10・告白
二人は車中ずっと無言のまま、十無は誰もいないアジトにアリアを送った。
「俺は明日東京に帰らなければならないから」
そう言って、十無は静かに帰って行った。
アリアは十無にもう少し側にいてほしいと思ったが、結局何も言えず「そう」と返事をしただけだった。
それから数時間後の午前零時過ぎ、ヒロはアジトに戻ってきた。
「ななを脅して釘をさしておいた。暫くは大丈夫だと思うが、絶対に一人で会いに行くな」
開口一番、ヒロはアリアにきつく言った。アリアにはそれは『命令』のように聞こえた。
「もう、刑事と行動するな。わかったか」
アリアは「うん」と返事をするしかかなかった。『服従』アリアの頭の中にその言葉が浮かんだ。
ヒロの威圧的な態度は、幼い頃の微かに残った記憶にある、美原博一のアリアに対する冷たい態度を思い起こさせた。
似ているのだ。ヒロは心配して色々言うのだろうが、アリアは反感を募らせてしまうのだった。
ヒロにそっと抱きしめられても、アリアは寂しさから抜け出せないでいた。
翌朝、午前八時過ぎ、ドアを強くノックする音でアリアとヒロは目を覚ました。
「アリア、ヒロ、いるのはわかっている。ドアを開けろ」
ヒロは玄関前がよく見える二階のカーテンの隙間から、外を確認し、「くそ、あの探偵か」と言って舌打ちをした。
「アリアが刑事に送ってもらったりするから、ここが知れてしまった」
まだ部屋で寝ているアリアに、ヒロは文句を言った。
アジトは住宅街にある二階建ての古い一軒家で、玄関先は雑草が伸びて荒れており、人が住んでいるようには見えない。十無から聞いたのだろう、昇はこの場所から離れそうになかった。
ヒロは騒がれても困ると考え、すぐに階段を駆け下りてドアを開けた。
ヒロは「うるさい、さっさと入れ!」と言うが早いか、昇の腕を鷲掴みして、玄関に引き入れた。
「痛って〜! 全く乱暴だな」
昇はよれた襟元を直した。
「お前が朝っぱらから騒ぎ立てるからだ」
「なかなかドアを開けないのが悪い」
「何しに来た」
「ことの真相を聞きに来た」
「お前に話すことなどない」
「そうはいかない、俺も大体の筋は掴んでいる」
「じゃあそれでいいだろう」
「いや、確認したいことがある」
「しつこいな」
ヒロはあからさまに嫌な顔をした。
「ねえ、どうしたの?」
アリアが着替えて、階段を下りてきた。
「昇? 十無と一緒に東京へ帰ったんじゃなかったの?」
「今回の騒動の真相を知るまでは帰れない」
厄介な探偵を追い払う術もなく、ヒロは仕方なく昇を居間へ通した。
「アリア、柚子を迎えにいって来い。おまえ、俺の書いたメモを持ってきてしまっただろう。きっと柚子が心配しているぞ」
「……わかった」
携帯電話で連絡を取れば済むことだと思ったが、アリアはヒロが席をはずさせようと考えているのがわかったので、仕方なく出かけることにした。
ヒロは窓をのぞいて、アリアが玄関を出て行くのを確認し、タバコを一本取り出した。
「あいつがいると吸えないんだ」
ヒロでもアリアの言うことに耳をかすこともあるのかと、昇は意外に思った。
二人はがらんとした何もない居間の床に、向かい合わせに座った。
「アリアが帰るまでの間だけ話しに付き合う。それ以上はだめだ、いいか?」
昇はうなずいた。
ヒロはタバコをくゆらせ、漂う煙を眺めている。話すのをためらっているようだった。
「おい、アリアが帰ってきてしまう」
「せかすな、そんなに早く帰っては来ない」
吸い始めたばかりの煙草を銀色の携帯用灰皿にもみ消しながら、ヒロはふっと煙を吐き出した。
そして、ヒロは面倒そうにやっと口を開いた。
「何が聞きたい?」
「美原なながネックレスはあると言っているが、どうやらなくなっているようだ。やはりお前とDの仕業か」
「さあね。ま、これ以上俺とアリアに構うなと警告はした」
「警告って、あの偽ダイヤと模造紙の札で、警察に連行させて慌てさせたということか。……それで、美原夫人と何を話していた?」
「……俺はななに会ってもう一度確かめたいことがあった、ただそれだけだ」
「何を?」
「言えない。何だ、事件のことを訊きたい訳じゃないのか」
「アリアのことを知りたい。……そのことはアリアにも関係があるのか?」
「……ある」
「何故アリアと美原夫人を会わせない? アリアは会いたがっているようだが」
「……」
ヒロは黙ってしまった。
「あいつが辛そうなのを黙って見ていられない。……話してくれないか」
「話してどうなる」
「どうなると言うわけではないが……」
「ふん、まあいい。熱意だけは認めてやる」
ヒロは変な褒め方をして苦笑し、再び煙草を取り出すとマッチで火をつけた。
「話しても解決しない問題だ。俺にとっては重要だが、お前が聞いたところで何の意味も持たないことだ」
ヒロはそう言ってから少し考え込み「ただ、……俺の気持ちがすっきりするかもしれん」と呟き、ため息と共に煙を吐き出した。
「聞いてくれるか」
ヒロが煙草をくわえたまま、ちらりと昇の顔を見たので、昇は無言で頷いた。
「アリアには聞かれたくなかった」
俯いて、ヒロは言葉を搾り出すように言うと、話しを続けた。
「……美原ななは知っての通り、俺の父親と結婚して俺の義母になった。ななはその前、結婚詐欺師だった。はじめ、ななは美原と本気で結婚する気などなかった。詐欺のカモにするために美原に近づいたってわけだ。ななは同時に矢萩孝介という男もカモにしていた。だが、ななに誤算が出た。矢萩には妻がいたのだ。ななにとって悪いことは続き、自分が妊娠していることに気づいた。どうにもならなくなったななは、美原に妊娠したことを告げ、結婚したのだ」
ヒロは他人事のように淡々と話した。冷静に見えたが、目だけがぎらぎらしていた。感情を押し殺しているが、ヒロの瞳には怒りが宿っていた。
陽気な日差しが、居間を照らしているというのに、昇はひんやりとした寒気を感じたのだった。昇は片膝を立てて、身じろぎせずに聞き入っていた。
「美原は、ななが結婚詐欺師とは露知らず、お腹の子が自分の子供だと、疑うことなくななと結婚した。幼いときに母親が病死して母を知らずに育っていた六歳の俺は、新しい義母に甘えた。ななは美しく、優しかった。入学式では自慢の義母だった。絵に描いたような幸福な家庭だった。アリアが生まれるまでは」
ヒロの声が止まった。
眉間にしわを寄せ、銀色の携帯灰皿を懐から取り出して、煙草の灰を落とした。
何が語られるのか。昇は話の続きを待った。
「アリアが生まれた直後、美原の耳に矢萩の存在が知れたのだ。ななは結婚してから矢萩とはまったく切れていたようだが、過去のことがばれたのだ。結婚詐欺師だったことも。同時に付き合っていたことも。美原はななを責めた。そして、アリアが矢萩の子ではないかと疑ったのだ」
ヒロは短くなった煙草をもみ消して立ち上がり、昇に背を向けてベランダの窓辺に立った。
過去を振り返るのが辛いのか、ヒロにためらいが見えた。
「家庭はぼろぼろだった。美原はアリアを嫌い辛く当たった。見かねたななは別宅の家政婦にアリアを預けた。両親は顔を合わせれば喧嘩だった。そんな生活が五年続いた。とうとうななは美原に言った。アリアは矢萩の子なのだと。当然、即離婚となった。矢萩の妻が病死したと知ったななは、離婚になることを計算づくでそう言ったのだ。そして、あの女は五歳のアリアを連れて矢萩の元へ走った」
酷い母親さ。ヒロは低い声で呟いた。
アリアは生まれてから父親に愛されず、実の母親とも離されて育ったのだ。
温かい家庭を知らないアリア。ふと見せる寂しそうな表情は、そんなところから来るのだろうかと昇は思った。
「俺はアリアが忘れられなかった。別れ際、母親に連れられたアリアは、涙を堪えて家を出て行った。『お兄ちゃん』と呼ぶ、心細そうな声がいつまでも頭から離れなかった。あいつを守ってやれるのは生まれてからずっと、俺だけだった。俺はどうしても会いたくて、こっそり矢萩の家に会いに行ったのだ。だが、すでに家を引き払った後だった。お前も知っていることだが、矢萩はななが籍を入れる前に交通事故で死んでいた。まだ籍を入れていなかったななには、遺産はまったく手に入らなかった」
ななの思い通りにはいかなかったのさ。
ヒロはななをさげすむように鼻で笑った。
悪いことは何故続くのか。アリアはいつ安住できたのだろうか。
普通の家庭で何事もなく育った昇は、言葉がなかった。
「俺は一年、二年と過ぎてもアリアを忘れなかった。見かねた親父は、俺とアリアが血の繋がらない兄弟だと俺に告げた。不倫の末にできた子だと。何故、アリアにだけ親父が辛く当たるのか、それでやっと理解できた。だが、アリアには何の罪もない。俺は親父に、アリアを探し出して、引き取ってくれと頼んだ。親父は取り合ってくれなかった」
ヒロは煙草に火をつけては、すぐにもみ消した。その回数が徐々に多くなった。銀色の携帯用灰皿は吸殻で一杯になっていた。
昇はヒロの口が重くなってきたように感じた。
「親父は離婚後、仕事が全てになった。俺のことも会社を継ぐ人間としか見ていないとわかったとき、親父とは口をきかなくなった。俺は高校生になると、少しでも早く家を出るために、バイトで金を貯めた。冷え切った居心地の悪い家にいたせいだろうが、俺はアリアを忘れなかった。幼いあいつの笑顔、俺に笑いかけてくれたあの顔を思い出すときだけ、俺の人間らしい感情が呼び戻される感じがしたのだ」
煙草の煙が部屋を曇らせるほどになっていた。昇はタバコを吸わないので、煙草のにおいが鼻についた。
煙はヒロの苛々に比例しているようだった。
「探偵のバイトもした。そのバイトはアリアを探すのに好都合だった。ノウハウを教えてもらい、すぐ活用した。そして、とうとうアリアを見つけたのだ。十三歳になっていたアリアは、幼い頃のような笑顔はなく、醒めた表情で俺を見た。俺は一目見ただけで、アリアがどれだけ苦労したのかよくわかった。だから俺はアリアを連れ去った。ななはまた結婚詐欺で稼いでいたのだ。そのためにアリアは転居を繰り返し、まともな生活をしていなかった。あれは養育放棄だ。俺がアリアを探し出すまでの約八年間、あいつは一人で生きてきたようなものだ。俺はすぐに大学をやめて家出し、二人で暮らした。五歳のときに会ったきりだったから、アリアは俺のことを覚えていなかったが、少しずつ俺に心を開いた。……それからの生活はとても充実していた」
ヒロは疲れたように額に片手を当てて、大きく息をついた。話はまだ続いた。
「ななはアリアを取り戻すためにずっと俺達を探していたようだ。そして、三年が過ぎたある日、ななは俺に接触してきた。俺はアリアを帰す気はないといった。そのとき、ななはアリアの本当の父親は美原博一だ、俺とアリアは異母兄弟だと告げたのだ。そして、俺を嘲笑った」
「アリアは知らないのか?」
「知らない。俺は言えなかった。アリアを……愛していた」
ヒロはしっかりと組んだ両手を額に押し当てて俯き、目を伏せた。昇にはヒロの肩が震えているように見えた。
「かなり落ち込んだ。俺はアリアの側にいられず、しばしばアリアを一人にしておくことが多くなった。一時はいろんな女の所へ泊まり歩き、かなり自暴自棄になった時期もある。悪いことは一通りやった。そんな時、いつものように暫く外泊していた俺をアリアが探して見つけ出し、連れ戻しに来て……」
ヒロは大きくため息をついた後、一層口が重くなった。
「……帰って来てと懇願されたことがあった。あいつと一緒に帰ったが……俺は気丈でいられなかった」
ヒロは幾分顔を上げ、昇の目を見つめた。
「俺は……薬を盛ってあいつを……アリアはこのことを、知らない」
昇は絶句した。
ヒロは、抱いたのか。父親が同じかもしれない弟……(いや、妹かも)のアリアを。
昇はショックを受けた。アリアが知らないとはいえ、二人がそんな関係だったとは。
「今年の二月頃も、側にいることが辛くなってアリアから逃げた」
昇がアリアと一緒に柚子を探しに旭川へ行ったときだ。ヒロはアリアをつれて旭川に残った。二人でいて、ヒロは辛くなったのだろう。
「何度も、吹っ切ろうとした。そして毎回挫折した」
昇は黙って耳を傾けるしかなかった。
「……今回、もう一度本当に異母兄弟なのかとななに問いただしたら、今度はわからないと答えやがった。同時に付き合っていた男がいて誰が父親かわからないと言った。ななはアリアを連れ戻すために何を吹き込むかわからない。だから会わせたくない」
ここまで話し終えると、ヒロは少し自嘲的な笑みを浮かべ、胡坐をかいている足を組みなおした。
「……複雑、だな」
そう言うほか、昇には言葉が見つからなかった。
アリアとヒロは深いところで支えあっているのだ。相手が好きだというだけではない、深いつながり。自分が生きるために必要な相手なのではないか。
この二人の間に、入り込む余地はないのだろうかと、昇は思った。
「探偵、お前あいつのこと好きだと言っていたな」
「ああ」
「お前はあいつを支えられるか?」
面と向かってそう言われると、昇はすぐに肯定できなかった。
「……支えているつもりだ」
「そうか……つまらんことを話したな、忘れてくれ」
ヒロは最後に残っていた煙草を取り出し、口にくわえた。
「俺はあいつの側にいてはいけない存在なんだ」
ヒロは昇に聞こえないくらい小さな声でそう呟いた。