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「私たち、最初から味方同士でした」~偽りの不仲が、本物の溺愛に変わるまで  作者: 月雅


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第8話「前夜の覚悟」

私は卓の上に羊皮紙を並べた。


夜会前日。伯爵邸の離れ。油灯の火が三つ。いつもより一つ多い。今夜は、読み落としが許されない。


薬品納入記録の写し。未回復患者の証言をまとめた書面。教会の出入り記録の抜粋。そして、教会内部の協力者――孤児院の修道女を通じて接触した、良心的な下級神官から得た供述書。


すべてが、卓の上に揃っていた。


向かいにユリアンが座っている。彼の手元にも資料がある。夜会の会場となる王宮の大広間の見取り図。隣室の構造。教会関係者の動線。奇跡の実演が行われる予定の位置。


「会場の下見は終わった」


ユリアンが見取り図を指で示した。


「奇跡の実演は大広間の中央で行われる。だが、薬品の準備は隣室で行うはずだ。聖女が祈りを始める前に、教会関係者が患者に薬を投与する。隣室から大広間への通路は一本。ここを押さえれば、現場を確保できる」


「証人は」


「騎士団の訓練仲間から二名。信頼できる下級騎士だ。俺と一緒に隣室に入り、教会関係者が薬品を準備している現場を押さえる」


私は頷いた。


「私は大広間にいる。奇跡の実演が終わった直後に、確認の質問をルクレツィアに投げかける。質問の内容は『治療の対象となった患者は、以前にも聖女様のお力をお受けになった方でしょうか』。これだけで、ルクレツィアは答えに窮するはずよ。以前に治療を受けた患者が再び治療対象になっている時点で、前回の奇跡が持続しなかったことを暗に示すことになる」


「そこで俺が証拠を持って入る」


「そう。あなたが隣室の現場を押さえた後、証人と証拠品を伴って大広間に来る。私の質問とあなたの証拠が合流する瞬間が、勝負の分かれ目」


ユリアンが見取り図から顔を上げた。


「動線を確認する。俺は夜会に不仲の婚約者として別行動で入場する。開始後、早い段階で大広間を離れ、隣室の周辺で待機。聖女の祈りが始まったら隣室に踏み込む。証拠を確保したら、大広間に戻る。お前が質問を投げかけてから、俺が到着するまでの間が空く」


「その間は私が一人で場を持たせる」


「王太子が止めに入る可能性がある」


「分かっている」


分かっている。アレクシスは聖女を守ろうとする。私の質問を「元婚約者の嫉妬」と見なして制止するだろう。その圧力に、一人で耐えなければならない時間がある。


ユリアンの灰色の瞳が、真っ直ぐにこちらを見た。


「必ず戻る」


短い言葉だった。だが、その声には、作戦の確認以上の重さがあった。


卓の上に、もう一つの問題が残っていた。


ルクレツィアの最後の中傷だ。


「ニーナ・フォン・アルトシュタットは、孤児を利用した売名行為を行っている」


その噂が、夜会の前日というタイミングで社交界に流された。ルクレツィアの手際は相変わらず正確だった。夜会の直前に私の評判を地に落とすことで、たとえ証拠を提示しても「売名のための聖女攻撃」と見なされる下地を作ろうとしている。


「対処はある」


私は卓の引き出しから、一通の書簡を取り出した。


孤児院の修道女からの感謝状。侯爵家の支援によって子どもたちの生活が具体的にどう改善されたかを、修道女自身の言葉で記したもの。日付、署名、孤児院の印がある。


「これを社交界の知己に見せる。直接反論はしない。ただ、事実を示す」


前世の危機管理と同じだ。中傷に対して声を荒げれば、中傷が本当だったように見える。事実を静かに提示することが、最も効果的な対処になる。


茶会で面識のある令嬢たちの中から、冷静に事実を見る目を持つ数名に、感謝状の写しを届けさせた。侍女を通じて、さりげなく。


ルクレツィアの中傷と、修道女の感謝状。どちらが真実かは、見た者が判断する。


「これで前日の対処は終わりだ」


ユリアンが資料を束ね、見取り図を畳んだ。


作戦の全工程が確定した。


証拠は揃っている。動線は確認済み。役割分担は明確。あとは、明日の夜を迎えるだけだ。


沈黙が落ちた。


油灯の火が揺れる音だけが、離れの居間に響いていた。


「もしこれが失敗したら、お前は侯爵家ごと潰される」


ユリアンの声が、静かに沈黙を破った。


最悪の事態。口にする必要はなかった。でも、口にしなければならなかった。作戦の前夜に、そこから目を逸らしてはいけない。


「わかってる」


私は答えた。


「でも何もしなくても、断罪イベントで潰される。ゲームのシナリオ通りに進めば、私は夜会の場で公衆の面前で罪を着せられて、侯爵家は王太子の敵として社交界から排除される」


ゲームのシナリオ、という言葉が口をついた。


ユリアンは追及しなかった。いつも通りだった。


「なら、自分で選んだ道で負けるほうがいい」


声に、思ったより力がこもった。


前世で過労死した時、私には「選んだ」という感覚がなかった。会社の都合で走らされ、誰かの筋書き通りに消耗して、気がついたら倒れていた。


今度は違う。


この道は、私が選んだ。共犯者も、作戦も、タイミングも、全部自分で決めた。


負けるなら、自分の決断の結果として負ける。


それだけは、譲れなかった。


ユリアンが何かを言いかけた。口が僅かに開いて、閉じた。


それから、別の言葉を選んだように見えた。


「明日が終わったら、一つ聞きたいことがある」


低い声。いつもの淡々とした口調だが、どこかが違った。言葉を選んでいるのではなく、言葉を押し留めているような声だった。


「……作戦が終わってからね」


私は答えた。


聞いてはいけない気がした。今、ここで、その先を聞いてしまったら、明日の作戦に感情が混じる。感情が混じれば、判断が鈍る。


それだけは避けなければならない。


でも本当は、聞きたくないわけではなかった。


この人が何を聞きたいのか、薄々分かっている自分がいた。分かっていて、それを認めるのが怖いだけだ。


契約が終わったら、この関係はどうなるのか。


その問いを、私たちは二人とも、まだ言葉にできないでいた。


翌朝。


夜会の日の朝。


離れの寝室で目を覚まし、ドレスに着替えようと鏡台の前に立った。


机の上に、小さな紙が置いてあった。


ユリアンの筆跡。


「今日は傍にいられない時間がある。必ず戻る」


焼き菓子はなかった。


毎朝、厨房からバターの匂いが漂ってくる日常が、今日だけ欠けている。


その不在が、今日が本番であることを、何よりも雄弁に告げていた。


私は紙を折り畳み、ドレスの内ポケットに入れた。


鏡の中の自分を見た。侯爵令嬢の顔。今夜、この顔で、すべてを終わらせる。

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