4・下準備
「君はいったい何者だ」
ヒロの口調が厳しくなった。
「何者っていうほどの者じゃないわ。その筋の情報を持っている家族がいて、ちょっと反抗期で家族に反発していて、で、正反対の職につきたいってだけよ」
そう言ってから、禎はたいしたことでもないのに、そんなに怖い顔をしなくてもと小さな声で付け加えた。
「サツか!」
ぎょっとしてヒロは声を荒げた。
「違うわ。そんなことより、役に立つわよ私」
「信用できない」
ヒロは厳しい態度を崩さなかった。
「どうしたら信用してくれるの?」
「そうだな、そちらさんの情報を流してくれたら信用してもいい」
「いいわ、決まりね」
禎は少しほっとして、にっこり笑った。
朝食が終わり、ヒロとアリアがそれぞれ出かける準備のため部屋に引っ込むと、キッチンで後片付けをしながら柚子が禎にそっと訊いた。
「ねえ、あの二人の何を知っているの?」
「半分はったり」
禎は舌を出して肩をすぼめた。
「少しは知っているの?」
「知りたい?」
禎はもったいぶるように、一呼吸間をおいてから、話しを続けた。
「美原博一という資産家の息子が失踪というか家出しているの。それがヒロさんではないかしら」
それは柚子も知っている情報だった。禎は悪い人間ではないと柚子は思っていたが、アリアたちに何らかの形で迷惑をかけてしまわないように、知らないふりをした。
「はっきりしないの?」
「その息子の名前は弘文。ヒロさんが息子に違いないと思うのだけれど、一つだけ当てはまらないことが……美原博一の子供は一人だというの。でもヒロさんとアリアさんは兄弟なのよね?」
「じゃあ、それはヒロとは違うんじゃない?」
「それがね、まだ不確かなんだけれど美原博一にはもう一人子供がいたという情報があるの。その子は、別の場所で育てられていたらしいの。ということは、隠し子かしら? それがアリアさんなのかも」
アリアは隠し子ではない。だが、妻のななと矢萩孝介との仲を疑っていた美原博一が、アリアを我が子と認めていなかったとしたら。
不倫の結果、生まれてきた子供。夫の子供として育てる母。自分の子供ではないと疑う父。
子供はなぜ自分が父から疎まれているかわからない。
アリアは多分、そんな子供時代を送ったのだ。
柚子はそんなふうに想像しただけで、目頭が熱くなった。
「ふうん。でも、それって別人じゃないの?」
柚子は洗い終わった皿を片付けながら、涙声にならないように注意して言った。
「でも、お姉ちゃんが調べて――。でも、私はそうだと思うわ」
禎は言いかけた言葉を途中で変えた。
お姉ちゃんが調べた。
柚子は聞き逃さなかった。禎にはお姉さんがいて、そのような情報を手に入れることができる職業なのだ。
警察か、興信所か。
柚子は禎のことを少しばかり警戒した。
一方、口うるさい柚子と禎を何とかマンションに残し、アリアとヒロは車で出かけたのだった。
重いアタッシュケースを一つ積んで。その後ろにはしっかり尾行の車がついている。音江槇と東十無刑事だ。
「あのお二人さん、ぴったりついてくる」
ヒロがバックミラーをちらりと見た。
「昇がいない、どうしたのかな」
「おまえ、あいつらのこと名前で呼ぶのはやめろ。そんなに親しいのか」
「そういうわけじゃないけれど、双子だしつい名前で呼んじゃうんだよね」
「刑事は刑事と呼べばいい」
「……うん」
「あまりかかわるな」
アリアは俯いた。
「この辺りに停めるか。例のケースは重いから俺が持つ。ちゃんとついて来い」
「わかった」
ヒロはアリアの返事を聞かないうちに、街中の雑居ビルが並ぶ一角に車を路駐したかと思うと、するりと車を降りて古ぼけたビルの中へと姿を消した。アリアも慌ててついて行く。
刑事達の車もそれに続いて停まった。
「どうする? 多分あのビルだと思うけれど」
「音江、この場所は知っているのか?」
「いいえ、初めて。誰かに会うのかしら」
二人が車を降りようとしていると、女が一人、車に近寄って窓をこんこんと叩いた。思わず十無が窓を開けると、同時に勢いよくスプレーガスが車内に充満し、程なく二人は眠りに着いてしまった。
その頃、アリア達は狭く薄暗い階段を上り、以前は事務所だったらしい部屋にいた。
最近慌ただしく閉めたのか、中はまだ机などの備品がそのまま残り、幾つかの段ボール箱には書類らしきものが入り、散乱したままになっていた。
その奥の部屋でアリアはヒロの指示通り、淡いグリ―ンのワンピ―スに着替えて女性の姿になっていた。
「あいつ遅いな」
ヒロは事務所の窓から外をうかがった。
「つけられていたわよ」
不意に、どこからか女の声がした。
「何処にいる」
二人は辺りを見回すが人影らしきものはない。
「つけられているのなら何とかしてから来てちょうだい。まったく、世話が焼ける。眠らせておいたわ」
まだ姿はないが、聞き覚えのあるハスキーな声。
アリアは今回誰と会うのか、どういう計画なのかは全く知らされていなかった。
「こいつはアリアだ、隠れる必要はない。いい加減出て来い」
「上にいるわよ。ちゃんと見つけなさい」
見上げると天井の一部が開いており、そこからすらりと白い足が見えている。ヒュンとその足が下りて来たかと思うともうアリアの前に立っていた。黒の膝上までのスパッツをはき、派手な柄のTシャツを着ている。
Dだった。
「ハロウ、アリアちゃん、随分可愛くなっちゃったわね。この前とは大違い、その格好のほうが素敵よ。あの図々しい柚子は元気みたいね」
たじろぐアリア。それにはお構いなくDは話し続けた。
「気をつけなさいよ、あの娘は要注意よ。ワルなんだから」
以前、暗闇の中で聞いた声。
Dと昼日中に間近で会うのはアリアはこれが初めてだった。
ふわりとしたロングヘアーを無造作に下ろし、色白の美人でほんのり頬が赤かった。落ち着いた声だったので、アリアはもっと年上の女性を想像していたのだが、実際は二十七、八歳ほどだろうか。
「また酒を飲んでいるな、大丈夫なのか」
ヒロは顔をしかめた。
「景気づけに少し飲んだだけよ、ヒロも飲まない?」
何処にあったのか、手品のように水割りの入ったグラスがヒロの目の前に現れた。
「遊んでいないで用事を済ませるぞ」
ヒロは呆れ顔だ。
「つまらない男ね」
そう言ってヒロの顎を指先で撫ぜると、渋々グラスを埃っぽい事務机に置き、ヒロが持って来たケースを引き取り、中を確認した。
そこには札が三十束ほどと、布袋にダイヤと思われる大きめの石が十数粒入っていた。
Dがそのうちの一束を取りぱらぱらと確認すると、下のほうはただの紙切れだった。次にダイヤも一粒手に取り小さなルーペで眺めた。
「ふん、よくできているわね」
「偽物なの? ヒロ、もう教えてよ。いったい何をするの」
「そのうちわかる」
ヒロがぶっきらぼうに答えた。
アリアはDとヒロの親しそうなやり取りを見て、疎外感を感じたのだった。そして、胸が熱くなるような感覚が込み上げてくるのを自覚した。
そんな感情は初めてだった。
一行はビルを出てヒロの運転する車で移動した。
「肝心なところは教えてくれない」
アリアはポツリとそう言って、ヒロの方をちらりと見た。だが、返答はなかった。
「ヒロ、アリアちゃんだってもう子供じゃないわ。教えてあげたら?」
後部座席からDが見かねて口を挟んだ。
「いいやこいつはまだガキだ」
「もう、ヒロは過保護なんだから」
Dは二人に聞こえないくらいの小さなため息をついた。そして風にそよぐ街路樹を目で追った。
「ついたぞ」
ヒロはぶっきらぼうにそう言うと、ホテルの正面を避け、路駐している車にまぎれるように停車した。
「それじゃあ私は準備をしてくるわ」
Dは例のケースを持ってホテルのレストラン側にある入り口へすっと消えた。
「ヒロ、いつもはこんなに下見や準備なんてしないのにどうして?」
アリアがちらりとヒロの顔色を窺いながら言った。
「今回はそう簡単にはいかない」
そっぽを向いたまま答えた。
「他に何かあるの?」
「いいや別になにもない」
ヒロはきっぱりと断言した。
「母さんにも関係があるの?」
「……」
ヒロは無言で、答える気などなさそうだった。
「で、私はいったい何をするの?」
アリアはこれ以上詮索するのは無理だと感じ、話題を変えた。
「お前にはこれを持って行ってもらう」
そう言ってヒロは、上着のポケットから小型の置時計のようなものを取り出してアリアに渡した。
「え? 爆弾?」
「違う。いいからこれを三階のトイレにでもわからないように置いて来い」
「……」
よく分からないままアリアは車を降りた。
「ひょっとして私はこのためだけに変装させられたのだろうか」
ぶつぶつ言いながら、アリアは実行してきた。
「ご苦労さん、じゃあ帰るぞ」
「Dは?」
「ここに残る。心配するな、大丈夫だ」
アリアは口答えもできず「ふうん」と、生返事をするしかなかった。
「食事でもして帰るか」
「でもきっとマンションで柚子たちが待っているよ」
「二人で適当にやっているさ」
「……」
アリアはヒロがこの格好をさせた理由がはっきりわかった。食事に出かけるためだと思った。