177
墓地を散歩するのが好きだった。家の近くに大きなのがあったのだ。てかてかした石がわんさか立ち並んでいる。その下にはおびただしい数の骨だ。死が所狭しと埋まっている。参りに来た人間たちはどいつもこいつもまじめな顔をして歩いていた。おれもいつか死んだらああやって頭から水をぶっかけられるのかなと思った。安いビールを供えられたりして。
不思議なことだが、墓地から帰ってくるとよく宴会の夢を見た。満開の桜が咲き誇るその下でほっぺたを真っ赤にした老若男女がほやあっとした笑みを浮かべているのだ。九十を過ぎたようなじいさんも飲むし、まだ満一歳だって迎えていないだろう赤ん坊も盃から手を離さない。悪酔いするものは誰もおらず、みんなただただ笑っている。ほやあっ、ほやあっ、ほやあっ。
そうだよなあ――おれは思う――死ねば税金も払わなくていいし、いじめっ子から嘲笑されなくていいし、意味のわからないうんこたれからレイプされることもない。死ぬって平和だなあ。
墓地を散歩をして、夜になり、まだ歩き足りなかったので、街に出てみた。駅近くの跨線橋を渡っていたら、一人の男子高校生が欄干をまたごうとしていた。電車は間もなく来そうだった。おれはそいつから五メートルの位置でその姿を見守っていた。そいつは怖けているのか、なかなか飛び降りなかった。ふとおれのほうを見た。
「やめろって言うんですか」
「いや別に……」
「あなたさえいなければ飛び降りられたのに……」
そいつはなぜか欄干から足を下ろした。おれはおれを言い訳にしてそいつが自由への一歩を踏み出すのを諦めるのが不愉快だった。こいつはたぶんもう三十分も一時間もここにいたに違いなかった。そして止めてくれる人が現れたらその通りにやめて、その善人様に警察からの感謝状を与えてしまうのだ。茶番と呼ぶにふさわしかった。
おれはそいつを素通りして跨線橋を渡り切った。足音がついてきていることはわかっていた。振り返ると、そいつは顔をくしゃくしゃにして泣いていた。
「わざと話しかけなかったんですね」そいつが言った。「僕を刺激せず、考え直させるために」
「いや別に……」
「僕は……僕は……生きたいっ!」
こいつの情緒がよくわからなかった。なんだか違う星の生き物に見えた。家に帰ろうとしてもそいつがついてくるので、遅くまでやっているファミレスに入った。ドリンクバーとフライドポテトを頼んでそいつと向かい合った。そいつは今野と名乗った。
「僕はいじめられているんです」
「じゃれてるだけだよ」
「いえ、いじめです。教科書に落書きされました」
「ほかに書くところがなかったんだ」
「机に蜂の死骸が入ってたんですよ!」
「生きてないだけよかっただろうが」
今野はメロンソーダばかり飲んだ。おれが食べるつもりのフライドポテトをあらかた平らげた。クチャラーだった。いじめられて然るべきだ。
「とにかく帰りな」とおれは言った。「ママにでもパパにでも伝えなよ。それでもなんともならなかったら、ここはそういう世界だと思って受け入れるんだ」
「できません」
「やるんだよタコ。この世は刑務所なんだ。刑務作業だと思ってやるんだよ」
もう一度フライドポテトを頼んで、それもまた今野が平らげてしまったところで、おれたちはファミレスを出た。会計はおれが持った。これほど指が放したがらない千円札というものはいままでになかった。
「いいな、ママやパパ、いないなら身近な大人に話せ。それで無理なら君の世界はそういう世界だ。逃げるなりなんなり好きにしろ。どんなにむかついても殺すなよ。そんなことをして、あとあと面倒になるのは君だからな」
おれは言うだけ言って歩きだした。今野はついてきた。
「おい、おれの家には女しか上げないんだよ」
「あの……師匠」
「なんだって? ええ?」
「師匠! 連絡先を教えてください!」
何も渡さなければどこまでも付きまとわれそうだった。おれは今野に書くものを要求した。今野は水に落としたことのあるらしいしわしわのノートをおれに差し出し、サインペンをよこした。おれはそのノートに177と書いて渡した。
「帰るまで見るんじゃないぞ」
「なんでですか?」
「なんででもなんだよ。大人の世界のマナーだ。わかったら早く帰れ」
今野はやっとおれを解放してくれた。おれはいつもより遠回りすることになったこの夜の散歩を終えて家に帰った。それから風呂に入り、ビールをひと缶空けて、布団に入った。今野は明日の天気について学校中の誰よりも詳しい。きっとすぐに人気者になるだろう。おれは安心して眠りについた。
しかしその夜の夢は散々だった。いつも桜の下で酒ばかり飲んでいる連中が、寄ってたかっておれを責め立てたのだ。死のうとしている少年にあんな態度を取るなんて、と言うのだった。老人も赤ん坊もおれをにらむ。我慢ならない。おれはそいつらに向かって、黙れ死人ども、生きるってのは大変なんだ、文句を言うやつは肝臓をやっちまえと言い返した。目を覚ますと、汗をびっしょりかいていた。やはり目的もなく墓地を歩くものではない。ばかやろうどもに取り憑かれてしまってからでは遅いのだ。
季節が夏になると、あまりにも暑いので散歩しなくなった。おれが墓地に行くのは過ごしやすい時期だけで、盆であれいつであれ自分の墓参りというものはしない。おれの先祖がおれにそんなことを求めるとも思えなかった。
そうである。ちょうど盆の時期だった。昔の友人から久々に飲みに行かないかと誘いが入ったのだ。行ってみると、そいつはほかにも何人も古い友人を呼び寄せていた。そうしてしきりに自分が連れてきた恋人を自慢していた。その女は昔アイドルをしていて少し売れたことがある女で、おれでも見たことがあった。その古い友人は、昔からモテるということがありえない男だったので、そういう恋人ができて自慢せずにはいられなくなったようだ。みんなやさしいので、「どうやってこんな美人を騙したんだ?」なんていうふうに、そいつが喜びそうな聞き方をしてやったりしていた。
トイレからその宴席に戻ろうとしたら、一人の女が前から歩いてきた。おれは元アイドルの女よりもこっちの女のほうが好みだった。それもそのはずで、その女はおれの元恋人だった。名前を有紗という。もう少しで同棲するというところまで行ったが、魔が差したおれが別の子のおっぱいを揉みにのこのこ出かけて行ったのをどういうわけか知られて、お別れすることになったのだった。相変わらずショートヘアにしかしない女らしく、すぐにわかった。彼女はおれを素通りしようとした。おれがその腕を掴んだ。
「なに?」と彼女が聞いた。「声上げるよ」
「なあ、椎名愛ってアイドル知ってるか?」
「はあ? なに?」
「だから椎名愛だよ」
「ごめん、なんの話かわからない。放さないなら声上げるけど」
「あっちにいるんだよ」
「え?」
「椎名愛」
有紗はすぐにそっちに向かって行って、握手してもらっていた。ファンだったんですと伝えることができて満足そうだった。有紗は自分のテーブルに戻ってきた。女友達と二人で来ていたようで、おれはその友達とはじめましてなどと挨拶を交わしていた。
「なんであんたがいるわけ」戻ってきた有紗がおれを見て言った。
「あんなテーブルにいられるかよ。あいつ自慢しかしねえんだぞ」
「有紗の友達だって聞いたけど」と女友達のほうが言った。
「大昔のね」
「へえ、有紗に男の友達がいるなんてね。どっちかといえば男性不信だと思ってたのに」
「だから大昔だってば」
「なんだ男性不信なのか」とおれが言った。「なんでだ?」
「いっぺん死んでみたら?」
「そんな言い方ないよ有紗」と女友達が言った。「この人、有紗が好きなアイドルのことを覚えててくれたんでしょ?」
どうやらこの女友達は初対面でおれにある程度の好印象を持ってくれたようだった。味方を得るというのは心強いことだ。有紗も友達の言葉には特に言い返さなかった。おれはこの二人と一緒に少しのあいだ飲んだ。
女友達はいい女だった。話の振り方でそれがわかる。誰も退屈させないように話題を配ることのできるタイプだった。顔もよく見るとタヌキに似ていてかわいい。なによりおっぱいが大きい。大きなおっぱいはあらゆる欠点を美点に変えるというのは古来言われ続けていることだ。
「邪魔しちゃったからさ」
おれは二人に奢ることにした。それから店を出て、その女友達に連絡先を聞いた。女友達はスマホを取り出したが、それを有紗が押さえた。それからおれに距離を取って、二人で何か話している。戻ってきたときには、女友達のスマホはカバンに仕舞われていた。
「ごめん、有紗に説得されちゃった」
「何を言われたの」
「あんたの悪行の数々よ」と有紗が言う。
「仕方ないんだよ。人間という漢字にはあやまちという読みがある」
「ほら行くよ」有紗が友達の手を引いた。「こんなのに付き合ってられない」
二人は離れて行った。少し行ったところで、女友達のほうが戻ってきた。
「また有紗に連絡してあげて」
「ブロックされてるよ」
「たぶんだけど」彼女は小声で言った。「されてないよ」
二人は夜の闇に消えて行った。そのあと自慢ばかりする友人のところには戻らずに家に帰った。有紗にメッセージを送ろうかと思ったが、結局やめた。おれが別の子のおっぱいに惹かれてしまう事実は変わらないのだ。有紗はどうしようもないほどの貧乳だった。すべてがうまく回ることはない。
驚くべきことだが、おれはその夏から働くことにした。昔まぐれで手に入れた大金が預金通帳から少しずつ減っていくのを見て危機感を覚えたのだった。――いや、違うかもしれない。本当は有紗とその友達が仕事の話をしているのを見て羨ましくなったのだ。おれも「月曜日だり〜」とか言ってみたくなったのだ。そういう愚痴は合鍵みたいなもので、それを持っている人間だけに立ち入ることのできる人間関係というものがあった。
まずバイトから始めた。しかしそこの主任は、いわゆる立派な人だったので、おれと反りが合わなかった。ダンボール箱に商品を詰めていればいいだけの仕事だったが、ちょっと雑に扱っただけで「おい!」が飛んでくる。彼の「おい!」の言い方はつぶてを打つようだった。あんな言い方をしなくてもいいと思う。おれは不器用なのだ。雑というのも意図的な粗暴さとは違う。
何週間かは頑張った。久しぶりに働いたのでひどく疲れた。おまけに通勤は徒歩だったので、夏の太陽が容赦なく照りつけた。やはり働くということはそういうことだった。こんなことを続けられるのは神経が針金でできている人間だけだ。おれはやめようと思いだした。
初めて有紗と出会ったのも合わない仕事でへとへとに疲れていた時期だった。おれは彼女が作るゴーヤーチャンプルーがまた食べたくなった。もっと好みの料理があるのに、なぜそのときゴーヤーチャンプルーが頭に出てきたのか、おれにはわからなかった。
電話は案外あっさりとつながった。
「なに?」と有紗が突き放すように言った。怒っているように見せたいとき、彼女はよくこの言い方をする。
「ブロックされてるかと思ったよ」
「忘れてただけ。これからする」
「じゃあその前にいいか」
「なに? 忙しいんだけど」
「有紗のゴーヤーチャンプルーが食べたい」
「はあ?」
「ゴーヤーチャンプルーだよ。沖縄料理。タイヤメーカーに勤めてる友達が、お前のゴーヤーチャンプルーには星がつくと言ってたよ」
しばらく無言が返ってきた。冗談が気に障ったのかもしれなかった。
「悪かったよ」おれは言った。「ちょっと声が聞きたくなったんだ。もうかけない。それから、あのときのことも悪かった」
おれはそれじゃあなと言って切ろうとした。有紗が「あ」と言った。
「なんだって?」
「あなたに料理の味なんかわからないでしょ。即席麺ばっかり食べてるくせに」
「そうかもしれん」
「一回だけ恵んであげてもいい」
「なんて?」
「だから、一回だけ栄養のあるものを与えてあげるって言ったの。それで少しはまともになれるでしょ」
「ありがとう。助かるよ。でもお前のゴーヤーチャンプルーはいつもべちゃっとしてたよな」
「やっぱり撤回する。二度とかけないで」
電話が切れた。またかけてみたが、もう二度とつながらなかった。
それから何日か経った。電話はつながらなかったが、おれたちはメッセージのやり取りをするようになっていた。初めはたいていおれからだったが、そのうち向こうからも素っ気ない言葉が来るようになった。
九月のいつだったか、おれたちはまた会おうということになった。
電車に乗って会いに行くと、有紗はメンズライクなシャツとズボンのスタイルだった。
「服の趣味って変わらないな」とおれが言った。
「そっちもね。わけのわからない柄のシャツ着るのやめたら?」
「ばかやろう。ファッションは爆発なんだよ」
「意味がわからない」
おれたちはその日、映画を見に行った。有紗の好きな漫画の実写化で、おれはそこそこだと思ったが、暗がりから出ると、有紗の顔は怒っていた。ファミレスに行って話を聞くと、原作とあまりに乖離していてお話にならないそうだった。
「おれはまあまあだと思ったよ」
「あなたとは本当に趣味が合わない」
そう言いながら、有紗はむしろ笑っていた。
おれはそういえばここと同じチェーン店で今野と話したなということをふいに思い出した。あいつはメロンソーダばかり飲み、おれのフライドポテトを平らげるクチャラーだった。あのときの千円札が急にもったいなくなった。
「あの子、どうしたんだろう」
有紗が隣のテーブルの十五、六の少女を見て言った。どうも泣いているらしいのだ。誰かと来ていたのか、テーブルには二人分の食器がある。有紗はおせっかいな女だった。隣のテーブルに席を移した。
最初、なんでもないんですと言っていた少女は、有紗にやさしい言葉をかけられて、話す気になったようだった。
「私、とある男の子と来てたんです。その男の子は学校でいじめられてて……私が味方だよって言ったら、彼、やめてくれって……君まで変な目で見られるだろって言って……私、そんなのいいって言ったんですけど、彼、だめだ許さないって言って、出て行っちゃったんです」
少女は訥々と話した。おれはその男子が今野かもしれないと、なんとなくそう思った。あいつはあれからいろいろあって、女の子をかばうほど強くなったのだ。おれはそう思いたい気がした。
「私にしてあげられることってあるんでしょうか……」
少女はうつむいてしまった。彼女が今野であれば、乳でも揉ませてやれと言うところなのだが、彼女は今野ではなかったし、おまけにここには有紗がいた。そんなことを言えばおれは三途の川の船頭と知り合いになってしまうだろう。
「ただそばにいてあげるだけでもいいと思うんだ」と有紗が言っていた。「そういう人が一人いてくれるだけで、つらいことも乗り越えようって思えるから」
有紗はそういう種類の言葉を何個かかけていた。すると少女はあるとき顔を上げて、有紗に感謝を伝えた。それから、出て行った男子を追いかけてみることにすると言った。おれは青春映画のワンシーンでも見ているような気持ちになった。そしてその主人公格に今野を置いて、あいつも幸せ者だと考えた。
少女が店を出て行こうとしたそのとき、ファミレスのドアが開いた。そっちを見たときの少女の反応から、それが例の男子だということがわかった。その男子がおれの目に入った。今野ではなかった。内気そうだが、今野よりよっぽど中身が詰まっていそうな男子だった。
少女はこっちにお辞儀をして、その男子と一緒に出て行った。
「あの子たち、うまくいくかな?」と有紗が言った。
「別の子のおっぱいを追いかけなければ大丈夫だ」
「誰かみたいにね」
「ところで今晩、予定あるのか?」
有紗はこっちを向いた。それからテーブルの下でおれの足を蹴った。
「許されたなんて思わないでね」
女はゾウのように賢く、忘れない生き物だという。有紗がおれを許す日が来るのかどうか、おれにはわからなかった。しかし有紗といると、その日が来ることを待ってみてもいいという気持ちになる。有紗はどうしようもないほどの貧乳だが、そこにはほかのおっぱいに代えがたい何かがあるのだ。
家に帰ると、今野について考えた。あいつはいまも天気予報を拠り所に生きていることだろう。きっと生きている。そんな気がする。
おれはビールの缶を開けた。そして一人の部屋にそれを持ち上げる。
この世のありとあらゆる今野に幸あれ。




