣にいることを知っていたのか。どうやって入った?」
昇はいっぺんに目が覚めた。
「鍵がかかってなかったわよ。何回かインターホンも押したけれど、出てこないし」
「勝手に上がり込むな」
「怒鳴らないでよ、せっかくお昼持ってきてあげたのに」
柚子はむうっと膨れた。
「そう気安く来るな」
柚子は何を考えているのかわからない。何か企んでいるのかもしれない。昇は警戒した。
「だって、何も悪いことしてないもん。それを言ったら昇達だって、いつも気安くアリアの所へ押しかけて来るくせに」
「それはだなぁ……でも最近はあまり」
痛いところを突かれ、う〜ん、と唸ったまま昇は考え込んでしまった。
「もういいよ、ほら冷めないうちに食べて」
柚子にせかされ、昇はピザトーストをかじった。
「じゃあまたね」
「待てよ、お前の他に若い女の子がいるな」
「うん、禎のこと?」
「そいつは何者だ? 苗字は」
「知らない、私の友達だけれど」
「サチか、どっかで聞いたことのある名前だな」
昇は最後の一切れを口に放り込み、うーんと唸った。
「昇の知り合いにサチって言う人いるの?」
「知り合いというか……」
「じゃ、事件がらみ」
「いや、人違いかな」
「あーもう、はっきりして!」
柚子はため息をつき、部屋を後にした。
「そうだ、確か音江槇の妹がそんな名前だったような、でもまさか」
東十無と音江槇はDを見失い、肩を落としていた。
「きっとまたここへ現れる。ここで様子を見ましょう」
「随分確信があるんだな」
「まあね」
二人はエレベーターでロビーに降りた。
「私の情報では二十時に何かが起こるらしいの。でも何のことなのかは……ねえ、あれ」
禎が指差した方向に『青崎幸造個展祝賀会』と大きな看板が立てられていた。
「他にはイベントがないかホテルに確認しよう」
フロントに警察手帳を見せ、尋ねてみたが他には大きなイベントはないとのことだった。
「でも十九時からとなっているわ」
「始まりの時間とは限らないだろう。そろそろ情報の出所を教えろよ、信用していいのか? 全く見当違いだったら大変だからな」
「Dがこのホテルに現れたのがいい証拠よ。間違いないわ、きっと今夜ここで何かが起こる」
「でもこれだけの情報で、所轄が動いてくれるかな」
「呼ばなくていいわよ、何か犯罪が起こるという確証はないし。警察はまだ動かないでいてくれたほうがいいの」
「またお前の都合か、Dが現れたことは報告するぞ」
「仕様がないわね」
不満そうに禎が口を尖らした。
「祝賀会のことも詳しい情報を取ったほうがいい」
「その前におなかすいた」
「ってなあ、夜までそう時間がないぞ」
「でももうふらふら、お昼食べそびれたから」
「じゃあ、そこのレストランで軽く食べよう」
二人は目の前にある一階ラウンジに入った。
ウエイターに席を案内されて、ゆったりした椅子に腰をおろした。
吹き抜けで天井も高く、大きな窓から日差しが入り開放的だが、厚いカーテンが下がり全体が重厚な造りで高級感があった。
「こんなところには縁がないな」
十無が居心地悪そうにしている。
「落ち着かない? 実は私も」
禎はくすっと笑った。
ウエイターが水の入ったワイングラスを置いた。二人ともサンドイッチを注文した。
「サンドイッチで足りるのか?」
「喉に通らないような気がして、ラーメン屋にでも行けばよかった」
「彼氏とデートでこういうところに来るだろう」
「彼氏なんていないもの、こんな仕事じゃあね。十無こそどうなの」
「槇と同じさ」
「昇はどうなの?」
「いるわけないだろ」
「そうよねえ、前にもちょっと聞いたけれど、昇ってあの泥棒と一緒にこっちに来て行動していたのよね。一体どういう関係? なんだか、その少年のことが……好きみたい」
禎は聞きづらそうに口に出した。
「はは、そうかも」
十無は少し困った顔をして、自分に確認するようにそう言った。
「そっかあ、男の子に負けちゃうかなあ私。ちょっとショック」
「槇、もしかして昇のこと……」
「あ、今のは聞かなかったことにしてね。それより、ひょっとして十無もその少年が好きなの?」
「お、俺は違う!」
十無は慌てて否定した。
「怪しいわね、まあいいけれど」
槇は疑っているように言った。
「そうだ、署に連絡するのを忘れていた」
話しをそらすように、十無は携帯電話を懐から取り出した。
「もう、もっと訊きたいのに」
槇は運ばれてきたサンドイッチをほおばりながら、十無が電話をしている最中、ずっと文句を言っていた。
「……単独行動をするなと起こられたよ。でも、若干名来てくれるそうだ」
十無は携帯電話を内ポケットにしまった。
「あら、警察が来るの? やりづらいわね」
「槇が持っているアリアの情報、きちんと聞いていないが、本当に何か知っているのか?」
「もちろん。でもこの祝賀会終わってから教えるわ」
「俺の方がなんだか不利だな」
「そう?」
軽食を取り終えると、祝賀会開催者に警備のことを説明するため、十無は所轄刑事と合流した。槇は昇を迎えに行き、祝賀会会場へ戻ってくることにした。